第31話 当時中学三年生だった少女が義父を刺殺した事件です

 その夜、僕はソファーで横になって放心していた。

 陽の部屋からは物音ひとつしない。もう眠っているのか。僕はスマホを持つ。暗闇に薄明かりが放たれた。

 LINEに『塩塚瀬里加』が追加されている。その時、ちょうど『塩塚瀬里加』から着信があった。

「もしもし瀬里加さん。どうかしたの」

 スマホを耳に当てて呟く僕。受話口の向こうから瀬里加は『ちょっと気になる事があって』と、潰れたような小声をこぼした。

「気になる事?」

『晴人さんは、私が日本語を話せると思っていなかった。そうですよね』

「ああ、そうだけど――」

 そう言った途端、僕の足元から寒気が這い上がってきた。

『あの時、言った事……覚えていますか』

 そうだ。あの時、僕は言ってしまった――。

 彼女は日本語が分からないと思って、言ってしまった――。

『……人を、殺した』

 その囁きは僕の背骨を凍り付かせた。

 あの時の僕は油断していた。ずっと心の中に隠していた秘密をぶちまけてしまった。重い荷物をいちど地面に置くみたいに。

 僕の舌が乾いてゆく。喉もカラカラだ。砂みたいな味が口の中に広がってゆく。

『晴人さんの事、ネットで調べました。有名人ですよね。藤園晴人で検索すると記事が出てきました。「小学校教員、覚醒剤逮捕」って。晴人さんの写真も載っていました。あの話、本当だったんですね』

「そうだよ。その話はもう良いでしょ。今日は疲れてるんだ。もう用がないんだったら、切るよ」

『あなたはリザと結婚したんでしょ。だからあなたの事は、ちゃんと知らないといけない。でないと信用できない』

「そんな事言われても、困るよ」

 僕が通話から逃げようとすると、受話口から低い声が追ってくる。

『気になって山名陽でも検索してみました』

 えっ――。僕は絶句した。

『十年くらい前のニュースが出てきました。札幌市義父刺殺事件っていう記事です』

「……そ、それは」

『当時中学三年生だった少女が義父を刺殺した事件です。犯人の少女の名前がネットで晒されていました。それが山名陽』

「ぐ、偶然だよ。きっと同姓同名なんだよ」

『画像も載っていました。セーラー服姿の中学生だったけど、どう見ても陽さん本人でしたけど』

 いけない。これだけは絶対に知られてはいけない。僕は口唇を噛み締めた。

『確か晴人さんと陽さんは幼馴染みでしたよね。何か知ってるんじゃないですか』

 あのニュースは晴人も鮮明に覚えている。

 十二年前。札幌市の公営団地401号室。中学三年の女子生徒から「父親を刺した」と110番通報があった。

 警官が急行すると、居間で島田健太郎(45)が血を流して倒れていた。部屋の隅には長女(15)が膝を抱えて座っており、手には血の付いた折れた果物ナイフを握り締めていた。

 その少女が陽だ。

 警官は少女を緊急逮捕。彼女の口元には殴られたような裂傷があり、セーラー服には着衣の乱れがあった。

 島田は再婚した父親で、長女と血縁関係はない。母親が不在の時、少女は今までも何度も虐待を受けていた。その日は性的暴行を受けかけ、少女は手元にあった果物ナイフで義父を刺殺したという。

 島田は背中を九ヶ所も刺されており、腎臓への刺突が致命傷になって出血多量死。

『それに、その事件の記事……なんか変だったんです』

「な、何が変なの」

『犯人の長女は、から押し倒され暴行を受けたって書いてあるんです。でも義父の傷はでしょ。後ろから刺さないと、そうはならないと思うんです』

 やめろ。やめてくれ。

『晴人さん。本当の事を教えてください。でないと晴人さんが人を殺したって言った事、みんなに言いますよ』

 明らかな脅迫の言葉。何も返せない、電話を切る事も出来ない。

『SNSやマスコミ、警察にも言います。あなたが殺人を告白した、って。証拠がなければ警察は動きませんけど、マスコミは動きますよ。だってあなたは有名人なんだから、日本でも台湾でも』

「ま、待ってくれ」

『じゃあ私にだけは教えてください。晴人さんが何をしたのか、あなたを信用するために』

 有無を言わせぬ声の圧力。僕はため息を漏らした。

「あれは、仕方なかったんだ――」

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