第20話 嘘でしょ。ヨシオさんが、そんな……

 僕らが淡水タンスイ區の病院に到着した時、すでに夕方になっていた。病棟に駆け込むと、宗傑ゾーンジェさんがスマホを握って手を振っていた。

「嘘でしょ。ヨシオさんが、そんな……」

 昼過ぎ、ヨシオさんは庭で倒れていたらしい。すぐに救急車を呼んで病院に運ばれたという。急性心筋梗塞だった。宗傑さんも病院に駆けつけたが、すでに心臓は停止していた。

 エレベーターを降り、病室まで案内される。個室だった。名札には『劉芳雄』と書かれている。

 重々しいドアを開けると、病室には夕日が差し込んでいた。

「……ヨシオさん」

 僕はベッドに駆け寄った。

 ヨシオさんが目を閉じて横たわっている。地味な入院着に身を包み、力なく目蓋を閉じている。しわの寄った薄い目蓋の下から眼球の形が浮いていた。胸の上で組み合わせた両手は骨と皮だけ。

 こけた首筋。この喉からの怒声に何度も叱られた。しかしあのしわがれた怒号を聞く事はもうない。

 ヨシオさんは、もう――。

「……こんなの、急すぎるよ」

 僕はベッドの傍らに跪いた。布団から病院特有の清潔で不健康な匂いがする。奥歯を噛んで額をベッドに押しつける。

「僕に、説教するんじゃなかったんですか。まだ怒鳴り足りないでしょ。ほら、目を開けて怒鳴れば良いじゃないですか。ねえ」

「やめろ、晴人」

 咎めた陽の手を振り払い、僕はベッドを叩く。

「起きてくださいよ。僕が来ましたよ! 説教しないんですか!」

「やめろって言ってんだろ!」

 陽は僕の手首を掴んだ。そのまま僕はベッドから引き剥がされ、情けない泣き顔を晒された。

「陽、放せよ!」

 すると陽は小声で言った。

「やめねえと、マジで怒られんぞ」

 その瞬間、布団が微かに動いた。

「……やかましいわ。日本人」

 あの嗄れた声だ。僕は絶句した。

 顔を上げると、ヨシオさんが目を開けていた。その濁った瞳は迷惑そうに僕を見据えている。

「ヨ、ヨシ、ヨシオさん――」

 僕は両目を見開き、喋る死体を指さした。目の前が白んだ。のけ反る僕の背中を陽が支えた。

「ウチらが向かってる途中に、息を吹き返したんだって。ったく、スゲえ爺さんっしょや。つーか肝心なこと言うのが遅えんだよ、宗傑さん」

 振り返ると、宗傑さんも苦笑いを浮かべている。

 宗傑さんの早とちりだったらしい。電話を掛けてきた時は心肺停止状態だったが、その後すぐ医師たちの迅速な処置のお陰で、ヨシオさんは蘇生したという。

「勝手に俺を死人扱いしよって」

 生きてる――。僕は床にへたり込んだ。

「良かった。ヨシオさんが、無事だった」

「お前などに心配される筋合いはない。ほれ、さっさと立ち上がらんか。ったく情けない」

 僕はよろりと立ち上がる。まだ膝が震えていた。ふらつく僕を見て、陽と宗傑さんがにやにや笑っている。

「でも良かったです。僕はヨシオさんが亡くなったかと――」

「まだまだ死なんわ」

 その時、スマホが鳴った。ヨシオさんのだ。

「是啊、我」

 ヨシオさんは台湾華語で受け答えしている。

 しばらく遣り取りした後、ヨシオさんは宗傑さんに何か言った。宗傑さんも「ああ、分かった」的な反応をしている。

「どうかしたんですか」

欣怡シンイーからだ」

 はっと僕は顔を上げる。妹の欣怡からか。

「今、病院に着いたらしい。俺が倒れたと知って慌てていたみたいだな。そそっかしい奴のせいで、俺が死んだと思ったのだろう」

 ヨシオさんが睨むと、宗傑さんは気まずそうに肩を竦める。

 おい晴人、と陽が僕を引き寄せた。

「欣怡をここで捕まえんぞ」

 僕と陽がいる事は欣怡も知らないだろう。音信不通だろうが着信拒否だろうが、身柄を押さえてしまえば無駄だ。全ては数分後に明らかになる。真実を話してもらおう。

 廊下から騒がしい足音が近付いてくる。勢い良くドアが開いた。

「爺爺、不要緊嗎!」

 来た――。

 張りのある声が病室に反響する。飛び込んできた少女は一目散にヨシオさんの元へ駆けつける。

「好。是平安的!」

「請寒暄客人。すまんな、お前たち。この欣怡が世話になったみたいで」

 少女は僕らを向く。目が合った僕は言葉を見失う。

 誰だ――。

 背は高く、肩幅もしっかりしたスポーツマン体系。髪も男子のように短い。小麦色に焼けた顔は活発さを全面に滲ませている。

 この子は、欣怡ではない――。

「このお転婆め。大学も行かずに、日本人とほっつき歩きよって」

「ちょっと待って、ヨシオさん……」

 欣怡と呼ばれた長身の少女が僕を向く。彼女の瞳が好奇に輝いた。

「Are you Haruto? コンニチワー、ハジメマシテー、アリガトー」

 欣怡と呼ばれた子が僕の手を取った。流暢な英語に片言の日本語。僕も「……初めまして」と頭を下げた。

「何を言う。欣怡はお前らの店に入り浸っていたのだろう」

「ち、違います。僕らは、この子を知らない」

 はっ、とヨシオさんは口を開ける。

「昨日まで僕らと会っていたのは、この子じゃありません」

 僕と陽は順を追って、この数日の出来事を説明する。

「つまり、うちの欣怡を名乗る女から……お前へ依頼があった、と」

 腕組みして頷く陽。

「ああ、そういう事だね」

 この長身の少女が劉欣怡である事は確からしい。

 気味が悪いのは欣怡の名を語っていた、あの女。当事者の欣怡は眉間にしわを寄せ、不安げな声で何かを言っていた。

「皆さん。心当たりはありませんか、欣怡さんのふりをしていた女性について。身長は150センチくらい。痩せ型。けっこう美人だけど無愛想」

 僕が言った事を陽が中国語に訳す。しかし本物の欣怡も宗傑さんも苦い顔を横に振るだけ。

「晴人、ちょっと来い」

 僕は陽に病室から連れ出された。

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