第10話 アンタ平和ボケしてんな

 翌朝、僕と陽はアパート近くの肉粥ニゥユー屋で朝食をとっていた。

多桑トーサンってヤツっしょや」

 陽は納得したように口を開く。

「トーサン? 何それ」

「日本語でそのままトーサン。『お父さん』って意味」

 陽は指先で『父』という字を宙に書く。僕はあっさり味の肉粥をかき込み、首を傾げた。

「日本統治時代育ちの男は、そのまま亭主関白の親父になるべ。昔の日本にもいた『昭和のお父さん』ってやつ。そんな人らが、こっちじゃ多桑トーサン世代って呼ばれてんの」

 もう化石みたいなもんだけど、と陽はからっと笑った。

「多桑世代っていや『ザ・頑固親父』だからね。日本で言えば戦後育ちの爺さんだ。晴人みたいなナヨナヨ男なんて、見てるだけでなまらムカついてくるべさ」

 同じような事をヨシオさんにも言われた。

「さてさて。そろそろウチらも仕事始めようか」

 

 通勤ラッシュ時の道路は日本よりも混み合う。スクーターのハンドルを握る陽の背中に、僕は必死になって捕まっていた。

 何より日本と違うのはスクーターの数。走行する車間を縫うようにスクーターが入り込んでくる。しかも二人乗りも当たり前だ。信号が青になった瞬間、何十台ものスクーターが一斉に走り出す。

「台湾はスクーター大国だべ。十六歳以上は一人一台持ってる。とにかく台湾人は歩くのを面倒臭がるからな。都市部以外では交通の便も悪いから、こっちで生活するならスクーターがなきゃやってられないんだよ」

 ハンドルに固定したスマホに喋っている。移動シーンも撮影しているらしい。

「だからスクーターで通学する学生も珍しくないってワケ。さあさあ、本日の目的地に着きましたー」

 泰山タイシャンの大学に到着した。ここは凜風リンファが通っていたキャンパスだ。

 レンガ造りのレトロな建物。昔の東京駅のようだ。正門前の駐輪場に、ずらりとスクーターが停まっているのが台湾らしい。

「今日は飛び込み調査じゃねえから楽だわ。ホント晴人のおかげで話が早かったよ。冥婚してくれてサンキュ」

 陽が大学側にアポを取っていたらしい。応じてくれたのは生前の凜風の担当教授。日本でいう『ゼミの先生』だ。

 死後の夫である僕の名前を出すと、教授は情報提供を快諾してくれたという。また僕はダシに使われた、というワケだ。

 陽は物珍しそうにラウンジを見渡す。まるでホテルのロビーのような上品さと静けさ。

 凜風はこの大学の学生、だった。

 人文学部の二年生。文化人類学を専攻。白色テロの厳戒態勢の下では日本統治下の過去はもちろん、自ら民族の歴史研究すら禁じられていた。台湾人にとって日本人とは何か、中国人とは何か。さらに昔に統治していたオランダ人とは何か。そして台湾人とは何者か。それを凜風は知ろうとしていた。

 十分ほど待っていると、半袖カッターシャツの男性がやってきた。

「想見。我是『陽ちゃんの闇CH』」

 陽が愛想良い笑顔で手を差し伸べると、男性も「你好」と挨拶して握手を交わした。

「日本語で大丈夫ですよ。私も話せますから」

 滑らかな日本語を操る男性。人文学者のファン教授だ。細身で背が高く、銀フレームの丸メガネが知性を醸し出している。

「テレビで拝見しました。リザの花婿になられた藤園さんですね」

 僕とも握手を交わす。黄教授は僕らをソファーに促した。

「今日は、リザの話でしたね」

「ええ。ご存知の通り、僕が婿になったんですけど、彼女の事を何も知らなくて」

 黄教授はソファーに掛けて指を組み合わせる。

「彼女は、情熱を持っていました。リザほど熱い学生は初めて見ました」

 陽が身を乗り出して尋ねる。

「熱いってのは?」

「研究対象。つまり日本に対しての情熱です」

 僕と陽は顔を見合わせる。だいたい聞いていた話と同じだ。

「リザのお祖父さんが日本統治時代育ちだとか。おそらくその影響も強いかと思いますが、とにかく日本への愛情が強かった。近頃の哈日族ハーリーズーと呼ばれる若者たちとも、どこか違いました」

「日本への留学も経験していたんですよね」

 僕が尋ねると、黄教授は小さく二度頷いた。

「一年生の頃です。交流協定のある大学が関東にありましてね、一年間そこに通っていました。もともと日本語は堪能でしたが、帰って来る頃には細かい言い回しまで使いこなしていました」

 西洋では、日本語は世界一難解な言語と言われている。しかし普段から日本語に親しんでいる台湾人からすれば、習得しやすい言語の一つらしい。しかも凛風の場合、実家に日本語母語話者のヨシオさんもいた。

「リザは祖国である台湾も大好きでした。だからこそ、普段は穏やかな彼女が熱くなってしまう事柄もあるのです」

 熱くなるって、と僕は繰り返す。黄教授は呼吸を置いて呟いた。

中国チャイナの事です」

 黄教授は辺りを見渡し咳払いする。小声で続けた。

「いま台湾では、国名表記について議論されています。オリンピックなどの国際競技大会だと、この国は中華民国台湾――英語ではChinese Taipeiと表記されます」

「えっ、台湾は台湾でしょ。なんでチャイニーズ、、、、、、が付くんですか」

 僕も気になっていた。桃園空港に到着した時も、パスポートに『台湾』ではなく『中華民国』と表記されたビザを貰った。

「複雑の歴史があるんです。台湾は独立国なのか、それともチャイナの一部なのか。とてもデリケートな問題になっているんです」

 かつて日本が撤退した後、代わりに台湾を接収した中国国民党に酷い目を遭わされたとヨシオさんから聞いた。

「台湾に来たのは中国国民党――つまり中華民国ですよね。今の中国――中華人民共和国とは関係ないじゃないですか。どうして台湾が中国の一部だなんて事になるんですか」

「そこが問題なのです」

 黄教授は僕の目を見て頷いた。

「今の中国は中国共産党が政権を握る国家です。第二次大戦後、毛沢東ひきいる共産党軍が国民党を破り、新たに建国されたのが中華人民共和国です。一方、国民党の蒋介石はここ台湾に逃れてきました。つまり台湾はかつて中国チャイナと呼ばれた国が縮小された地、中華民国政府の成れ果てとも言えるのです」

 中正紀念堂チョンシェンチーニェンタンには蒋介石の巨像がある。蒋介石は台湾を代表する偉人なのかと言えば、全ての国民にとってはそうでないようだ。

「歴史学の講義です。学生同士で『台湾という国の呼称』について討論ディスカッションをさせたのですが、そこでリザが……」

 じっと続きの言葉を待っていると、黄教授は言いにくそうに口を開いた。

「中国人の留学生と口論になりまして」

 僕は眉を寄せる。

「口論。凜風さんが?」

「私も驚きました。リザが大声で相手を攻撃するなんて。留学生が『中華民国だからChinese Taipeiが正しい』と言った途端です」

「キレた、って事ですか」

「口論と言いますか、リザが一方的でした。『中国に台湾は渡さない!』と大声で怒鳴ったのです。ただの留学生に敵意をぶつけたのです」

 写真しか見た事がないが、穏やかな女性だと思い込んでいた。白い肌の清楚な彼女に、そのような一面もあったとは。

「渡さない、って。戦争じゃないんだから」

 僕がぼやくと、陽は「アンタ平和ボケしてんな」と鼻で笑った。

「中国政府は、台湾は中国の領土だって主張してんの。『一つの中国』って聞いた事ねえべか。香港もマカオも、そんで台湾も、ぜーんぶ中国の物って言ってんの。最近でもロシアがウクライナ侵攻してるドサクサに、台湾の防空識別圏に戦闘機を飛ばして威嚇してきやがった。それにアメリカのペロシ下院議員が訪台した時にミサイルをぶっ放してきただろ」

「えっ、何それヒドい」

「日本も他人事じゃない。日本の排他的経済水域(EEZ)内にもミサイルを撃ってきた。領海侵犯も前月より倍に増えた。尖閣諸島だって『中国にとって核心的利益』とか言ってるべ。まだ戦争じゃないにせよ『いつか貰うからな』宣言っしょや。ぶっちゃけ、いつ戦争になってもおかしくない」

 へえ、と僕は頷く。

「中国共産党は日本や台湾以外でもてる。フィリピンやインドネシアでも領海侵犯してるし、国内では新疆しんきょうウイグルやチベットで人権弾圧もやってる。再教育って名目で他民族を強制収容所にぶち込んで拷問してんだ。ウチらの常識では考えられない事を平気でやっちまうのが共産党政府なんだよ。だから台湾への武力侵略、つまり台湾有事ってのもあながちあり得ない話じゃないって事さ」

 その時、ラウンジの廊下の向こうから足音が近付いてくる。

「對不起、遲到了!」

 甲高い女性の声。ふと見ると、アロハシャツに白ハーフパンツの若い女性が駆けてくる。学生だろうか。

「彼女はハンナ。私の受け持ちの学生で、リザとも仲の良い友人です。リザの交友関係なら彼女に聞いた方が良いでしょう」

 ビーチサンダルをペタペタ鳴らして駆け寄る彼女。雨の多い台湾ではビーチサンダルは標準装備だという。どうせ足元が濡れるから初めから濡れても大丈夫な物を履いているらしい。

「こんにちはハルトさん。ハンナです」

 日本語も分かるらしい。彼女は好奇の瞳を僕に向ける。

「晴人さんたちが来ると知って、ハンナもぜひ会って話したいという事になりまして。夏季休暇ですがわざわざ来てくれたんです」

 よろしくデス、と首を垂れるハンナ。

「凜風さんと仲が良いんですか」

「ハイ。デモ最近遊んでまセン。夏休みになって、七月くらいから連絡が取れなくテ」

 七月と言えば、凜風が近所の早餐屋でも目撃されなくなった頃だ。

「ちなみにハンナさんは、あのFacebookの書き込み、見た?」

 顔をしかめて頷くハンナ。つらそうに息をついた。

「助ケテ、だよネ。見たヨ。ジョークだと思ッタ。デモそのチョット後に……」

 命を落とした。すると陽は「うーん」と唸って足を組む。

「日本語で書き込みしてあったんだよね。凜風のアカウントって日本人のフレンドが多いんか?」

「んー。ホカの人よりは多いんじゃないカナ。留学してたシ」

「日本語でコメントしてるって事は、日本人のアカウントに向けたメッセージって事だろ。よりによって、最期の時の直前に」

「リザがメッセージする人、思い出シタ! Serikaって人!」

 陽はハンナの言葉を繰り返す。「セリカ?」日本人の名前だ。

 その『セリカ』という人物は、凜風の投稿があれば必ずコメントを残していたらしい。ネットだけの友人か、面識のある友人か分からないが、頻繁に連絡を取り合っていたという。

「ファミリーネームは覚えてる?」

「んんん。Shiotsuka……だっけ。ナンカ言いづらいノ」

 シオツカセリカ。

「したっけ『シオツカセリカ』って人なら、凜風の『助けて』の意図が分かるかも」

「そんな事言ったって、どうやって探すんだよ。Facebookには同姓同名だってたくさんいるんじゃないか」

 陽はにんまり笑って口を開いた。

「総当たりしかないっしょや」

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