第8話 そう、僕は人を殺した事があるんだ

 僕は陽のアパートに戻り、一階の店のテーブルで動画のチェックを始める。

 陽は店の営業準備に取り掛かるのかと思えば、部屋にこもって昼寝しだした。僕に映像編集を任せておいて良い身分だ。

「君は、寝なくて良いの?」

 テーブルの向かいに座る欣怡シンイーはスマホを操作していた。僕らが撮影から戻った時、彼女は『大阪の小陽』のシャッターの前で待っていたのだ。

 僕の言葉が分からないのか、声を掛けても一瞥しただけでスマホに目を落とす。

「君のお姉さん、どんな人だったんだろう。皆の言うとおり、愛想がよくて親切な人だったのかな」

 欣怡は僕に目を向け、困ったように首を傾げていた。

「僕にはもったいないよ、凜風さんみたいな素敵な女性は。僕みたいな――」

 そこで僕の喉は支えた。言葉が詰まって出てこない。

 良いじゃないか、彼女に僕の言葉は分からない――。

 吐き出して楽になりたかった。心に凝った泥のような感情は、僕の心臓に絡みついて呼吸の邪魔をし続けている。吐き出したい。

「僕は、犯罪者なんだよ」

 僕の言葉は誰にも受け取られずに、油で汚れた床に落ちて転がる。それでも感情を吐き出しただけで楽になれた。

「これでも僕は小学校の先生だったんだよ。東京の郊外の学校で、それなりに穏やかな人生を送ってたんだ」

 良い感じだったんだよね、と僕は息をつく。

「良いお嫁さんだって貰ったんだ。茉由まゆっていってね、婚約してたんだよ。職場恋愛で三年間付き合って、去年プロポーズしたんだ。そうだよ去年だよ」

 僕が自嘲して鼻を鳴らしたが、欣怡は無表情に見ているだけ。

「ハワイに新婚旅行して、練馬にマンション買って、良い感じの新婚生活を計画してたんだ。でも良い感じなのもすぐ終わった。僕がね、逮捕されたんだ……」

 溜息がこぼれる。同時に目の奥が熱くなった。

「僕だってよく分かんない。その日は、僕の婚約祝いパーティーだったんだ。それで皆で飲んでたら酔っ払っちゃって、道端で居眠りしちゃっててさ。それで、警官に職質されてポケットの中を見られたんだ」

 僕は大きく息をついて天井を見上げた。

「そしたらさ、入ってたんだよ。覚醒剤が」

 それで、と僕は手のひらを見据える。

「僕は知らない。いつの間にか入ってたんだ。それで僕は逮捕されて、留置場に入れられて取調べされて。違うって言っても誰も信じてくれなかった。何日も閉じ込められて、取調べの毎日が終わらなくて」

 僕は刑事の前で認めてしまった。認めた方が早く釈放されると言われ、僕は無実の罪を認めてしまった。

「ニュースでも報道されたよ。教員が覚醒剤所持で逮捕ってさ。顔も名前もメディアに出た。酷い目に遭ったのは僕だけじゃない。婚約者の茉由もだよ。SNSで本名と顔写真と職場も特定されて晒された。僕の周りもみんな不幸になったんだ」

 裁判では執行猶予が認められ、幸いにも実刑は免れた。しかし全てが何もなかった事にはならない。

「もちろん婚約は破棄さ。向こうの両親からも責められるし、職場にもいられなくなるし。全部失ったんだよ。顔も名前も晒されたし、再就職先なんか見つからない。僕は日本で生きていけなくなった。だから僕は逃げて来たんだ、陽のもとへね。ダサいだろ」

 欣怡は無関心な顔を僕に向ける。知らない言葉で長話をされ退屈だろう。僕は力を抜いて続ける。猫にでも話しかけている気分だ。

「実はね、初めてじゃないんだ。罪を犯したのは」

 自然と言葉がこぼれた。粘っこい汗が背中に滲む。

「あれは、中学生の時だった。やっちゃった、と思ったよ。そう、僕は人を殺した事があるんだ」

 言ってしまった――。

 言葉が次々とよだれのように垂れ流れる。気持ち良い。

「でもあの時は、誰からも責められなかった。僕があの男、、、を殺したのに、誰も僕を悪者にしなかったんだ。少年法? そんなモノなくたって僕は安全だったんだ」

 ぜんぶ陽のおかげで――。

 僕は立ち上がり、二階のキッチンに向かう。喋り続けて喉が渇いた。シンクの下の棚にミネラルウォーターを買い置きしてあったはずだ。

「欣怡さんの分も持って行こうかな」

 棚を開けると、何やら封筒が目についた。ペットボトルの隙間に挟まっている。紙質の粗い茶封筒だ。

「陽のやつ、こんな所に何置いてんだよ」

 そっと封筒をつまみ上げる。重い。裏面に『謝禮』と手書きされている。謝礼、と読むのか。開いた封筒の口から札束が覗いた。

「えっ、お金。しかも、こんなにも」

 僕は咄嗟に封筒を手放した。

 二千元札が見えた。ざっと百枚はある。もし全て本物の二千元札なら日本円にしておよそ八十万円。

 大金だ。そもそも『謝禮』とは何の礼だ。店の売り上げとも思えない。まともな金ならこんな所に隠してはおかない。どこからの金だ。

「何してんの」

 陽の声。僕は震え上がった。

「いや、その……水を飲もうと思って」

「水なら冷えたのが冷蔵庫にあるっしょや」

 そうだったな、と僕は平静を努める。

 ペットボトルを取り出し、一気にあおった。心臓が激しく暴れる。封筒を触っているのを見られなかっただろうか。

「電話掛かってきたべさ。アンタ宛に」

 振り向くと、陽はスマホを持っていた。僕が「誰から?」と聞き返すと、陽は意味ありげな笑みを浮かべた。

「アンタの嫁さんとこの爺さんからだべ」

 そろりと顔を上げる僕。「え。マジ」

「いつまで待たせるんだ無礼者ッ、だってさ。ブチギレだったよ」

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