吐血潮流 下

 ……マジだったのだが。

「ボクは何をやっているんだろう……」

 頭を抱える。

 攻牙は、いまだに学校にいた。

 正確には、校舎の辺境に位置する図書室である。時刻は三時過ぎ。飴色を帯びはじめた大気が動き、窓から涼しい風が吹き込んでくる。校庭が一望できる窓際の席で、攻牙は時間が無駄に過ぎるのをじっと耐えていた。

 グランドでは、野球部が練習に精を出している。高等部のむくつけき野郎どもがランニングをしている横で、小学生の子供たちがわいのわいの言いながらキャッチボールに興じていた。

 紳相高校の隣には公立の小学校があるのだが、ド田舎なので子供の絶対数が少なく、いちいち学校ごとにでかい運動場を造るのは不経済極まりない。そのため高校のグランドを他校の生徒にも解放し、自由に使わせているのだ。

 いやそんなことはともかく。

「なあオイ霧沙希」

「うん?」

 隣の席につく霧沙希藍浬は、読んでいた本から顔を上げた。

「ボクはなんでここにいなきゃならないんだ」

 場所が場所なので、小声である。

「ふふ、諏訪原くんのところに行きたいの? でも駄ぁ目。若い二人の邪魔をしちゃあ、ね?」

「いや……ね? とか可愛く言われてもな」

 霧沙希の場合、普段の大人びた言動とのギャップがなんかヤバい。

 ――って何を考えてるんだボクは。

 自分の頬をぺちぺちしながら状況を整理する。

 篤とごわす女の待ち合わせ場所に向かい、世界の存亡をかけた戦いに超巻き込まれる。これこそが攻牙の目下の目標なわけであるが……

 それを嫌う篤の差し金によって、霧沙希藍浬が立ちはだかっているのだ。

 ……いや、立ちはだかっているというか、座って本を読んでいるだけなのだが。

 それでも立ち去ろうとすると、ひょいと白い手が伸びてきて腕をつかまれる。つかまれたのなら振り払えばいいだけなのだが、

「……うぅ」

 攻牙はそれを振り払えなかった。

 霧沙希藍浬の手は、ひんやりとして柔らかい。

 ――いやだからなんなんだよ!

 攻牙は自分が何を考えているのかよくわからない。

 だが、努めて冷静になって考えてみると――

 ――多分ボクは霧沙希の意に沿わないことをするのが恐ろしいんだな。

 そういう答えが出る。

 霧沙希が恐ろしいのではない。

 しかし、彼女の笑顔を曇らせることに、かなり大きな抵抗を感じるのだ。

 霧沙希藍浬が悲しむと、何か恐ろしいことが起きる。そんな気がしてならない。いや、彼女が自分の意志でその「恐ろしいこと」を起こすわけではない。だが、攻牙には想像もつかないような因果を辿って、結果的にとんでもない事態になってしまいそうな気がするのだ。

 なぜそんな気がするのかは自分でもわからないが……

 霧沙希藍流は、桜の花のような笑顔を浮かべる少女だ。

 他人を安心させることにかけて、彼女以上の人間にはお目にかかったことがない。

 だから、そんな笑顔を壊すような奴はバチを当てられてしまうんだろうな、多分。

 と、攻牙は思う。ごくナチュラルに。

「なぁ霧沙希」

「うん?」

「そもそもなんでお前はこんな所で本を読んでいるんだ?」

「あぁ、本当は専用の部室でできたら一番なんだけど、わたしの部活動は部員が三人しかいないから、部屋まではもらえないの」

「部活動……ってお前部に入ってたのか」

「ふふ、そうよ。これでも部長なんだから。『文芸研究殺人事件』っていうの」

 殺人……事件……?

「……えーと悪いもう一度言ってくれるか?」

「『文芸研究殺人事件』」

「それが部名なのかよ!」

 意味わからん。

「だって『文芸研究部』じゃ地味そうで誰も入ってくれないじゃない?」

「なんで『殺人事件』で入ってもらえると思った!」

 霧沙希藍浬が何か言いかけた時、フッと黒い風が吹き抜けた気がした。

「いやいや、殺人事件の文字は間違いなく目を引くよ。なんというか、ロマンとミステリーの香りがするね。部の目的ともマッチした素晴らしいネーミングだと思うよ」

 別の声がした。

 見ると、謦司郎が本を何冊か抱えてそこに立っている。

 こいつが唐突に表れるのはいつものことなので、攻牙もさほど驚かない。

「頼まれていた資料を持って来たよ霧沙希さん」

「ありがとう闇灯くん。いつもごめんなさいね」

「はっはっは」

 謦司郎は髪をかき上げた。

「霧沙希さんの制服ごしに浮かび上がる起伏豊かなわがままボディを脳に焼き付けて今夜の自家発電の燃料にするという計り知れない恩恵を得るためならこんなことぐらいどうってことないよ!!」

「せめて本人の前では言わずにおけよアホかお前は何さわやかな笑み浮かべてんだよ!」

「ふふ、大丈夫よ。闇灯くんってすっごく紳士なんだから」

「ちょっとは気にしろよ霧沙希も! こんなド直球なセクハラに慣れ親しむなんていう無意味な適応能力はいらねえんだよ!」

「はいはい攻牙。図書室では静かにね」

「なんでボクだけが騒いでるみたいな雰囲気にしてるんだ!」

 しかし実際問題、周囲の迷惑そうな視線が痛くなってきた。図書室を見渡してみると、十人前後の生徒が思い思いの位置で読書や勉強に勤しんでいる。しぶしぶ矛を収める。

 そこで攻牙は我に帰る。

 ――脱線してるじゃないか!

 そもそもは、さりげなくこの場所から移動させるよう仕向けて、移動中にひそかに姿を消そうという目論見のもとに会話を始めたのに、もう目的がブレている。

 ――このままでは奴らの決闘現場に行けねえ……!

 どうにか霧沙希を説得できないものか。

 しかし攻牙の目的を正直に話したところで同意が得られる可能性は果てしなく低い。それどころか篤とごわす女が戦おうとしているということ自体信じはしないだろう。

 ――くっそーどうすりゃいいんだ!

「あら……?」

「どうしたの? 霧沙希さん」

 不意にグランドの外に目を向ける藍浬。

 視線の先には、学園のそばを通る道路があった。

 今そこに、不可解なものが走っている。

「あそこって、バスなんか通ってたっけ?」

 そう、バスだった。

 緑と白のツートンカラーが目に優しい、何の変哲もないバスだった。

「うーん、聞いたことないけど」

 謦司郎は顎に手を当てる。

「……おいちょっと待て上に誰か乗ってないか」

 攻牙は立ち上がって身を乗り出した。

 ……確かに、その怪しいバスの上には、小柄な人影がある。

 中で座っているのではなく、屋根の上に立っているのだ。

「それに、なんか持ってるね」

 謦司郎が攻牙の横に並ぶ。

 怪しいバスの上の怪しい人影は、大きな柱状の物を手に携えている。どう考えても持ち上げられるような大きさではないのだが、人影は何の苦もなくそれを片手で保持していた。

「よく見たら、ウチの制服を着てるわね」

 藍浬も横に並ぶ。

 怪しいバスの上で怪しい柱状の何かを持った怪しい人影は、バスが近づいてくるにつれて、紳相高校の女子制服を着ていることが明らかになった。

「あれって……ひょっとして……」

「鋼原さん……?」

 謎のバスは、唐突に向きを変えた。ただの自動車ではありえない、急激な方向転換だ。

「かぁぁちこみでごわすぅぅぅぅぅぅ!!」

 甘ったるい声。

 攻牙たちのいる図書室へと鼻先を向けると、ロケットエンジンでも付いてるんじゃないのかと思うほど爆発的に加速した。

「な……!」

 門から突入、などという礼儀正しいことを彼女はしなかった。

「やばい――おいお前ら逃げろーッ!」

 攻牙が野球部の連中に怒鳴った。

 次の瞬間。

 金網のフェンスを突き破り、直接グランドへ鋼鉄の巨体が侵入した。

 道路から学校の敷地までの間は傾斜になっていたので、勢い余って宙を舞う。

 さすがに悲鳴を上げる野球部員たちの頭上を飛び越え、グランドの中央に着地した。

 衝撃で二回ほどスピンしてから停止したバスは、そのまま何事もなく走行開始。

 まっすぐこちらに向かって突っ込んでくる。

 紳相高校の安っぽい木造校舎など一瞬で突き崩せそうな、凄まじいスピードである。

「きーりさーきセーンパーイ! ハンカチ返しにきたでごーわーすーよー!」

 バスの上で、手に持った柱状の何か――バス停に見えるが目の錯覚だろう――をブンブン振り回しながら、鋼原射美は声を上げている。

「……あらあら」

 藍浬が困ったように微笑んだ。

「こっちよ~! 鋼原さん」

 手を振りながら、呼びかける。

「言っとる場合かーッ!」

 攻牙は藍浬の手を掴むと、渾身の力を込めて引っ張った。

 瞬間、直前まで三人が立っていた位置の壁が爆発し、震動と轟音が校舎を揺るがした。砕けた窓ガラスは滝のように室内へと降り注ぐ。本棚は次々と倒れ、中の本が次々と床に散らばっていった。図書室に残っていた生徒たちの悲鳴が飛び交っている。

「ゲホゲホッ! くっそ無茶苦茶だ!」

 もうもうと立ちこめる粉塵にせき込みながら、攻牙は身を起こした。

 瓦礫が散乱する中に、巨大な影が浮かび上がっている。ヘッドライトが不気味に明滅している。バスだ。バスが壁を突き破って図書室に突っ込んできたのだ。

 しゅたっ、と目の前に細い足が降り立った。

「うふふ~、愛と吐血と喀血の轢殺系美少女、セラキトハートただいま参上でごわす♪」

 そして周囲を見渡し、

「……惨状なだけに!」

「全っ然上手くねえんだよバカヤロウ! いきなり何をしてくれちゃってんのお前! なんでバスで突入してくんだよ! どうやって運転してたんだよ! いろいろと意味不明だよ!」

「あらら? 誰かと思えばおマセなおチビちゃんじゃないでごわすか。篤お兄ちゃんのところにいるんじゃなかったでごわすか? いま何年生でごわすか?」

「お前より一年上だよムカつくなオイ! つうか篤のところにいるはずなのはそっちだろ! 何でお前ここにいるんだよ! 篤と決闘してるんじゃねえのか!」

「あぁー、それはあの、すっぽかし……ゲフンゲフン、サボったでごわす」

「そこで言い直す意味が本気でわからねえよ!」

「イチバン大きな敵戦力である諏訪原センパイをウソの約束で遠ざけ、そのスキに任務を達成してしまおうという高度なセンリャクでごわす」

「あー……なるほど」

 バカ正直な篤なら間違いなく引っかかるな。

「ふふ、元気な登場ね、鋼原さん」

 そこへ、藍浬が微笑みながら歩み寄る。

「この惨状を見て元気の一言で片づけるのかよ霧沙希。どれだけ人間がでかいんだよお前は」

「霧沙希センパーイ! ハンカチ洗ってきたでごわすよ~♪」

 しっぽ振る子犬みたいな勢いで駆け寄る射美。

「はい、どーぞでごわす♪ ピッカピカでごわす♪ 一年生でごわす♪」

「ありがとう。気を使わせちゃったわね」

「そんなことないでごわす~とんでもないでごわす~」

 頬に手を当ててくねくねする射美。

 いつの間にかやたらと好感度が上がっている。

「あぁ、かぐわしいユリ科の香りがするね……」

「瓦礫の中から顔を出した第一声がそれかよ」

 どうしようもなく頬がニヤついている謦司郎。

「でもいきなりバスで図書室の壁を壊すのはダメよ? 図書室は静かに使わなくちゃ。みんなビックリしちゃうわ」

「はぁ~いでごわす!」

「そんなレベルの問題じゃねえ!」

 攻牙のツッコミはスルーされた。

「ところで霧沙希センパイ。今、お時間は大丈夫でごわすか?」

「あら、なにかしら」

「ちょっと射美と一緒に来てほしいでごわす~」


 ごすっ……と。

 鈍い音がした。


「……っ……?」

 藍浬の鳩尾に、射美の拳がめり込んでいた。藍浬はきょとんとした顔のまま、ゆっくりと崩れ落ちる。

「おっとっとぉ」

 射美は藍浬の体を支える。

「ごめんなさいでごわす~。でも任務でごわす~。あ、よっこいせっと♪」

 掛け声と同時に藍浬の体を背負った。

「さぁ~てそれじゃあ……」

 唖然とする周囲の視線を意に介さず、射美は天に向けて手を伸ばした。

接続アクセス! 第七級バス停『夢塵原公園』、使用権限登録者プロヴィデンスユーザーセラキトハートが命ず! 界面下召喚!」

 幾筋もの光が、射美の頭上から降り注ぐ。空中のある一点から漏れ出しているそれらの光は、やがて一つに纏まりながら爆裂した。

 ――顕現する。

 神意の木霊。

 荒ぶる龍をつなぎとめる楔。

 射美の手の中に出現したソレは、荘厳な気配を纏いながら低い唸りを発した。

 全長は二メートル超。片方の先端には丸看板。もう片方には台形のコンクリート塊。始源にして究極のスタイル。青地に白の文字で『夢塵原公園』の文字が、清澄なる燐光を放っていた。

 あまりの神々しい姿に、図書室にいたすべての人間は息をするのもわすれて目を見張っていた。

「すっげー」

「なに、あれ」

「ていうか誰あの子」

「あれだよ、ちょっと前に転校してきた」

「ヒャッハー! 上玉だぜェーッ!」

「こっち向いて~!」

 声に応え、射美は視線を巡らせると、ニコニコしながら出現したバス停を振り上げた。

「そ~ぉれ♪」

 軽く振り下ろす。轟音。打ち据えられた床を中心に直径数メートルのクレーターが出現した。砕け散った床の木材が四散して生徒たちを襲う。

 あちこちで「ぎゃあ」「痛ぇ!」「うわらば!」「僕の美しい顔が!」悲鳴が上がった。

「え~っとぉ、今のはホンキの十分の一でごわす♪ もっと痛い目に遭いたくなかったら地べたに這いつくばって大人しくしてるでごわす♪ 間違ってもケーサツに通報したり、スマホで誰かに連絡したり、あまつさえ射美のジャマをしたりしないでほしいでごわす♪ そんなことする悪い子はプチッてつぶしちゃうでごわす♪」

 場が凍りついた。

 射美は満面の笑みを残して踵を返すと、そのまま壁から突っ込んできたバスの方へと歩いていった。

 耳が痛くなるほどの沈黙が、辺りを包み込んでいた。射美が瓦礫を踏みつける音だけが続いている。床板を粉砕しながら広がるクレーターは、人間をモザイクが必要な物体へと簡単に変えられることを証明していた。

 ……これ以上ない示威行為だった。

 誰ひとりとして動くことができず、固唾を呑んで射美が去ってゆくのを待つばかり。

 ――そのはずであった。

「おいコラてめえちょっと待てや」

 甲高い声がした。

 小学生みたいな声がした。

「えっと何? 今よく聞こえなかったんだけどよぉ何だって? え?」

 立ち上がった奴がいた。

 睨みつける奴がいた。

「痛い目に遭いたくなかったら? あ? なんか言ったよなその後なんだっけオイ」

 鋼原射美――否、セラキトハートがゆっくりと振り返った。無表情だった。

「あっれれぇ~? 射美の声が聞こえなかったでごわすかぁ~?」

 ドブに繁殖する細菌でも見るような眼で、身の程知らずなことを言い出した輩を見下した。

「ミドリゾウリムシと黄色ブドウ球菌くらいの戦力差があることを、今の一発でわからせたつもりだったんでごわすけどぉ~」

 逆にわかんねえよ。

 攻牙はセラキトハートに指を突き付けた。

「お前は次に『おチビちゃんはつぶされちゃいたいんでごわすね?』と言う!」

「おチビちゃんはつぶされちゃいたいんでごわすね? ……ハッ!」

 ――やっべ一度やってみたかったんだこれ!

 地団駄を伴うガッツポーズで大喜びした。

 攻牙が最大の敬意を捧げる偉人(架空)の決め台詞なわけだが、ここでやる意味は特にない。

 しかし予想外にうまくいってしまい、なんとなく調子こいた攻牙はさらにでかい口を叩く。

「くっくっくジャマをするなら痛い目に遭わすだと? ナメてんのかてめえそりゃこっちのセリフだ! 痛い目に遭いたくなかったら霧沙希を置いていけコラ!」

「あらあらおチビちゃんはひょっとして射美をやっつけて霧沙希センパイを取り戻そうなんて身の程知らずなことを考えてるんでごわすかぁ?」

 攻牙はゆったりとした足取りでセラキトハートに歩み寄った。

「考えてるんでごわすよこの野郎っと」

 なんかダルそうに首をコキコキ鳴らすと、人をナメくさった眼でニヤリと嗤った。

「来な一年坊主。もう始まってるぜ」

 あまつさえ揃えた四指をくいくいっと曲げて『さっさとかかってこい』のジェスチャーをする。

 セラキトハートは不審そうにその様子を見ていた。

「な、なんでそんな自信満々なんでごわすか?」

「え? はぁ? 何お前ビビってんの?」

「むきぃー! ちょっとカチンと来たでごわす~! ……でも射美は相手がお子ちゃまだからと言って油断するような噛ませ犬とは違うでごわす」

 警戒しつつもじりじりと攻牙に近寄った。

 バス停の中ほどを持ち、丸看板の先っちょを軽く突き出す。力はほとんど込めていない。せいぜい尻餅をつかせる程度である。

「それっ♪」

「ぐはァーッ!」

 ……攻牙は盛大にぶっ飛んで壁に激突した。

「って弱ッ!?」

 ずるずると床に崩れ落ちる。

 壊れた人形のように手足を投げ出し、ピクリとも動かなくなる。

「えっと、あの、まさか死んでないでごわすよね……?」

 やや青い顔になるセラキトハート。

 だが――

「へっへっへっへっへ……」

 押し殺した笑いが、攻牙の口から漏れ出た。

「すげーなオイ……昼に喰ったハムサンドとコーヒー牛乳を危うくグラシャラボラスするところだったぜ……」

 ソロモン王七十二柱の魔神が今の状況と何の関係があるのかは大いなる謎であるが、そんなことはともかく攻牙はくわっと顔を上げ、跳ね起きながら横に手を伸ばした。

「そ、それは……!」

 伸ばした手が触れたものの正体に気づいたセラキトハートは、両手で顔面を庇おうとした。しかし背中に藍浬を背負ったままだったことを思い出し、思いっきり顔が青くなった。

「喰らえやオラァッ!」

 セラキトハートに向けて、白い粉煙が凄まじい勢いで噴射された。


 ●


 紳相高校は木造校舎なので、火災に対する備えは万全を期している。校内のいたるところに消火器が設置されているのだ。それは図書室も例外ではない。

「ワザとぶっ飛んで消火器のところへ向かうとは、味なマネをしてくれるでごわす」

 鋼原射美は、白く閉ざされた視界の中で唇を噛んだ。

「っていうかぶっちゃけ危なかったでごわす。間一髪でごわす」

 粉煙は射美のところまでは届いていない。〈BUS〉を巧みに操作し、体表面にエネルギーフィールドを形成したのだ。体の一部にフィールドを張って攻撃に耐えるという程度ならどんなバス停使いも無意識にやっていることだが、それを体全体に隈なく展開させるとなると、なかなかできる芸当ではない。

「でもこんな小細工、射美には通用しないでごわすよー!」

 片手で無造作にバス停を振るう。巻き起こる豪風によって白い粉煙は横一文字に引き裂かれ、そこを中心に掻き消えていった。

 急激に晴れる視界。

「さぁ~て、おチビちゃん。かーくーごーでーごーわーすー。ちょっと見た目が愛くるしいからってあんまり調子こいてると射美も怒っちゃうでごわすよ~……って、あれ?」

 そこに攻牙はいなかった。

 左右を見回すも、物陰から恐る恐るこっちを見ている一般生徒たちの姿が見えるだけで、肝心の頬ずりしたくなる小学生ルックが見当たらない。

「ありゃりゃ? ひょっとして逃げちゃったでごわすか?」

 五秒ほど警戒していたが、何の反応もない。

 ――なぁ~んだ。

 どうやら本当に逃げてしまったようだった。

「射美の買い被りだったでごわすかぁ。やれやれでごわす」

 肩をすくめつつ、壁に大穴を開けたバスへと向かう。

 バス停を軽く振ると、バスのドアが自動的に開き、射美と藍浬を中に迎え入れた。

「霧沙希センパ~イ、ここで休んでてくださいでごわす♪」

 気を失ったままの藍浬を座席の一つに寝かせると、自分はドアから出て行って屋根の上に飛び乗った。ただの人間ではありえない跳躍力だった。

「出発進行でごわす♪」

 軽やかに『夢塵原公園』をひと振りすると、バスは崩れかけの壁を吹き飛ばしながら後退しはじめた。頭側を振り回すように方向転換し、爆発的に加速。地面に深い溝を刻みながら走り出す。

「気分ソーカイでごわす~」

 物凄い速度でカッ飛んでゆく紳相高校の景色に目を細めつつ、セラキトハートは鼻歌交じりにスマホを取り出す。青いボタンを引っ張り出した。

「あ、もしもし? タグっちでごわすか~? バッチリ成功でごわす~拉致完了でごわす~」

 ……その瞬間。

 がたん、と。

 物音がした。

「ごわっ!?」

 珍妙な驚きリアクションもそこそこに、セラキトハートは真下を見る。

『どうしたんだい射美ちゃん? 何か問題かい?』

「な、なんかバスの中から物音がしたでごわす」

『霧沙希藍浬が目を覚ましたんじゃないのかい?』

「たぶんそーだと思うんでごわすけど、ちょっと見てみるでごわす」

『あ、ちょっと待っ……』

 携帯を切ると、セラキトハートはバスの屋根のふちに手をかけて、音がしたあたりの窓から中の様子をのぞき込んだ。

 そして、息を詰まらせた。


 ●


 ――かかったなアホめ!

 攻牙は、窓から両手を突き出した。

 上から窓を覗き込んでくるセラキトハートの両眼に、張り手をかました形だ。

 ちんまい掌には、消火器の粉――リン酸アンモニウムがべったりと付いている。

「ぎゃんっ!」

 いかに言っても不意打ちだったようだ。両眼に白粉をなすりつけられたセラキトハートは、悲鳴をあげて顔を覆った。

 バスが急停止する。

「おい、おい! 霧沙希! 起きろ!」

 座席で気を失っている藍浬の頬を手の甲でぺちぺち叩くが、目を開く気配はない。

「うぅぅぅ……ひどいでごわす……」

 地の底から響く呻きのような声が、車外から漂ってくる。

「射美がせっかくオンビンに済ませようと手加減してあげたのに……」

 攻牙のすぐ横を、鋭い閃光が走り抜けたと思った瞬間、バスの先頭部分が一瞬で斬り飛ばされた。

 断面から突風が吹きこんでくる。

「も~許さないでごわす……つぶしちゃうでごわす~!」

「ちっ! もう動けるのかよ……!」

 攻牙としては、さっきの眼潰しで数分は時間が稼げると思っていたのだが、あてが外れた。とっさに目を閉じていたのか――あるいは図書室での消火器噴射を防いだ力の応用で、粉を弾き飛ばしたのかもしれない。敵のスペックがわからない以上、そのあたりは想像するしかない。

 足音がする。ゆっくりとした足音が。

 断面の端から、セラキトハートが姿を現す。

 眼が、禍々しい血の色に染まっていた(要するに涙目)。

「めっさぽん痛いでごわす~! 仕返しでごわす~!」

 車内に足をかけ、バス停を振りかぶりながら、セラキトハートはこっちに踏み込んできた。

「くおぉっ!」

「ごわっ!?」

 攻牙が思いっきり横のシートベルトを引っ張ると同時に、バス停の柄が唸りをあげて脇腹を打ち据えた。

 ちっこい体は真横に吹っ飛び、ガラス窓を突き破って宙を舞った。

 たっぷり五メートルは滞空したのち、地面に叩きつけられ、二回転半ほどでんぐり返った末にようやく止まる。

「うぬぬぅ~どこまでもコシャクなマネを~……!」

 セラキトハートは脚に絡みつくネクタイを引き剥がした。攻牙はあらかじめ自分のネクタイを両側の座席のシートベルトと結びつけ、足を引っかける罠を作っていたのだ。

 おかげで踏み込みの脚が取られ、攻撃の威力が五割減である。

 しかし――

 攻牙は腹の中で暴れまわる衝撃を抱えながら呻いていた。

 威力半減だろうがなんだろうが、これは滅茶苦茶効いた。

 ガラスを突き破った時にあちこち切り傷ができていたが、そんなものがどうでもよくなるくらいに効いた。

「コザカしいってこういうときに使う言葉なんでごわすね……むきぃーっ!」

 ――うるせえよ。

 地面に降り立って地団駄を踏んでいるセラキトハートを横目に、攻牙はしばらく耐えていたが、やがて限界が訪れた。

「「うぐっ!?」」

 二人同時に嗚咽。

 そして、

「「ごふぇぇぇぇぇッ!!」」


 グラシャラボラス:

 ソロモン王が従えたとされる七十二柱の魔神のひとつ。翼の生えた犬のような姿をしており、常に血に飢えている。人間を透明にしたり、仲違えや仲直りをさせる力を持つ。三十六の軍団を率いる虐殺者。


 見るも無残な光景がそこにはあった。

 攻牙とセラキトハートは地面にうずくまり、痙攣している。

「けほっ! けほっ!」

 セラキトハートは咳き込んでいる。

「げぼっ! がほっ!」

 攻牙はえずいている。

 詳細な描写は省くが、ハムサンドとコーヒー牛乳がラッピングされ店頭に並ぶまでに携わった様々な人々の思いはこの瞬間グランドにブチ撒けられ水泡に帰したとだけ記しておこう。

 無念なるかな、養豚場で生を受けたトムとマット。彼らのタンパク質は不毛なる校庭に散布され、新たな命を育むことは恐らくない。

「あぁ……畜生……効いた、ぜ……おい……」

 呻きながら、震えながら、攻牙は身を起こす。

 体に、力が入らない。それほどまでにさっきの一撃は凄まじかった。

 ――篤の野郎は、こんなとんでもない奴らと戦ってたんだなぁ……

 不良に絡まれてる奴を助けようとして逆にあっさりボコられるという経験には事欠かない攻牙だが、これほど重い打撃を受けたことはない。

「うぃ~、またやっちゃったでごわすぅ~」

 手の甲で乱暴に口元を拭きながら、セラキトハートが起き上がるのが見えた。

 そしてこちらの方を見て、にひひと笑う。

「痛いでごわすか? 苦しいでごわすか? 思い知ったでごわすか? ケホケホ」

 闘志が急速に萎えてゆく。

 ――いやいや、もう無理だろ。

 ――意味不明な超常能力を持つ謎組織の謎エージェント相手にここまで粘ったんだからボクはもう評価されるべき。

 ――なんか哀れっぽい声で命乞いすれば多分許して貰えるんじゃねーかな。こいつアホそうだし。うん、それが一番いい。そうしよう。

 などと理性的に主張してくる自らの怯懦を抑えつけ、

「……関係ねえな」

 右足を踏み出し、立ちあがろうとする。

 そのさまを見て、セラキトハートは慌てたような声を上げる。

「えっ、ちょっ、まだやるつもりなんでごわすか!? いや~、射美は寝てたほうがいいと思うでごわすよ~?」

「関係ねえよ!」

 勢いをつけ、左足も地面を踏ませる。体がぐらりと傾ぐが、どうにか踏みとどまる。

「ど、どーしてそこまでするんでごわすかー! 霧沙希センパイがそんなに大事なんでごわすか?」

 攻牙は、全身を覆うダルさと吐き気と痛みを吹き飛ばすように、天に向けて吠えた。

「ヒーロー願望ナメんなコラァァーッ!」

「えぇ~!?」

「ボクはなぁ! 人助けがしたいとか世界を平和にしたいとか大切な誰かを命をかけて守りたいとかそんな動機は持ってねえぇぇぇぇぇぇぇんだよ! てめーの命が一番大事だコラァァァァァァッ!」

「なんかぶっちゃけだした!?」

「だけどなぁ! 野郎として生まれたからにはなりてーじゃんか! ヒーロー! 主人公! 英雄! ボクは図体がチビだからよー! ケンカじゃ誰にも勝てねーよ! 勝てたためしがねーよ! でもあきらめたくないじゃん! 体が強くなれねえからって心まで弱くなきゃならねえなんて認めたくねえじゃん!」

 鼻息も荒くそう叫ぶ。

 ――ヒーロー願望。

 それは薄っぺらな虚栄心。

 だがそれゆえに――

「ヒーローは見捨てない! ヒーローはあきらめない! ヒーローは現実に屈しない! だったらボクもそうするぞ! そうするかぎりヒーローへの道は閉ざされねえ! それだけだ! 男が立ち上がるのに見栄と意地以外の理由なんか必要ねえぇぇぇぇぇぇッ!」

 それゆえに、何よりも純真。

「うぅぅ……」

 セラキトハートが呻きながら後ずさる。

「来やがれごわす女! てめーの悪行はこの嶄廷寺攻牙がブッ潰す!」

 全力で吠える。

「し、知らないでごわす! どーしてもジャマする気なら、ええと、その……い、命の保障はしないでごわすよ~!」

 敵がバス停を構えた。

 ――しかしまぁ、実際問題どうするよ。

 攻牙は身構えつつ思考を巡らせる。啖呵を切っている間も、この遮蔽物のないグランドでいかにして奴と渡り合うかを考えていた。結果、五つほど策めいたものは浮かんできたが、そのいずれも分の悪い読み合いを何度か切り抜けなければならない。

「……関係ねえ!」

 できるかどうかじゃない、やるかどうかだ。最悪、隙を突いて喉笛に噛み付いてやる。

 決意を固め、四肢に力を込めたその瞬間――

「うぅっ!?」

 セラキトハートの体を、漆黒の魔風が吹き抜けた。

 そんな錯覚をしてしまうほどに邪な気配を纏う人影が、彼女のすぐそばを駆け抜けて行ったのだ。

「あ、やんっ!」

 彼女は悲鳴を上げて自分の体を抱きしめた。

「――この身は瘴気。あらゆる防備を嘲笑う疫風……」

 セラキトハートの背後で、優雅なテノールが奏でられる。それは不純な興奮によって上擦っていた。なんかもうグヘグヘとか笑い出しそうなくらいに。

「ふ……今の一瞬で、君の体のあらゆる突起物けいらくひこうを触れるか触れないかという絶妙かついやらしい力加減で突いた……君はもう、お嫁にいけない」

「な、何者でごわすかぁーッ!」

 なんか涙目なセラキトハートが振り返る。

 そこにいたのは制服を着た長身の少年。スマートな佇まい。美麗な微笑みを浮かべる顔。しかしその目元は緑がかった漆黒の髪によって隠されていた。

 鉤状に曲げた指を拡げ、さらに顔を隠す。しかし邪に歪む口の端は隠しきれず、ぬらりとした舌が踊って言葉を紡ぎ出す。

「――闇灯謦司郎、変態さ」

「う、ううぅぅぅ……!」

 セラキトハートは再び呻きながら後ずさる。

 行いはどうあれ、驚愕すべき身体能力であった。やや離れて見ていた攻牙にすら、謦司郎がどこから現れて具体的にナニをしたのか見えなかったのだ。理不尽すぎる。

「……っていうかセクハラやってる暇があったらバス停とか奪えよ!」

「残念、僕は女の子の暗い欲望より重いものは持てないんだ」

「えっとごめんちょっと何言ってるのかわかんねえ」

「おっ、主賓が来たみたいだ」

 次の瞬間、謦司郎はその姿を消した。現れた時と同じく、動作はほとんど見えない。

 そして――


「攻牙よ、お前の決意は聞かせてもらった。俺はお前のことを侮っていたようだ」


 グランドに、朗々とした声が響き渡る。

「うぅっ!? その声は……!」

 セラキトハートのバスが巻き上げた砂煙――その向こうに、人影が浮かび上がる。

「へっ! 遅ぇんだよこの野郎……」

 攻牙が口の端を吊り上げた。会心の笑みだった。

「そんな! どーしてここにいるんでごわすか!?」

 今までで一番動揺しているセラキトハート。

 人影は、腕を天に向けて伸ばし、高らかにその名を叫んだ。

「顎門を開け――『姫川病院前』!」

 突風を伴い、蒼い稲妻が荒れ狂った。砂塵は一瞬にして払拭され、一人の少年の姿が現れる。

 普段は眠そうなその目が、今は研ぎ澄まされた光を湛えている。

 ――それはひと振りの魂を鍛え上げる決意の焔。

「鋼原射美よ。いろいろと有為曲折はあったが、今こそお前との宿命に決着をつけるとしよう」

 ヴン、と『姫川病院前』を打ち振るい、強壮な風を引き起こす。

 ――あらゆる情念を越えた地平から撃ち放たれる、純然たる戦意。

「あわわわわ、ヤバいでごわす~! こんなはずじゃあ……」

 四指を噛むセラキトハートをよそに、彼はどっしりと腰を落としてバス停を構えた。

 ――動かされることを拒否する佇まい。不撓にして不屈の不動。

 かくあれかしと。

 彼は自らに課する。

 その名は。


「我流、諏訪原篤。推して参る――!」


 地面を蹴り砕き、肉薄。

 逆持ちの握りから、全身をひねって横薙ぎの一撃を繰り出す。

「せいッ!」

「きゃんっ!」

 激突。伴って閃光と爆裂。

 衝撃が拡散し、突風となって周囲を荒れ狂う。

 セラキトハートは『夢塵原公園』で防御した姿勢のまま、十数メートルを吹き飛んだ。

 戦いが、はじまった。


 ●


「やー、手ひどくやられたねえ」

 二人のバス停使いの超絶的な戦いを眺める攻牙を、背後から優雅なテノールが労わった。

「謦司郎! てんめえ……やけに遅いじゃねえかよ!」

 攻牙はガバッと振り返り、肩を怒らせる。

「いやいや、そう言わないでくれよ。僕は長距離走は苦手なんだ。もうヘトヘトさ」

 セリフのわりに息ひとつ乱していないのがなんかムカつく。

 ……すべては攻牙の考えである。

 図書室でセラキトハートにバス停の力を見せ付けられた瞬間から、攻牙は思った。

 ――こりゃやべえ。

 衝撃を受けた。こいつ強すぎる。

 今の・・自分ではこいつを止められず、霧沙希は拉致されてしまう。こいつはいわゆる「イベント戦闘」だ。物語の序盤で敵の強大さを表現するために仕込まれる、絶対勝てない戦闘なのだ。そうに違いない。いずれ自分自身も数々の強化イベントを経てハイパーな戦闘能力を獲得してやるつもりではあるが、今は勝てない。

 冷静に(?)そう認めた攻牙は、裏山にいるであろう篤にメールして呼び戻すことを考える。

 ポケットから携帯に手をかけた瞬間、はたと思いだす。

 そういえば篤は携帯を持っていなかった。

 ――あんのアナログ野郎が……!

 そこで次善の手として、謦司郎をパシらせることにした。

 普段から篤の視界を避けつつ接近するという恐るべき機動力の持ち主であれば、裏山までそう時間はかからないだろうという目論見である。

「あ、そういえば僕も最近スマホをトイレに落としてオシャカにしちゃったから、そこんとこよろしく。ちなみにその日はちょっとお腹の調子が悪くてね……優しいブラウンに染まった僕の愛機は、まるでミルクチョコレートのごとき素朴な美を宿していたよ……」

 おいィィーーッ!

 大声で突っ込みたかったが、セラキトハートの手前、それは自粛する。

 ともかくそういうわけだから、篤とも謦司郎とも連絡できなくなる以上、彼らが戻ってくるまでは是が非でも敵を学校に足止めする必要があったのだ。

 ――死ぬかと思ったが、どーにかなったぜ。

 へへん、と攻牙は上機嫌。

 ――篤、今回はヒーローは譲ってやる。

 そして、叫ぶ。

「だから、勝て! 勝って霧沙希を救え!」

 

 ●


「――ええいっ!」

 おざなりに振るわれるセラキトハートのバス停を、篤は無造作に打ち払った。

 ――これはどうしたことだ?

 相手の攻撃に、気迫がまったく込もっていないのだ。

 それどころか、なにやらひどく動揺している様子である。

「どうした、お前の力を見せてみろ!」

「ふ、ふんだ! いまのうちせいぜい勝ち誇っているがいいでごわす!」

 ――なにやら策はあるようだが、はて?

 そこまで考えて、篤は愕然と顔を強張らせる。

 裏山で彼女を待っていた時に、謦司郎からことのあらましは聞いている。

 ――この一見どこにでもいる娘は、驚愕すべきことに俺を謀り、自分だけ学校に向かって霧沙希を拉致しようとしたのだという。

 篤は苛烈にバス停を振るいながら、唸る。

 ――恐るべき神算鬼謀と言わざるを得まい。人類は、知性を極めることによりこれほどの権謀術数を駆使することができるというのか……人が持つ無限の可能性、その重みを、俺は甘く見すぎていたようだ……

 間違ってもそれほどのものではないのだが、ただひたすらに感心する。

 篤は、ウソが壊滅的にヘタクソだ。支離滅裂というかシュールというか、とにかく脈絡のない妄言を吐き散らして、それで騙し通せると思い込んでいる。本当に騙す気があるのか! とよく霧華や攻牙から突っ込まれるのだが、本人はいたって真面目である。

 だからこそ、他人から騙されると心底から驚嘆してしまうのだ。自分には絶対にできないことだから。

 ――俺の周囲には、なぜこうも天才ばかり集うのだろう。

 お前から見れば誰でも天才だよ! と突っ込んでくれそうな者は、今観戦モードで座っている。

 とにかく、そんな超絶すごい大策士(※篤の主観)であるこの少女が、なにやら奥の手を隠していそうな気配を出しているのだ。最大限に警戒すべきだろう――

 掌に、汗がにじむ。

 ――恐怖、だと……? この俺が……?

 だからそんな大層な奴ではないのだが、焦燥に駆られた篤は逆持ちがもたらす超重量の打撃を立て続けに叩き込み、セラキトハートを押しまくった。


 ●


 バス停使いの闘術は、大別すると三種に分類される。

 物体の内部に存在するエネルギーのベクトルを操作する『内力操作系』。

 物体による介在を必要としない、純粋な熱量を操作する『外力操作系』。

 そして、上記のどちらにも該当しない特異な現象を引き起こす『特殊操作系』。

 篤のストレートな白兵戦術は『内力操作系』であり、ゾンネルダークの土竜裏流れは『外力操作系』の技である。

 そして、セラキトハートは。

 ――うわぁぁん、こんなハズじゃなかったのにィ~!

 半泣きになりながら、怒涛のような篤の攻勢に耐え続けた。

 彼女は内力操作の技も、外力操作の技も、さして得意なほうではない。そのへんにいる凡百のポートガーディアンどもと大差のない戦力だ。(例:ボロ雑巾)

 だが、もちろんそれだけならば十二傑の一角に数えられるわけはない。

 セラキトハートと、彼女が契約したバス停『夢塵原公園』には、特別な才能があった。

 特殊操作系能力――〈臥したる鋼輪の王アンブレイカブル・ドミナートゥス〉。

 他のバス停使いがいくら修行を積もうが決して得ることのできない唯一無二の技。

 ……彼女は、この世のすべてのバスを操る。

 バスという車両の形状が、流体力学的に完璧な構造をしていることは周知の事実であるが、これは別に空気抵抗うんぬんの対策をしていたわけではなく、地中を大蛇のごとく這う〈BUS〉の流動を効率的に捉えて推進力に変換するためなのである。つまりバスとは、ガソリンで動く自動車とはまったく違う存在なのだ。その駆動原理はどちらかというと帆船に似ている。

 〈臥したる鋼輪の王アンブレイカブル・ドミナートゥス〉は、一時的にバスと地脈のつながりを絶つことができる能力だ。地脈から解放されたすべてのバスは、『夢塵原公園』から放出される〈BUS〉にのみ影響を受け、セラキトハートの思うがままに動き回る。……地上のあらゆるものを蹂躙し爆走する、魔獣の群れと化すのだ。

 完全に発動したならば、辺り一面を更地に変えるほどの壮絶な破壊力を発揮する。

 あくまで発動すれば、の話だ。

 ――普段なら負けないのに~!

 爆音と爆光と爆圧がセラキトハートを打ちのめし、その身を大きく後退させた。

「くぅ……!」

 地面に二本の溝を刻みながら、彼女はそれに耐える。

 セラキトハートが一方的にやられている理由は簡単だ。近くにバスがないのである。

 彼女がここまで乗ってきたバスは、攻牙に目潰しされた腹いせに意味もなく一刀両断されて機能を停止していた。

 ――マズったでごわす~! あんなことするんじゃなかったでごわす~!

 後先考えないまま衝動に生きる少女、セラキトハート。

 というか、仮に篤と戦うハメにならなかったとしても、たったひとつの移動手段であるバスを自分で破壊して、その後どうするつもりだったのだろうか。どうにも「ア」で始まり「ホ」で終わる言葉が似合う奴である。アイダホ。

 ――能力の範囲内にバスがひとつもないとか、どれだけド田舎なんでごわすかこの辺!

 とにかくバスを探さなければならない。バスさえあれば勝てる。

 そんな観念に囚われたセラキトハートは、能力の走査範囲をさらに拡大する。その分、篤の攻撃を受けるのに使う力が割を食うことになるが、背に腹は変えられない。

 『夢塵原公園』との感応をさらに強め、付近一帯の〈BUS〉の流れに沿って霊的な感覚の手を伸ばし続ける。

 ……だが、それは篤を前にして、あまりにも愚かしい決断だった。

「オォ――ッ!」

 篤が、吼えた。腰を低く落とし、背中が見えるほど身を捻り、しかし爛々と戦意に満ちた眼差しをこちらに向けながら。

 これまでとは段違いの〈BUS〉感応が、双方の髪や衣服をはためかせる。目を開けているのが辛くなるほどの雷光が、篤のバス停を蒼く明滅させている。

「渾身せよ、我が全霊!」

 號音。

 大瀑布のように、土砂が跳ね飛んだ。〈BUS〉の内力操作によって超身体能力を得た篤が、大地を蹴り砕いたのだ。爆裂したグランドの土は、上空十数メートルの高さにまで巻き上げられる。

 隕石の衝突現場のごとき光景をバックにして、篤がこちらにカッ飛んで来る。

 コマ落としのように、一瞬にして視界の大半を篤が占める。

「わひっ……」

 咄嗟に『夢塵原公園』を掲げることができただけでも、奇跡に近かった。

 だが――


 ●


 結局のところ。

 セラキトハートの敗因とは、実力でも相性でもなく、いらん策を弄して物事を楽に済ませようなどと考えた点である。

 ごく普通に篤との約束に従い、尋常な勝負に臨んでいたならば十分に勝ち目はあったし、その後悠々と藍浬を拉致することもできたはずである。

 物事の優先順位を明らかに間違えていたのだ。

 そのせいで攻牙と謦司郎の介入を許し、すべての計画が台無しとなった。

 だが、それは何故だったのか?

 なにゆえに彼女は障害の排除そっちのけで藍浬を手に入れようとしたのか?

 そこに、何か意味があるのか?


 ●


 視界が、白く塗りつぶされた。世界から、一切の音が消えうせた。

「かっ……くっ……?」

 セラキトハートは、自分の体に何が起こったのかわからなかった。

 ただ、痛みがあった。

 それは篤の攻撃を防いだ時の、直接的な痛みではなかった。そんな感覚は、とうに麻痺している。

 では、これは何か?

 この、体の内部から響いてくる、耐えようもない痛みは何か?

「ひ……ぅ……」

 違う。

 これは痛みではない。

 喪失感だ。

「う……う、うぅ……」

 ――射美は、なくし、ちゃった……?

 何を?

 自分は、何をなくしたというのか?

 視界が、徐々に戻ってゆく。

 空が広がっていた。視界の端を、沈みかけの太陽が、赤く照らしている。

 どうやら仰向けに倒れているようだった。

 徐々に意識がはっきりとしてくる。

 背中に、土の感触。冷たく、ざらついた感触。

 ごうごうと鳴る風。耳鳴りのごとく。

 そして、空を覆う、目が覚めるほどの赤。

 赤。

 炎のような、華のような、絵の具のような、リンゴのような。

 ――血のような。

「……ぐっ……ぅ……っ!?」

 そう思った途端、自分の体の中心にある、底なしの空虚が、中身を求めて暴れだした。

 喪失感。

 痛いほどの。

 本能的に、セラキトハートは悟る。

 ――ショートして、灼き切れた。

 彼女は知っている。自分の肉体の中に、ある機械が埋め込まれていることを。それは、体の中を〈BUS〉が流動した際、抵抗を減らして臓器への負担を軽くする機能を有していた。

 ……特殊操作系バス停使いの宿命である。人体とは、あらゆる部位が無駄なく組み合わさって形作られる精密なからくりだ。そこに特殊操作系能力のような、人体の本来の機能とはまったくかけ離れた余計な能力がそなわれば、不具合が起きないほうがおかしいのである。規格の違う部品を無理に押し込んでも故障するだけなのである。

 もちろん、内力操作系や外力操作系のバス停使いにもその種の負担がないわけではないが、鍛錬次第で克服できる程度のものだ。特殊操作系能力がもたらす命の危機とは無縁である。

 だからこそ、セラキトハートの体には、能力と人体の仲立ちをするシステムが組み込まれていたのだ。

 それが、故障した。

 本来ならばありえない事態。だが、慣れない近接戦闘を強いられたことによって、極度のストレスと肉体への負担が重なっていた。さらにバスを探そうと躍起になるあまり、『夢塵原公園』と深く感応しすぎた結果、バス停が受けたダメージの何割かがセラキトハートに逆流してきたのだ。

 内臓機械は、その負荷に耐えられなかった。

「うぅぅ、う……あっ……!」

 空虚が、暴れまわる。

 なくしたものを求めて哭く。

 牙を剥く。

 セラキトハートは身をよじる。体内にブラックホールが発生し、次々と周囲の臓器を飲み込んでゆくかのような感覚。

 死に直結した苦しみ。

 冷たく熱い汗が噴き出す。体が痙攣を始める。心臓の鼓動が鳴り響き、そのたびに体の機能が死んでゆく。

 ――……いや……

 セラキトハートははっきりと恐怖した。

 ――助けて……

 自分と一緒にこの町へ乗り込んできた仲間たちを想った。

 ――タグっち! ディルさん! ゾンちゃん! ヴェっさん!

 昏みゆく眼をいっぱいに開いて、彼らの姿を探し求める。

 ――助けて! たすけて!

 だが、視界はすでに真っ赤に染まり、もはや何も捉えることはできなくなっていた。

 さらに、視覚以外の感覚も、ひとつずつ深紅の暗闇に沈んでゆく。

 触覚が沈んだ。横たわる地面の感触は真っ赤に染まった。

 味覚が沈んだ。口の中に残る血の味は真っ赤に染まった。

 嗅覚が沈んだ。かすかに香る土の匂いは真っ赤に染まった。

 聴覚が沈んだ。鳴り響く風の音や、近くにいる誰かが上げる声は真っ赤に染まった。

 セラキトハート……否、鋼原射美は、一切の感覚を失い、ただ深紅色をした狂感覚の牢獄の中を、無限に漂い続けた。

 何もなく、何一つ感じ取れない世界が、これほどまでに恐ろしいものであることを、射美は思い知らされた。

 そして、恐ろしいと思う心すら、徐々に溶けていった。


 そのはずであった。


 頬に、掌の感触があった。まるで触れられた部分だけが実体化したかのように、赤く染まった感覚の中で、そのことを認識した。

 少しひんやりとしていて、やわらかい。

 心を落ち着かせる肌触り。

 掌は、まるでいたわるように射美の頬を撫でている。

「………、………。…………、…………」

 どこかで、声が聞こえた。

 短いフレーズを繰り返しているようだった。

 やがて、掌から涼しく清澄な波紋が浸透してゆくように、射美は徐々に身体感覚を取り戻していった。

 ――頬から頭部全体に。

 そのとき射美は、自分の頭が誰かの膝の上に乗っていることに初めて気づいた。

 ――頭部から胴体に。

 自分はいつの間にか移動されていたらしく、背中の感触は平たく滑らかなものに変わっていた。

 ――胴体から手足の先へ。

 ディテールはさらに正確になる。腿や脹脛の感触から、自分が乗っているのは木製のベンチであることがわかる。

 胸の狂おしく悶える空虚が、徐々に大人しくなってゆく。

 満たされてゆく。

 ゆっくりと。

「……大丈夫、大丈夫。怖くない、怖くない」

 声が聞こえる。しっとりとした、ほのかに甘い声。

 ゆっくりと眼を開く。

 まず目に入ってきたのは、どこか神話的な曲線であった。視界の中央付近に存在するその優美な曲線を境に、右は〈漆黒の闇〉、左は〈陰影のある白〉と、世界がはっきり二分されている。

 さらに眼を凝らすと、〈漆黒の闇〉とは夜の空であり、〈陰影のある白〉とは街灯に照らされる紳相高校の制服であることがわかってきた。

 ――あー……

 そして、それらの境界線となっている、「荘厳な」とか「重厚な」とか「霊性に満ちた」とかいう神話的形容詞をつけたくなるような、たおやかな曲線の正体について思い当った射美は、ほぁー、と間の抜けた溜息をつく。

 どうも自分は、ベンチに座る人物に膝枕をしてもらっているようである。

「あら」

 その神聖なる曲線の向こうから、まるで二つ連なる丘を越えて朝日が昇ってくるかのように、霧沙希藍浬の顔が現れた。顔の下半分はいまだに膨らみの向こうに隠れている。

 ――下から見ると余計におっきいでごわすなぁー……

 地球という惑星のもたらす恵みの豊かさに、畏怖の念を抱く射美であった。

「おはよう。鋼原さん」

「お、おはようでごわす……」

 と、つい反射的に挨拶を交わしてしまうが、よくよく考えてみると状況が不明すぎる。

 ここはどこで、今はいつで、自分はどうなったのか。

 ――自分は、どうなったのか。

「……っ!」

 さっと顔が蒼くなり、自らの胸元を抑えつける。その際射美は正体不明の劣等感に襲われたが、なんのことなのかまったくわからないのでとりあえず気にしないことにした。

「大丈夫。もう大丈夫だから」

 再び、ひんやりやわらかい掌が、射美の頬を包み込んでスリスリ。

「うに……」

 なんとなく、喉を撫でられる猫の気分。別に苦しくもないのに身をよじりたくなってくるので、なんだか気恥しい。

「むっ、目覚めたのか」

 静かな、しかしよく通る声がした。


 ●


 ……あの時。

 篤の渾身の一撃は、射美のバス停を叩き折り、彼女を数十メートル吹っ飛ばした。

 だが、頭にコブでも作りながら「いったーいでごわすー!」とか叫びつつ跳ね起きるかと思いきや、何やら尋常ではない様子で脂汗を流しつつ苦悶の呻きを上げ始めたため、

「殺めてしまった……死のう」

「切り替え早すぎだろアホ!」

 攻牙に蹴り飛ばされてグランドに倒れ伏す。

 篤としては、死力を尽くした戦いの果てに生き死にの分かれ目があるのは、致し方のないことだと考えている。だが同時に、敵手の死を望むなら自らの死をもって当たるのが当然であるとも思う。

 大事なのは、いかにして調和を回復するかということだ。

 そして、篤の見たところ、彼女の命脈はすでに尽きているように思われた。断続的な痙攣が彼女を襲い、その血色は見る間に悪くなってゆく。遠からず、命の炎は消える。

「くっそこりゃ救急車か!?」

 攻牙は急いた手つきでスマホを取り出した。

 ――いや、そうではないな。

 級友の様子を見ながら、篤は自らの怠惰を恥じる。あきらめるべきではない。たとえどんな状態であろうと。

 見たところ、心肺機能に異常があるようだが、この場合の応急手当は――

「待って。わたしに見せてもらえる?」

 涼しげな声。藍浬が目を覚ましていたようだ。

「うむ、この場合、心マッサージか人工呼吸か、もしくは足元を高くして寝かせるだけでよかったのか、適切な対処はいずれであっただろうか?」

 無駄な問答は極力減らして問いかける。

「ううん、これは違うの」

 ……?

 藍浬は、死の痙攣を続ける射美のそばに膝をつき、両手で頬を包み込んだ。

 途端に、射美の表情がやや和らぐ。

「おお……」

 依然として死の淵にはあったが、一歩だけそこから遠ざかっている。

「攻牙くん、救急車は呼ばなくていいわ」

「え? な、なんでだ?」

「それよりも、ここを離れましょう。たぶん、普通の病院じゃ鋼原さんは助けられないわ」

「……この症状に覚えがあるのか?」

 篤の問いかけに、藍浬は困ったような笑みを浮かべた。

「一度だけ……ね。だけど、わかるの」

 篤は、藍浬の眼を見つめる。眼の奥を透かし見る。迷いと、不安と、切実な願い。

「実を言うと、どうしてわかるのか、自分でもわからないんだけど……でも、これは絶対。鋼原さんはわたしにしか助けられないわ。前もそうだった。……信じて、もらえない?」

「わかった。信じよう」

 効果のあるなしに関わらず、いまから病院に搬送しても間に合わない公算が高い。それに、彼女が射美に触れると症状がやや改善したのは事実である。

 篤は射美の腕を取って軽く捻ると、その体はくるりと回転して篤の背中に収まった。

「ではゆくぞ。寝かせられる場所がよいか?」


 ●


 それから、近くの公園のベンチに射美を寝かしつけて現在に至る。

 時刻はすでに八時を回っていた。

「す、諏訪原センパイ……」

 射美が藍浬の膝の上で視線を上げ、逆さまの顔で篤に声をかける。

「気分はどうだ」

「いや気分はどうだじゃないでごわすよ! これから射美をどーするつもりでごわすかぁー!」

「うむ、もう少し様子を見てから、大丈夫そうであればお前を家まで送っていくつもりだ」

「なんで……!」

 息を吸い込んで何かを言い募ろうとした射美は、膝枕をする藍浬にのどを撫でられて「うにぃ」力が抜けたようだった。

「うぅ~、スリスリするのズルいでごわすぅ~」

「ふふ、かわいい」

「お前の正体は知っている」

 空気を読まない篤は構わず話を進める。

「ゾンネルダークの同僚なのだろう。《ブレーズ・パスカルの使徒》が、手段に拘泥しない恐るべき組織であることも、身をもってわかっている」

「じゃあどーして射美を助けたりするんでごわすか。射美は生かしておいたらゼッタイ仕返しにくるでごわすよ~? また何度でも学校とか壊れたりするでごわすよ~?」

 篤は眼を閉じ、首を振った。

「主語を混同してはならない」

「ほぇ?」

「問題なのは、お前の組織の是非ではない。お前自身の是非だ」

「……よく、わからないでごわす」

「わからずとも良いさ。ただな――」

 眼を開き射美を見据える。

 視線が重なる。

「お前は攻牙を殺そうとはしなかったな。それに、わざとバス停の力を見せ付けることで無用な戦いを避けようとした。どのような思惑で成された行いなのかは与り知らぬが……俺にはお前がそういう判断のできる人間に見えた。なにも死ぬことはないだろうと、そう思うのだ」

 射美は眼に強い力を込めて睨む。篤は静謐な眼差しでそれを包み込む。

 お互いが、お互いを理解しようとして。

 やがて、射美が顔を背けた。

「諏訪原センパイは甘ちゃんでごわす。カッコつけでごわす。偽善者でごわす」

「褒めても何もでないぞ」

「むぅ……」

 むくれた顔で唸る射美。

 勢い良く藍浬の膝から跳ね起きると、駆け足で五歩ほどベンチから離れ、振り返った。

「射美はそーゆーノリはキラいでごわす!」

 べーっ、と舌を出してから再び踵を返し、走り去る。

 その姿は、街灯が照らす範囲を出た瞬間、暗闇にまぎれて見えなくなってしまった。

「……急に動いて大丈夫かしら?」

「あの様子なら問題なかろう。バス停使いであれば夜道など恐るるに足りん」

「うーん、でももうちょっとナデナデしたかったかも……」

 ――正直それは自重しろ。

 というかこの場に謦司郎がいなくて本当に良かった。彼と攻牙は学校に残り、警察に事情を説明する役を担っているのだ。攻牙は「説明ったってどうすりゃいいんだよ」と困惑気味だったが、別段恐れることはない。ありのまま起こったことを話せばいいのである。警官の諸兄は攻牙たちが何を言っているのかわからないと思われるが、超法規的秘密財団法人『神樹災害基金』の力はこういう権力機構に対してめっぽう強い。穏便な手段でバス停戦闘の隠蔽を図ってくれることだろう。

 その時、暗闇の向こうからなんか怒ったような大声が押し寄せてきた。

 

「助けてくれて~、ありがとぉーでごわすぅぅぅーッ!」

 ごわすぅぅぅ、ごわすぅぅぅ、ごわすぅぅぅ……(エコー)


 眼を丸くして片田舎の闇夜を見る藍浬。

 やがて、その顔に桜のような笑みが灯る。

「ふふ、こういうの何て言うんだったっけ? シンドラー?」

「うむ、インテルだった気がするぞ」


 ●


「――暗闇の中に、三つの影があった。彼らは息を潜めながら、ベンチに座っている諏訪原篤と霧沙希藍浬の姿を監視している」

「やはり、あの少女――霧沙希藍浬は本物なのかもな」

「――中心に佇む男がぽつりと言った。闇の中に溶け込むかのような黒のスーツと、適度に散らしたオールバックの髪型、引き締まった長身痩躯など、研ぎ澄まされた日本刀のごとき印象をまとう男であった」

「そうみたいですねー。でもよかったなぁ。射美ちゃんが無事で」

「――その左で、ずいぶん年若い青年が微笑んでいる。同じく黒のスーツ姿であったが、着こなしはかなりだらしない。頭にタンポポが咲いていそうな弛緩した笑みも、軟弱な印象を助長している」

「セラキトハートの心臓部に埋め込んだ〈BUS〉整流機構を、直接触れずに修復したあの力こそ、皇停の担い手たる証に違いないのかもな。《絶楔計画》を第三段階へとシフトする……『俺たちの戦いはこれからだ! 第二部・完!』というやつかもな」

「たまには断言してくださいよ……不安になってきますって」

「――青年の主張などどこ吹く風で、中央の男は踵を返した。奇妙な語尾とは裏腹に、一片の迷いもない確固とした足取りであった」

「あのー、自分の描写はしないんですか? ディルギスダークさん」

「――青年は誰に向けて言ったのかよくわからないことをつぶやいた。青年の視線の先には誰もいない。独り言だろう」

「いやいや、いますよね。そこに。普通に」

「――また独り言だった。相変わらず青年は誰もいない闇の一角を見据えて喋っている。不可解というほかない」

「いや、あの、ていうか最初『暗闇の中に三つの影があった』って言ってたじゃないですか」

「――青年の独り言は続く。その空虚な言葉に答えるものはいなかった。幻覚でも見ているのだろうか。精神的な病の可能性があった」

「ひどっ!? 僕のトキメキ☆ナイーヴハートはもう再起不能です! 死にたい! 死のう!」

「――突如そう叫ぶと、彼はポケットからカッターナイフを取り出し、無数の躊躇い傷が走る自らの手首にあてがった」

「死にます! 死んじゃいます! し、死ぬ! 死ぬよ!?」

「――誰もいない暗闇に向けて、彼は一人騒ぎ立てた。しかし誰一人その声に応える者はいない。彼を止める者もいない。それはまるで彼の前途を暗示しているかのようであった。青年は寄る辺とてない闇黒の深淵で、誰にも看取られることのないまま死ぬのだ」

「う、うわあああああああん!」

「貴様ら遊んでないでさっさと帰るのかもな」


 ●


 翌日。

 学校は普通にあった。破壊されたはずの図書室は、以前とまったく変わらない様子でそこにあった。

 グランドやフェンスも元通りであり、そこで戦闘があったことを示す証拠は何も残っていない。

 『神樹災害基金』が擁する特殊操作系バス停使いの仕業なのだろう。これが『基金』のやり方だ。目撃者を捕えて忘れろとがなるより、「何事もない平凡な日常」という幻想を完璧に裏付けてやるほうが効果的なのだ。

 諏訪原篤は、学校の屋上で昼食がてら攻牙、謦司郎、藍浬の三人に、ことのあらましを説明していた。

「つつつっつつつまりあのあれか! バス停は実は地脈のエネルギーを制御するための装置でその力を使ってなんかとんでもないことを企んでいる悪の秘密結社がいてなんかこうドンパチやっていうっていうのかよオイオイすげええええぇぇぇぇぇよオイマジかよ!!」

 攻牙はもう有頂天を衝くとかそんな合成言葉を使いたくなるほどの興奮ぶりであった。ちょっとは落ち着け。

「でもいいのかい? 僕たちにそんなこと話して」

 謦司郎は相変わらず篤の背後から出てこない。

「確かに、あまり褒められたことではないかもしれん。少なくとも『基金』の者たちはいい顔をしないだろうな」

 ずび、と茶を一口すする篤。

「だがお前たちはすでにバス停の力の一端に触れてしまった。ここで忘れろなどといっても納得はしないだろう」

「そりゃそーだぜへっへっへ」

「そして、襲撃は今後も続くものと予想される。ならばむしろ積極的に事態の情報を開示し、自衛策を講じてもらったほうがまだ安全である」

「うーん、どこか別の場所に逃げるっていうのはダメなの?」

 藍浬が困った顔をする。

「うむ、それもひとつの手だろう。だが霧沙希、お前に限っては逃げても無意味である可能性が高い」

「鋼原さんが、わたしを狙っていたから?」

「そうだ。あれが鋼原射美の独断でもない限り、敵組織の狙いはお前と見て間違いない」

「うーん、鋼原さんみたいなコならいいけど、もっと怖い人に襲われたら困ってしまうわね」

 あんまり危機感の感じられない様子である。

「そこで、こんなものを用意した」

 篤は自分の鞄に手を突っ込み、長方形の弁当箱っぽい機械を四つ取り出した。

「これはナーウかつハイカラな言葉でケータイデンワというものだ。離れた人間とも会話ができるという驚くべき」

「トランシーバーじゃねえかぁぁぁぁぁぁッ!」

「……うむ、そうともいう。これで相互に連絡を取り合い、」

「どっからこんな前世紀の遺物を発掘してきやがったんだバカヤロウ! お前がスマホ買えば済むことだろどれだけ思考が時代遅れなんだよ!」

「むぅ、俺はあの小さくて薄い装甲がどうも好きになれん。あんな有様では拳銃弾の貫徹すら許してしまうぞ」

「携帯電話をなんだと思ってるんだーッ!」

 ぎゃあぎゃあ騒ぐ攻牙と篤の後ろで、ひそやかに交わされる会話があった。

「霧沙希センパイ~こんにちはでごわす♪」

「あらこんにちは。体の調子はどう? なんともない?」

「ご心配にはおよばないでごわす♪ 射美は堅甲遊猟児でごわす♪」

 チャチャブーの亜種かなんかですか?

「射美もお昼ごはんご一緒していーでごわすか?」

「ふふ、もちろんよ。鋼原さんはお弁当派?」

「お弁当でごわす~毎朝タグっちが精魂込めて作ってくれるでごわす~」

 鼻歌まじりに楕円形の弁当箱を取り出していると、攻牙と篤が射美の存在に気づいた。

「っておいィィィィィィ! なに自然な感じに混ざってんだよお前は! 何しに来やがった!」

「スパイ活動でごわす♪」

「えええええ!?」

「きのうはヴェっさんに怒られちゃったでごわす~もっと相手を見てから仕掛けろって言われたでごわす~」

 アスパラガスのベーコン巻きを幸せそぉ~にかじりながら、射美は言葉を続ける。

「だから敵情テーサツでごわす♪ これからセンパイがたの弱点とか隙とか裏も表もセキララに探るつもりでごわす♪ 覚悟しやがれでごわす♪ ……あ、諏訪原センパイのタコさんウィンナーかわいいでごわす~」

「うむ、我が妹の手による造形だ。……前々から思っていたのだがこれをタコと言っていいのだろうか? 触手の本数や口腔の位置が生物学的に不正確な形態ではあるまいか?」

「細かいこと気にしちゃダメでごわすよ~いい妹ちゃんでごわす~」

「うぅむ……」

 篤が己の弁当箱を凝視して思索にふけっている間、射美の背後に黒い風が蟠った。耳元で異様な熱を孕んだテノールが囁かれる。

「ところで、タコさんウィンナーって卑猥な形をしてるよね……」

「ひぃぃ!?」

 悲鳴をあげて藍浬の後ろに隠れる射美。

「き、ききき昨日のヘンタイさん!」

 カチカチ歯を鳴らして汗を垂らしている。

「もう、闇灯くん、鋼原さんになにしたの?」

 じとーっと謦司郎をにらむ藍浬。

「ははは、やましいことなんてなんにもしてないさ。ちょっと力の込もった挨拶をしただけで」

 風を巻き込む勢いで首を振りまくる射美。

「おい篤……篤! いいのかよアレ! スパイって自分でいってるぞオイ」

 藍浬によしよしと撫でられて、「うにぃ」力が抜けている射美を指差しながら、攻牙は篤の袖を引っ張った。

「む……」

 篤は顔を挙げてその情景を見ると、

「うむ」

 重々しく頷いた。

 そして言った。

「仲良きことは美しき哉」

「えぇー……」

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