ビチクソ戦争

ロングブラック

第一話 テニス部

「先生!授業中すみません」

 一人の男子生徒が挙手きょしゅし、教師の走らせていたチョークが遅くなる。コツン、と最後の一画を書き終わるやいなや、先生はわざと時間をかけるようにゆっくり振り返った。

「どうしましたか?加藤くん」

 名を呼ばれた加藤はおもむろに立ち上がり、机に手を着いたまま口を再度開いた。

「トイレに、行ってもいいですか?」

「すぐ帰ってきてくださいね。ここら辺はテストに出やすいところなので、聞き逃して欲しくないんです」

「あぁ、残念ながらそれは無理そうです」

 眉をひそめた先生はチョークを置き、茶色の丸縁眼鏡まるぶちめがねを上げた。教室の照明によって一瞬見えた目は、真っ直ぐすぎるほどに加藤を凝視ぎょうししていた。

「はて、それは何故ですか?」

「それは、うんこだからです」

「.........そうですか。では」

 先生は不敵ふてきな笑みを浮かべた。

「人間として、安全に帰ってきてください」

 そんな先生の意味深な言葉を背に受けながら。

「行ってきます」

 加藤は静かに席を離れ、教室後ろの扉を目指して歩を進めた。その間、教室も静謐せいひつに包まれていた。誰もが皆、前を向いて動かない。真面目に勉強している訳ではない。手は止まっていて、ノートを取っている素振りそぶすら見せていない。眠たくてウトウトしている者は一人もいなかった。むしろ、みんなの目は充血していた。張り詰めるほどの緊張感が、全身の肌をビリビリと貫通する。身の毛もよだつ、とはこの雰囲気のことを言うのだろうか。

 ガラガラ、ガラガラ、トンッ。

 加藤が教室を出た。

 とびらを閉め終わった瞬間、大人しく座っていたクラスメイト全員が、各々の部活の道具を持って走り出した!

「はっ、はっ、はっ」

 走っているのは加藤も同じだった。

 教室を出た瞬間に、かかとからしっかりと廊下を踏み込んで加速したのだ。陸上部で鍛えたその大腿筋だいたいきんは、あるじを排便にいざなおうとうなる。

 汗が、昼休み明けで掃除したばかりの床に散る。

 夏の太陽に照らされたその汗は、とても美しかった。日々の練習の賜物たまものが、この一幕ひとまくいろどらんと煌々こうこうと輝く。

 ちなみに、彼はれそうだから走っている訳ではない。

 逃げているのだ。奴らから。

「加藤ぉおおおおお!」

「なっ、芝田しばたッ!」

「先回りだ、足だけは速いんだぁ俺は!」

「そんな馬鹿ばかなッ!」

 正面から走ってくる、テニス部の芝田の姿をとらえた加藤は、驚きのあまり目を見開いた。加藤の方が教室を出たのは先のはずなのに。

 加藤は走りながら脳内に立体の学校の地図を展開てんかいした。

 加藤のクラスは校舎四階。残念ながら、この離れの校舎にはトイレは無く、本校舎まで行く必要があった。ただ、本校舎に行く手段は二つしかない。二階の渡り廊下か、一階まで降りるか。

(コイツ、完全に俺の動きを読んでいるとしか思えない立ち回り......一体どうやって)

「ははは、教室の後ろの扉を出たお前は、教室を横切る方向には走らない!前の扉から出てきた奴らに簡単につかまってしまうからなぁ!」

 確かにそうだ。いくら足が速いとは言え、そうこうしている間に教室の一番右前に座っている奴に捕まってしまう。

 その事を本能でさとっていたからこそ、迷う事なく進路を決めていたのかもしれない。

「だから、教室すぐ横の階段を降りてから、向かいの階段を上ってきたのさ!」

「あまりにも早すぎる!俺は陸上部だぞ!」

「追いついたのは事実だ。その現実とこの一撃いちげきを受け止めるがいい!」

「ッ!」

 背中から抜いたのは一本のラケット。

 グリップを右手で血管が浮き出るまで握りしめた柴田は、すぐバウンドしたボールをストロークでコート奥に返す勢いで中段を打った。

 ボールは加藤だ。

 だが、加藤はそれを軽々と飛び越えてかわしてみせた。

「なにっ!?」

「あまりにも低すぎる!俺は陸上部だぞ!ハードルだ!はははははは」

 差し足からの抜き足。華麗かれいな動きで柴田の一撃をけた加藤は、勢いそのままに疾走しっそうを続ける。

「クッソ......石田ぁ!」

 芝田は、加藤を追いかけていたクラスメイト数名の先頭を走っていた石田にラケットを投げた。彼も同じくテニス部所属しょぞくだ。

「任せろ。確実に仕留める」

 ポケットからボールを取り出す。飛んできたラケットを受け取る。そこから打つ姿勢に入るために体をひねる。その一連の動作があまりにもスムーズ過ぎる。

「おらぁあああ!」

 咆哮ほうこう。化け物のそれに近しいほどの。

 撃たれた球は一直線に、加藤へと飛んでいった。空気を切るラケットの音と、ボールが生み出した気流の渦が廊下に生まれた。

「さすが、《音速》の称号は伊達じゃない」

 他校からは、その音を置き去りにするような球速をたたえてそう呼ばれているらしい。ボールと加藤の距離はみるみるうちに縮んでいく。

 だが、そのボールは加藤に当たることはなく、校舎はしの音楽室のドアに突き刺さった。白煙はくえんを上げながらボールにかかっていた回転が徐々にゆるまっていく。

「くそ、もう階段に差し掛かっていたか」

「逃げ足の速い奴め」

「追え!まだ渡り廊下を渡っていない!」

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