04_約束

 大事な話がある、と言われた。

 いつになく真面目な顔をした父は、時間をかけて色々なことを説明してくれた。

 ひとつの職場に勤められる期限のこと、近くにはもう転勤できる場所がないこと──ほとんど頭に入らなかったが、要点はただひとつ。

 あと一年で、ほぼ確実に転校と引っ越しがやってくるということだった。

 父は申し訳なさそうにしつつも終始落ち着いていた。母は後ろめたさと安堵が混ざったような複雑な表情をしていた。

 呆然としたまま一旦は頷いて、雪野姉さんに同じ話をした。いまいち状況を理解できていなかった私より、雪野姉さんの方がはるかにショックを受けていた。

 驚きのあまり自分の涙は引っ込んだ。いつも大泣きするのは私の役目で、なだめるのは雪野姉さんの役目だった。私は人の慰め方なんて知らなかったから、子供のように泣きじゃくる雪野姉さんの背中を必死で撫でることしかできなかった。

「大丈夫だよ。まだ一年先の話だし、遠くになるとは限らないし、高校生になればスマホだって買ってもらえるし、ふたりでたくさんお喋りしようよ」

「街に行ったら同い年の女の子だってたくさんいるのに? しぃちゃん、本当にあたしのこと忘れないでいてくれる?」

「忘れたりしないよ! 何年一緒にいると思ってるの」

 涙声を努めて明るく遮って、私はとっておきの夢を口にした。海に誘った時みたいに、雪野姉さんにもう一度笑って欲しかった。

「私、いっぱい勉強して、雪野姉さんと同じ大学に行くよ。そしたらたくさん遊べるし、やろうと思えば一緒に住めるんだって! ルームシェアっていうんでしょう? 私、あれやってみたくて──」

 雪野姉さんの唇が震える。引きつった笑みの隙間から、掠れた呟きがか細く落ちた。

「無理だよ」

 雪野姉さんの手が、涙に濡れたまま私の肩を強く掴んだ。

「しぃちゃんは県外の大学に行くんでしょう? あたしは無理なの。そんなことできないの」

 雪野姉さんの瞳は真っ黒に淀んで、喜びの色など欠片もなかった。

「お兄ちゃんがだめって言われたって。お父さん、そんなお金ないって──」

 嗚咽おえつの隙間から搾り出された声に、私は咄嗟には何も答えられなかった。両手で顔を覆ってしまった雪野姉さんを抱きしめて、呆然と天井を仰いだ。

 生まれてからずっと一緒に育った。同じ保育園で遊び、小学校で学び、中学校への通学路を歩いた。これからも同じ道を歩いていくのだと思っていた。

 確かに、小さな違いはあった。雪野姉さんの方が勉強が得意で、木登りは私の方が上手かった。雪野姉さんには春雪くんがいて、一人っ子の私は兄の存在が時々羨ましかった。雪野姉さんの母親は私たちが物心ついた頃にはいなくて、伯父は集落むらの外には出られない体だった。私の両親はどちらも外に働きに出て、朝夕にしか家にいなかったから、本家に顔を出すと伯父が声をかけてくれるのが嬉しかった。

 どれも些細なことだと思っていた。私はいつも雪野姉さんに手を引いてもらっていた。ずっと、何の疑問も持たずに。

 ともすれば我が家よりも見慣れた雪野姉さんの部屋の天井が、今はひどく低く感じられた。こうしている間にも少しずつ狭まって、雪野姉さんを押しつぶしてしまう予感がして、否応なしに身が竦んだ。

 それでも。

「そんなのおかしい。お父さん、雪野姉さんの成績なら進学コースに入れるって言ってたもん」

 私は雪野姉さんと違って決して優等生ではなかった。うつほさまのお社に入り浸り、桑の実をつまみ、駄菓子を買い食いする悪い子供だった。

 自治会の大人にはよく怒られたし、母にもしょっちゅう文句を言われて、温厚な父にさえ時々は叱られた。わかってもらえなくて不貞腐れることなんてしょっちゅうあったけれど、私の悪癖は結局治ることがなかった。

 何を選ぼうと、真っ直ぐに幸せを願ってくれる空穂がいたから。

 だから、ありとあらゆる手を使って、駄々をこねることに決めた。

 ──話がある、と両親を呼びつけた。

 転校を盾に取ったすこぶる感情的な訴えを、二人は不思議と神妙な顔で聞いていた。

 教師である父は、生真面目な性格も相まって、春雪くんと伯父の決裂を気に病んでいた節があった。

 どちらかといえば母の反対を警戒していたが、実際の反応は意外なものだった。

「いいんじゃないの? お金も浮くし、あんた、一人暮らしさせたら昼夜逆転しそうだし」

 母はじっと私を見て、父を見て、それから誰へともなく呟いた。

「雪野ちゃんだって、人生で一回くらいは、外の釜の飯を食べたほうがいいもの」

 伯父に話をしてみると、二人は約束してくれた。

 私のやり方はきっと一番正しい方法ではなかった。大人たちがどういう話し合いをしたのかは知らされなかったけれど、折り合いがつくまでかなりの時間がかかった。雪野姉さんが泣き腫らした目で登校してきたのは一度や二度ではなかったし、三度目を境に春雪くんの名前を一切聞かなくなった。

 雪野姉さんの家には少しだけ遊びに行きづらくなって、代わりにお社に入り浸る時間が増えた。

 桑の実を分け合いながら、次の恵餌祭で会う約束をした。空穂の火傷跡は端正な口元まで伸びていた。

「しぃはまだ舞姫はらないのか?」

「まだ二年あるよ」

 そうだったか、と大真面目におじいちゃんのような言い方をするので笑ってしまった。

 長く生きてきたからか、空穂の時間感覚は時々驚くほど曖昧だった。

 ふと足元が覚束おぼつかない感じがして、私は木塀に背を預けて座り込んだ。夕暮れの恵餌郷に灯る光は、昔より僅かに減っていた。

「でも、やらずに終わっちゃうかも。ごめんね」

 三ヶ月近く切り出し損ねていた話は、いざ口に出してみても切れ切れになってしまって、止めることもできないまま夕闇が深まっていくのを眺めた。

 私の長く散漫な説明を、空穂は一度たりとも急かさなかった。

「だからね、四月になったら、私──」

 言葉を続けようとして、なんら具体的な像を描けないことに呆然とした。雪野姉さんがいない、空穂もいない、故郷ではない場所。日常の全てが根幹から失われると思うと、恐怖で足が竦んだ。

 降り積もった沈黙が決壊する寸前、視界をよぎったのは一条の光だった。

 緩やかに明滅する曲線を視線で追って、石段の縁で瞬く小さな羽虫を見つける。

 灯虫ひむしではない。

 炎よりずっと優しい、熱を持たない無音の光。

「蛍……」

 もうそんな季節になったのだ。

 来年、私がここで蛍を見ることはきっとない。

 生々しさを増した想像から身を守るように膝を抱える。湿度を含んだ夜風が、ひどく肌寒く感じられた。

 不意に、寂しげな口笛が夜風に混ざった。感情の波に寄り添うように一定の旋律を繰り返すその曲は、私も知っている童謡だった。

 ほう、ほう、ほたるこい──

「空穂、口笛なんて吹けたんだね」

 私が軽口を叩けるようになる頃には、視界一面に無数の蛍が舞っていた。

「かつて教えてもらってな。太一たいちはいっとう口笛が上手だった」

「今も恵餌にいる人?」

「いいや。大人になってすぐ恵餌を出て、二度と帰らなかった」

 空穂の声は静かだった。

「太一だけではない。いつの時代も郷に疎まれる子はいるものだ。山を彷徨うのを見つけては社に呼んで、色々な話をしたよ。口笛や唄、折紙に手遊び、お前たちの食べ物の味。お前たちは常に、おれに新しいものを教えてくれた」

 名前を呼ばれて、慎重に視線を持ち上げる。

「もうここには戻らないのか?」

「そんなわけない」

 意図したよりずっと強い語気に自分で驚いた。

「帰ってくるよ。雪野姉さんがいるんだから」

 母はそう頻繁には帰省したがらないだろう。

 それでも、県外の学校にいた頃でさえ、恵餌祭の時期には戻ってきていたと聞いていた。

「空穂にだって、ちゃんと会いにくるよ。恵餌の子じゃなくなっても、私、ここに来ていいよね?」

 お土産たくさん持ってくるから、と付け加えると、空穂は穏やかに応じた。

「手土産などなくとも、いつでもおいで」

 頷いた拍子に、二ヶ月前に引っ込んだ涙が思い出したように頬を流れた。



 伯父が父を訪ねてきたのは、盆前の蒸した日のことだった。

 玄関での一瞥でただならぬ事態と察した。草臥くたびれたベージュの背広は、年に数回しか袖を通されない伯父の一張羅だった。

 私は座敷に入れてもらえなかった。父と伯父が向かい合って座るのを見送って、忍び足で隣室のふすまに張り付いた。窓の外からは糾弾じみたひぐらしの声が響いていた。

「先生。奨学金のこと、色々調べてくれてありがとうございました」

 襖の隙間から、伯父の形をした影が深々と頭を下げるのが見えた。

「俺にもようわかりました。先生が真剣に考えてくれたゆうことも」

 短い沈黙を挟んで、伯父の声が続けた。

「俺はうつほさまに命を拾ってもらったもんで、この郷からは出れんけども、銀子ぎんこを外に出してやったのをずっと自分の支えにしとったんです」

 恵餌は県境にほど近い山中にある。母の進学先に県外の看護学校を勧めたのは兄である伯父で、故郷を出た母はその先で父に出会った。

「その銀子が、難しいお産のためとはいえ恵餌に戻ったのにはたまげたけんど……昭輝あきてる君みたいな、立派な先生と一緒になったのがわかって、ほんに安心したんです」

 父の相槌を最後に会話が途切れる。襖越しの沈黙は、今度こそ恐ろしく長かった。

 ひどく重い響きで、「先生」と伯父の声が膠着を割った。

春雪はるゆきは長男だもんで外には出せんけど、雪野ゆきのくらいは好きにさせてやりてえと思います。雪野は俺や春雪よりずっと頭のいい子だし、しぃちゃんと一緒ならいくらか安心できるもんで」

 数ヶ月に及ぶ戦いの終わりは、想像より呆気ないものだった。

 翌日に雪野姉さんと顔を合わせて、私はようやく安堵を実感した。

 雪野姉さんは家族との衝突についてほとんど口にしなかったけれど、きっと私よりずっと長い時間に感じただろう。薄らと涙ぐんだ雪野姉さんに寄り添って、少しだけましになった手つきで背中を撫でた。

「大学生になったら、今度は二人で海に行こうよ。そんで、かき氷とか食べよう」

「うん。絶対に」

 黒い瞳は、今度こそ確かに微笑んでいた。

「お兄ちゃんがまた何か言ってきても、あたし、今度は一人でもちゃんと頑張るから」

 内緒話をする小さな子供のように頬を寄せて、「ねぇ」と雪野姉さんが囁く。

「頑張るけど、もしまただめになった時は、しぃちゃんが迎えにきてくれる?」

「当たり前じゃん」

 改まって何を言うのかと、私は少し呆れてしまった。私を見つめる雪野姉さんの表情は、不釣り合いなくらい切実だった。

「本当に? あたしの味方でいてくれる?」

「もちろん。約束するよ」

 威勢よく答えて、雪野姉さんと指切りをした。



 それからの時間は瞬く間に過ぎていった。

 三月の末、暦に追われるようにして住み慣れた恵餌郷えじのさとを離れた。見送りの雪野姉さんからもらい泣きをした割に、私には何の実感もわかなかった。

 恵餌の春はまだ遠い。

 残雪が光る渓谷の道を、見知らぬ土地に向けて母の車が駆けていく。

 隣町を抜けて高速道路に乗る頃には、お社の鍵は劣化したアルミホイルの塊に戻って、掌の中でボロボロに崩れてしまった。とっくに履けなくなった赤い長靴は、段ボールの隙間から色褪いろあせた折り紙になって発見された。押し葉にしたはずの桑の葉は朽ちて、干からびた灰色の枝だけが残った。

 空穂に与えられたものが失われていく中で、変わらなかったのはただひとつ。

 最後の恵餌祭で空穂から手渡された、小指の先ほどの守り石だけ。

「おれの手は恵餌の外には届かないが、厄除け程度にはなるだろう」

 舞姫の後、社務所の裏で、空穂はそう言って私の左手首に赤い組紐を巻いた。二周した紐に継ぎ目はなく、丸く削られた石の表面には格子状の奇妙な模様があった。

「しぃ」

 空穂の両手が私の左手を包んだ。祈るように、空穂の唇が覆面越しに触れたのを覚えている。

「辛くなったらいつでも帰っておいで」

 囁く声はいつも通り穏やかだった。

「どこへ行こうと、お前はおれの愛する恵餌の子なのだから」

 父の転勤先は、県内で恵餌から一番遠い地区だった。

 私は当然のように新しい環境に馴染めなかったし、故郷は気軽に戻れる場所ではなくなってしまったけれど、空穂がくれた守り石はいつだって私の味方だった。

 そう信じていた。



  ◇◆◇

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