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 供養に使うという小舟はいくつか予備があった。ほとんどは材料の状態で組み上がってはいなかったが、工房の隅にひとつだけ完成したものが置かれていた。

 断りを入れてから、軽く見せてもらった。遠目に確認しただけではわからなかったが、案外と大きい。設けられた小部屋は大人一人が寝転んでも平気そうなほど広さがある。供養の意味合いによる舟なのだから、魂がここに入ってきても不自由させないようにとの気配りだろう。

 喜三郎に礼を伝え、暫くは付近の村に滞在している旨も同時に話した。彼は快活に笑い、工房の出口まで見送ってくれた。暫く歩いて振り返った後もまだこちらに手を振っていた。

 集落を離れ、釣り人を襲った林に差し掛かったところで、不知火の袖を引いた。彼は不思議そうにしながら、立ち止まった。

「不知火。喜三郎さんを食いたい理由、あるんやったら教えて欲しい」

 聞いてみるが、首を振られた。

「ハルは、知らなくてもいいことだ」

「なんでや?」

「なあハル、おれは“化け物“なんだぜ。食べたい時に、美味そうなやつを、好きに食うよ。それで、おれにはなんでそんなことを聞いてくるかの方が、不思議だ。喜三郎を食べるのは、嫌なのか」

 つい口籠もってしまった。不知火は話を切って歩き始め、私も遅れて、後を追う。林はすぐに抜けた。すっかり夕暮れで、遠くに見えた滞在中の村は橙に染まりつつあった。

 釈然としないものを感じるが、追求し切れない。不知火のために手を尽くしたいと思う一方で、拭い去れない仄かな動揺がある。

 当然、不知火は感知した。宿の部屋に入るなり、目を赤く光らせて私の腕を強く掴んだ。爪が鋭く、伸びていた。

「美味そうな匂いだね、ハル。釣り人を食ってなかったら、腕ぐらい欲しかったかもしれない」

「匂い……どんな匂いが、するんや」

 不知火は口角を吊り上げて、髪を巻き込みながら私の首筋に鼻先を押しつける。

「不安そうで、美味そうだ。でもおれも覚えてきたよ。ある程度は我慢する方が、何でもかんでも食べちまうより、美味いんだってことをさ」

 腕が離れていく。こちらに背を向けた不知火が、どんな顔をしているのかはわからない。

 背中に凭れ掛かりながら抱きついた。私ははじめから、彼に食われてもまったく構わないのだと、言い続けていたつもりだった。だから今腕の一本ぐらい欲しいのであれば、食ってもらいたかった。

 不知火は振り向き、しがみつく私の背中に手を回した。慎重な手つきだったし、爪はもう出ていなかった。

「ハル、おれは少しずつ、父さんのこともわかるようになってきた」

 耳元ですんすんと鼻を鳴らされ、羞恥心が込み上げるが強く抱かれて離せない。

「父さんはさ、母さんのこと、本当に好きだったんだろうな。人間って脆いし小さいし、気をつけてないとすぐに死んじまうから、一緒にいると大変だけどそれでも一緒にいたんだから、すごく好きじゃないとそんなこと、出来ないよな」

「それは、そうかもしれん、けど」

「あんただって、おれといるのは大変だろ。でもついてきて、おれのために色々しようとしてて、こういうのは、健気ってやつなのかな。ハル、あんたは、かわいいな」

 羞恥が限界になった。背中をどんどん叩いて抗議すれば、なんとか離してもらえた。

 暗くなった部屋の中に不知火の赤い眼だけが浮いている。それは違わずじっとこちらを見つめているので、堪らなくなり髪で顔を隠して視線を凌いだ。

「か、かわいいかはともかく、俺は、不知火が食いたいんやったらそれが俺でも、他の誰かでも、協力する」

 今度は不知火が抱き付いてきた。嬉しそうに頭を擦り付けてくるので、ほっとした。仄かな不安自体はまだあったが、私は不知火が最も大事なのだと、自分自身でよくわかった。


 数日、準備に時間を費やした。不知火は日に日に鼻が慣れてきたらしく、滞在している村では布を当てる必要がなくなった。海辺の集落はまだ辛いようだったが、はじめの嫌がり方を思えば随分と良くなった。

 そもそも、私の感じている磯の風味、塩っぽさのある湿った香りとは別のところで、不知火は慣れずに苦労していたらしい。

「死んでる臭いと生きてる臭いがめちゃくちゃになって混ざってるんだ、海は。悔恨も喜びも全部一緒くたになってて、どうしても慣れなかった。山や森だと、木とか土が、そういうのはから。海だと、溜め込むばっかりなのかもしれない。案外それが、不知火っていう海の火の、正体かもね」

 集落に向かう道すがら、潮風を浴びながら不知火はそう話した。私には感知できないものだが、彼が言うのであれば間違いはなさそうだ。

 辺りは暗く、人が寝静まり、獣の動く時間だった。虫の声に漣の音が重なって、風と共に舞っている。道中の林はほとんど暗闇だ。足を踏み入れた瞬間は獣の気配があったが、不知火が唸れば雑草を割って逃げ去る音が聞こえた。木に覆われていれば、確かに潮の匂いは中和される。慣れ親しんだ土の香が、歩くたびに過ぎっていった。

 海辺の集落が見えた。灯りのついた家はほとんどなく、獣よけの篝火だけが、集落の中に点在している。

 砂浜に降りたところで、背負っていた大振りの籠を下ろした。砂がにわかに跳ね、草履の中に入り込んだため、ついでに脱ぐ。私がそうしている間に、不知火は獣の姿になった。目立つためか、紅い眼光は抑えられている。

「ハル」

「うん」

「すぐ戻るから、待ってて」

「うん、気をつけてな」

 体を撫でてやると、一度頭を押し付けてきた。それから海へと向かい、真っ黒な海水の中に身を沈めた。暫く見守っていたが、あまり心配しすぎても良くはない。

 砂浜に座り、漣の独特な調子を聴きながら、待った。そう時間が経たないうちに、不知火は戻ってきた。背中に乗せられている喜三郎は、手足を投げ出しぐったりとしていた。

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