ホテル三階の非常階段の前に、塩野彰は立っていた。目の前の廊下には、血のついた服やガーゼが点々と置かれている。廊下の向こうから、非常階段の入り口に続くように。怪我をしたエレンが身に着けていた服や、治療に使ったガーゼなど。それらを廊下に置き、シャーク・マンを誘き寄せるエサにしようというのだ。

(血の臭いはサメを誘き寄せるというが)

 上手くいく保証はなかった。だが深夜のこの時間、ショッピングモールの一階二階や、診療所などがある三階に人はいない。他に襲う者がいないのなら、臭いにひかれてこちらに来る可能性は充分あるはずだった。

(あと心配なのは、島崎たちの準備が終わるかどうか、だが……)

 そう思った矢先、スマートフォンがメッセージの着信音を鳴らした。廊下の先に意識を向けながら、使い慣れないメッセージアプリを確認する。エレン、島崎大介、筒井麻世それぞれから、「準備完了」のメッセージが来ていた。

(よしっ)

 内心歓声を上げる。続けて、

「来るなら来やがれっ」

 小声で彰は叫び、

「…………ァァァァクゥゥゥ……」

 それと同時に……廊下の先、角を曲がってサメの頭が現れた。宙に浮いたサメの巨体が、次いでサメを左腕で抱えた人間が、彰の目に映る。何かを確認するかのように下を向いていた人間の頭。エサをねだるように口を開閉させているサメの頭。二つの頭が動き、彰の方を向いた。合計四つの目が、彰を見ていた。

「……ああ、ほんと来るんじゃねぇよ……」

 思わず彰は恨み言を言い、

「くそったれが!」

「シャァァァァァァァァァァァァァク!」

 背を向け一気に非常階段を上り始めた。


 彰の考えた作戦は非常にシンプルなものだった。彰がシャーク・マンを非常階段まで誘き寄せた後、最上階までひきつけて駆けていく。その隙に大介と麻世が、予め反対側の非常階段に集めておいた従業員や客を外へと誘導して逃がす。エレンは銃を使って各階の防火シャッターを下ろし、シャーク・マンが他の階に侵入しないようにしておく。そして最上階に辿り着いた彰は、そこからシャーク・マンを突き落とし、あの怪物を倒そうというのである。いかに筋肉とサメを持つシャーク・マンとはいえ……いや、硬い筋肉と重いサメを持つシャーク・マンだからこそ、二十五階の高さから落とされれば命は無いはずであった。

「ほんとに上手くいくのぉ……」

「ここまできたらやるしかないっしょ?」

 隣で不安そうにしている麻世に対して、大介は肩をすくめながらそう言った。二人の後ろには、不平不満を口にしている従業員や客の姿があった。マスターキーでスタッフルームや部屋に押し入り、ホテルに異常者が入り込んだから避難しなくてはいけないとウソ――いやほんとか――を言って連れ出して、こうして非常階段を下りている最中だった。そう、もう事は始めてしまったのだ。だったら今更不安がっても意味は無い。最後まで付き合うだけである。

(ま、何だかんだ、最後には上手くまとめちゃう人っすからね)

 やる気は無いのに変なところで義理堅く、どういうわけか結構有能で、いろいろ厄介ごとが起きてもちゃんと対処してしまう男。それが塩野彰だ。そんな自分の上司のことを、大介はそれなりに信頼し、気に入ってもいた。何よりも、ちゃんと手当てを保証してくれるところがいい。義理を尽くし金も払ってくれるとなれば、こちらもそれに応えようと思えるというものである。

(今回のは、ちょっと行き過ぎの気もするっすけどね……)

 ホテルの落ち度を告発するだけのつもりが、出てきたのはサメの怪物と米軍である。いくらなんでも手に余る。それでもまだ会社やら恩人やらに義理を尽くそうとする彰には、正直ちょっとあきれてしまうのだが、

(……人のこと言えないっすかね)

 それに付き合う自分も同類だろう。彰のことは笑えなかった。

「はぁ……なんで私、こんなことしてるんだろ……無関係なのに……」

 麻世は階段を下りる度に、一つぼやきを口にする。客が固まっていた二十階からここまで、どれだけ同じぼやきを聞いただろう。だがそれももうすぐ終わりだ。ようやく二階まで下りてこられた。一階の出口はすぐそこだ、

「――ストォォップ!」

 そう思ったところで、大介は叫び声を上げていた。他の客たちの足を止め、麻世の手を引いて二階の廊下に飛び込む。寸前に感じた嫌な予感……それはすぐ現実のものとなった。銃声が響き、大介たちが立っていた場所を弾丸が打ち抜いたのだ。階段の上にいる客たちが悲鳴を上げ、その場で尻餅をつく音が聞こえた。

「……ほんと、手に余るっすよ」

 壁に身を寄せながら、ちらりと階下を覗き込む。黒い防弾ジャケットを身に着けた兵士が二人、銃を構えてそこにいた。


 駆けて、駆けて、駆けて……体力を限界まで振り絞って駆け続け、彰は最上階に辿り着いた。目の前には展望レストラン。だがそこはガラスで遮られている。レストランに入るには、大きなガラス戸を開けなければならないが、そこには当然鍵がかかっていた。目的のスカイテラスは、更にその向こうだ。

「マスターキーは……くそっ、島崎に渡しちまったんだ……!」

 レストランに沿うように延びている廊下の先を見やる。真ん中ほどに、誰が置き忘れたのか、清掃用具が置いてあった。側には業務用の大型掃除機もある。あれを使ってガラスを割るしかないようだった。

「また走るのかよっ」

 悪態をつきながらも足を動かす。階段の下からは、シャーク・マンの吐息が響いてきていた。遠からずヤツもここに上がってくる。休んでいる暇はなかった。荒く息をつきながら彰は走り、

「うおっ!」

「うわっ……な、何だね、君は!」

 廊下の壁に、これ見よがしに作られた豪華な木の扉。社長室へと続くその扉を開けて、太った白髪男が姿を現した。社長の坂田金治郎だった。

(しまった、忘れてた!)

 シャーク・マンに気をとられるあまり、金治郎が社長室に泊まり込んでいることを失念していた。

(まずいな、くそ!)

 内心焦る彰をよそに、金治郎はじろじろと無遠慮な視線を向けてくる。その目が、彰の襟についた茶色のバッジにとまり、

「なんだ、清掃員か……まぁいい、君、ちょっとレストランからシャンパンを持ってきてくれんかね」

「シャ、シャンパン、ですか?」

 暢気な物言いに、思わず聞き返してしまった。それが癇に障ったのだろうか、金治郎は不機嫌な顔つきになり、

「そうだ、シャンパンだよっ、一回で理解できんのかね君は! 明日はホテルの正式オープン日、そして君も知っているだろうが私の誕生日だ。記念すべきその日を前に、一人静かに祝おうとしている私の気持ちが分からんのかねっ」

「は、はぁ……かしこまりました、では後ほどお持ちしますので、社長はどうぞお部屋の方へ……」

「後ほどだと! 後ほどとは何だ! 私が頼んでいるのだぞ、今すぐ持ってこい!」

「ですが、その……」

「ですがとは何だですがとは! 君はいったい何様のつもりかね! これ以上逆らうならクビにするぞ、クビに! 清掃員の代わりなんていくらでもいるんだからな!」

 金治郎は唾をまき散らしながら大声を張り上げた。顔を真っ赤にしながら「クビだ! クビだ!」と一人で騒ぎ、

「ク……!」

 ドンッという鈍い音と共に、金治郎の首から上が宙を舞った。くるくると回転してその頭が床に落ち、一歩遅れて体が倒れる。首から溢れる血に足を浸しながら、彰は非常階段の入り口に顔を向けた。

 そこに……シャーク・マンが立っていた。さしものシャーク・マンも、二十五階まで駆け上がったことで体力を消耗したのか、足を引きずるようにしながら中に入ってきた。と、そこで足を止め……左手を、サメの口の中に突っ込んでいた。その手でサメの鋭い歯を掴み、

「――ふざけんな!」

 そう叫びながら、彰はその場に身を伏せていた。その上を、白い物体が……サメの鋭い歯が飛んでいく。歯は音を立てて宙を飛び、奥の壁にぶつかって轟音を響かせた。

 シャーク・マンは右腕のサメの歯を引き抜き、それを恐ろしい力で投げてきたのだ。その凶器で、金治郎の頭を切り飛ばしたのである。

「何でもありかよ、こんちくしょうっ」

 悪態をつく彰の視線の先で……シャーク・マンは再び、左手をサメの口に伸ばしていた。


「予想しておくべきだったっすね……」

 舌打ち混じりに大介は呟いた。エレンという女の話では、伍長はこのホテルを実験場にし、客たちをシャーク・マンのエサにしようとしているのだ。そしてその本番は、明日のホテルの正式オープン日だという。だとしたら、異常を察した人間が逃げたりしないよう、見張りぐらいは置くのが当たり前であった。

「どうすんのよ! ねぇどうすんの!」

 隣で麻世が叫んでいる。だが聞きたいのは大介の方だった。短機関銃を持った軍人二人を相手に、ただの大卒社会人が何をどうすれば対抗できるというのか。

(何とかしないとまずいっすけど……)

 階段上の客や従業員たちは、今は腰を抜かしているが……次にまた銃声が響いたりしたら、慌てて上に逃げてしまうだろう。そして上の階にはシャーク・マンがいる。人の気配を察したシャーク・マンが下りてきてしまったら、彰の作戦が台無しになってしまうのだ。何とかしてここを突破し、一階から皆で脱出しなければならなかった。

(一か八か、突っ込むっすか……?)

 大介の頭にやけくそ気味の考えが浮かんだ、正にその瞬間、

「無関係だって……私無関係だって言ってんだろ!」

 麻世が非常階段に飛び出していた。大介は「バカ!」と叫び、麻世の腕を掴んで止めようとするが、間に合わない。次の瞬間、彼女は蜂の巣にされてしまうだろう、踊り場に身を乗り出してしまった大介と一緒に……

「ぐぇ!」

 ……だがそうはならなかった。階下で鈍い悲鳴が響き、兵士の一人がばたりと倒れる。残ったもう一人は、銃口を一階非常階段口の外に向けながら、慌てたように階段下に移動してきた。そこへ、

「ビッチなめてんじゃねぇぞおらぁ!」

 両足をそろえて麻世が飛び下りた。真っ直ぐ伸びた足が、兵士の頭に直撃し、

「ぐぇ!」

 一人目の兵士と同じ悲鳴を上げて倒れ伏した。勢い余った麻世がそこで尻餅をつき、兵士にとどめを刺す。

「いっ……てぇなくそ!」

 乱暴な口調で悪態をつく麻世。そこに、非常階段口から入ってきた男が麻世に近づいてきた。四十過ぎのやせ形の、どこか頼りない風貌の男だ。消火器を両手で抱えた彼が、恐る恐る麻世に声をかける。

「あの……お客様、お怪我はありませんか?」

 見慣れぬ男の出現に、麻世が階上に顔を向けてきた。麻世と目が合い、大介も一緒に首を傾げる。

「「……誰?」」

 二人の同時の呟きに、

「……社長秘書の、伊豆見です」

 ため息混じりに、男――伊豆見春人はそう答えた。


 廊下の柱の陰に隠れた彰は、そこから顔を覗かせようとし、

「――!」

 危険を察して頭を引っ込めた。その眼前を、サメの歯が飛んでいく。間を置かず轟音が響く。サメの歯がまた奥の壁にぶち当たったのだ。

「ちくしょう、楽しんでやがるなっ」

 シャーク・マンの体力はもう回復しているであろう。彰を殺そうと思えば、いつでもこちらに来られるはずだ。だのに、シャーク・マンはそうしなかった。非常階段の入り口に立ったまま、そこからサメの歯を投げてくるばかりである。ネコがネズミをいたぶるように、あとは殺すばかりの獲物を弄んでいるのかもしれなかった。

(このままじゃじり貧だ……だが、どうする?)

 抜いた先から歯は生えてくるのか、いつまで経っても歯が尽きる様子は無い。シャーク・マンの攻撃がやむのを黙って待っていても、こちらの体力が尽きるのが先であろう。

 額の汗を拭いながら、彰は視線を動かした。木の扉から階段を上って、社長室に逃げるか? いや、そこは袋小路だ。社長室に逃げ込んだりしたら、それこそ追い詰められてしまうだろう。スカイテラスへと続く展望レストランは目の前だが、廊下とはガラスで隔てられている。マスターキーが無いため、戸を開けることもできない。仮にキーがあっても、サメの歯が飛んできている今、戸まで辿り着くこと事態が至難の業だ。

(マジに万事休すかよ……)

 呻く彰の耳に、

「彰!」

 突然その名を呼ぶ声がした。同時に銃声、次いでシャーク・マンの苦悶の声が響く。驚きに声がした方を見れば、廊下に腹ばいになったエレンが、拳銃を構えシャーク・マン目掛けて撃っていた。反対側の非常階段から上ってきたエレンが、シャーク・マンに気取られないよう身を隠しながら、ここまで近づいてきていたのだ。

「おせえよ!」

 怒鳴りながら彰は柱の陰から飛び出した。エレンが銃で牽制しているうちに掃除用具のところまで走り、大型掃除機を持ち上げると同時にガラス目掛けて投げつける。正に火事場の馬鹿力だ。大型掃除機の直撃を受けて、展望レストランと廊下を隔てるガラスは砕け散っていた。

「行くぞ!」

 一声叫び、彰はあいた穴からレストランの中へ飛び込んだ。銃を撃ちながらエレンも立ち上がり、彰に続く。

「シャァァァァァァァァァァァァァク!」

 シャーク・マンの怒りの声が、すぐに後を追いかけてきていた。

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