Monochrome

吉村杏

 一九四一年当時、ぼくの一家はヴィラに住んでいた。父親の転勤で、ミュンヘンの小ぢんまりしたアパートから、丘の上に建つ、煉瓦づくりの一軒家に移り住んだのだ。寝室が広くなったといって、母親ママは喜んでいた。それに、柵つきの庭も手に入った。

 ぼくはといえば、好きに使っていい子ども部屋を与えられていた。

「ぜんぶ、あなたのおかげよ。すごいわ」

 そう言って、新しい家の玄関先で母が父にキスをしたのを覚えている。

 父親パパはハンサムだった。金髪で背が高く、淡いブルーの目は、世の中のことをなんでも知っているように見えた。親衛隊の黒い制服を着込んだ姿は、最高に“イカして”いた。

 父親の言うことは絶対だった。なにしろ、彼は親衛隊大佐で、収容所所長で、そこにいるすべての人間が彼に服従するのだから。

はいヤヴォール、大佐殿!」――パパと同じ黒い制服を着た若い隊員たち。それから、家にやってくる、白髪まじりの、眼鏡をかけたポーランド人の税理士までが踵を打ち鳴らして敬礼するのを見るのが、ぼくはとても誇らしかった。

 ある日のこと、仕事から帰ったパパが、なにかの包みを取り出した。きれいに包装されていて、黄色いリボンまでかかっている。

「おまえにだ」

 パパはそれをぼくに差し出した。

「なに?」

「いいから開けてごらん」

 あらわれた三十六色のパステル・セットを目の前にして、ぼくの父親に対する憧れの念はさらに強くなった。

「すごいや! これ、どうしたの?」

「ちょっと早い誕生日プレゼントだ」

 パパは目を細めた。

 壊れやすいパステルは宝物だった。ぼくはそのひとつひとつをてのひらにのせて眺めた。三十六個の宝石を持っている幸せな子どもは、おそらくぼくひとりだろう。

 パパは画用紙もくれた。その厚紙の表紙をめくり、なにも描かれていない白い紙とむかいあう。それに、三十六色のパステル。これだけ色数があれば、金色の髪も青い目も、なんだって描ける。

 ぼくは一枚目に、親衛隊の制服を着たパパを描いた。レモン色、空色、薔薇色、白とクリーム。それに、赤と黒。

 ぼくは黒のパステルをていねいに指でのばした。紙の三分の二が、きらめくばかりの黒で埋まった。

 絵を見たパパは、ぼくをひざの上にのせてあやした。

「おまえは本当に絵が上手うまいな、将来は画家にでもなるか、え?」

 総統アドルフ・ヒトラーその人も絵を描くということをぼくも知っていた。総統がほんとうは、画家か建築家になりたかったということも。パパが教えてくれた。だから、芸術家は大事にされる。

「ぼくも親衛隊に入るよ。そして、パパみたいな黒い制服を着るんだ」

「そうか、でもそれならまずはユーゲントからはじめなくちゃな」

 親衛隊とヒトラー・ユーゲントは、ぼくらの年齢としの少年には憧れのまとだった。黒服の騎士たちと、おそろいのカーキ色のシャツと黒い半ズボンのその予備軍。ユーゲントではみんなで、黒と赤の旗の下で歌をうたったりする。街なかを勇ましく行進しているのをぼくも見たことがあった。

 黒と赤の洪水。いつかは世界中がその色で埋めつくされるだろう。

 ぼくは立派な木の箱に入ったパステル・セットを自分の部屋に持っていった。それから、召使に、この箱はぜったいに、落としたりしたらいけないと言った。

 ぜったいにだ、とぼくは二度言った。彼はうなずいた。

 そう、ぼくはこのとき、自分のメイドさえ持っていた。

 名前はダヴィド。「ユダヤ人ジューだが、役に立つ」という理由で、パパがぼくのために使用人にしたのだ。

 黒髪で、ほんとうは十五歳だと言っていたが痩せていて、十三歳くらいに見える。ママの手伝いをして、家の中の用事をこなすために別のメイド――彼女はポーランド人だ――もいるので、ダヴィドはぼくだけの召使だった。

 あのパステルでなにを描こう、と思うと、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。パパの仔犬の置物? ママの大切にしている絵皿を借りてこようか。それとも、台所からリンゴをもらってきて描いてみようか……。

 次の日、ぼくは題材探しに家中を駆けめぐった。なにか、すてきな絵になるものを!

 ぼくの情熱に、ママはようやく、庭で育てていた薔薇を切ることを承知してくれた。自分の子どもが偉大な画家になることを考えれば、薔薇の一本なんて惜しくもないだろうに!

 夕方、まだつぼみのうちに切っておけば、朝に花が開くのが見られるのよとママは言った。ぼくは花瓶をもってきて、そこに薔薇を挿した。朝起きたらすぐに描きはじめられるように、寝る前にイーゼルも組み立てておいた。

 薔薇がしおれてしまわないうちに、描きあげないといけない。ぼくは朝早いうちからはじめて、朝食に呼ばれるまで画用紙とにらめっこをしていた。それも、何度も呼ばれて、ついにママが癇癪かんしゃくを起こす寸前にようやく気づいたくらいだった。

 ぼくは急いで階下したにおりると、朝のお祈りもそこそこにオートミールをかきこみ、ママにおいしかったよも言い終えないうちに階段を駆け上がった。

「そうそう、ダヴィドに、洗濯物をもっていって部屋の掃除をするように言っておきましたからね!」

 うしろからママが大きな声で言った。

「ぼくはいま忙しいんだって、言っておいてよ! 邪魔しないでって!」

 戻ってみると、ダヴィドがいた。

 机の前に立って、パステルの箱を眺めている。蓋があけっぱなしだ。

「それに触っちゃだめだ!」

 ダヴィドはふりむいた。でも、そこから動こうとはしなかった。

「すごくもろいんだから」ぼくは言った。

「知ってるよ。――三十六色もあるんだ。きれいだね」

 ダヴィドはため息でもつくように言った。

「だろ? 誕生日プレゼントにパパがくれたんだ。いま、薔薇を描いているんだよ。ほら見て。ママが育てたやつだよ」 

「いいね」

 薔薇の花びらは、ローズピンクとサーモンピンクが塗り重ねられていくとちゅうだった。ダヴィドは少し首をかたむけて、花瓶にさしてある薔薇と、描きかけの絵を交互に見た。

「ああ、だめだよ、触っちゃ!」

 ダヴィドが絵の花びらに手を伸ばしたのでぼくは叫んだ。

「パステルはね、すごくくずれやすいんだ。ちょっとこすっただけでも、粉が落ちちゃうんだから」

「ああ」

 ダヴィドはほとんどうわのそらだった。ぼくの方を見ようともしない。

「ほんとに、きれいだね」

 彼が言っているのは薔薇のことではなかった。ダヴィドの目はあきらかに、きれいにニスの塗られた木箱に入った三十六本のパステル――触れるのもためらわれるような、美しく、壊れやすい、色の坩堝るつぼ――にむけられていた。

 あんまり彼がしげしげと見るので、ぼくはいつか彼がパステルを盗むのじゃないかという疑いに駆られた。

「もうしまわなくちゃ」

 ぼくはダヴィドを押しのけるようにして、パステルの箱の蓋に手をのばした。

「絵を描いているんじゃなかったの?」

「午前中はこれで終わりだよ」

「これはぼくのだ」ダヴィドが言った。

 ぼくは一瞬、なんのことだかわからなかった。

 彼はなおも言った。

「ぼくのパステル・セットだ。収容所ここへきた日に取り上げられた」

「なにを言ってるんだい、これがきみのだって?」

「そうだよ。まちがいない」

 あまりのことに、ぼくは笑った。

「なに、馬鹿なこと言ってるのさ、ダヴィド? 夢でも見てるんじゃないの? これはぼくがもらったプレゼントなんだよ、きみのであるわけないじゃないか」

「そうかもしれない、でも、ちがうんだ」

「だって、ちゃんと色紙に包んであったよ。リボンだってかかってた」

「そんなの、なんとでもできるよ」

「それに、一本も使ってなかったじゃないか」

「使うのがもったいなかったんだよ。そのままここへ持ってきた。そしたらトランクごと取り上げられて……」

「うそだ!」

「うそじゃない」

 ダヴィドは頑として言い続けた。自分がぜったいに正しい、泥棒はきみだ、とでも言わんばかりのその頑固さに、ぼくは怒りが湧いてきた。

「ぼくのパパがくれたんだぞ、ぼくの誕生日プレゼントに、って! パパをうそつき呼ばわりするのか!」

「うそじゃないよ。これはぼくのだ」

「それじゃ、おまえのものだって証拠でもあるのかい?」

「箱の底にぼくの名前が彫ってある。ダヴィドのDだ」

 ぼくは慎重に箱をひっくりかえしてみた。「そんなものはないよ」

「そこじゃない。パステルを持ち上げてごらん」

 パステルを、包んでいるクッション材ごとそっと持ち上げてみると、底の右下すみに、細い、ナイフで彫られたDの字があった。

 ――ぼくの負けだった。

 ダヴィドはなにも言わなかった。ぼくは、罪悪感と、裏切られたという思い――パパが他人ひとのものを“取り上げて”ぼくにくれたということ……こんなにきれいなパステルだもの、取り上げられたらぼくだって泣くだろう、それに、いままでこれはぼくのものだと信じてきたけれど、こうなった以上、ぼくはこれを彼に返さなきゃならないのだろうと感じていた。

 ――でも、いやだった。別の声がぼくにこうささやく、だれのものだってかまうもんか、おまえのものなんだからな。それに、これはぼくにくれたものだ。パパはこの収容所でいちばん偉いんだ。パパがなにもかもを管理している。だから、ここにあるあらゆるものはパパのものだ。断じて、ダヴィドのものじゃない。

「これはおまえのものじゃない」ようやくぼくは言った。「だって、パパがくれたんだからね。パパはここの所長だもの。パパがこれはぼくのものだって言えば、そうなんだよ。たしかに、以前まえはおまえのものだったかもしれないけどね。でも、いまはぼくのものだ、ぼくがこれを持っているから。そうだろ?」

「……そうだね」

 ダヴィドは暗い声で言った。くちびるを噛んで。

 彼の視線は、床と、ぼくが抱きかかえているパステル・ケースのあいだをいったりきたりした。

 しばらくそうやっていて、意を決したように彼は言った。

「でも、一度だけでいいんだ、貸してくれないか? 頼むよ、お願いだ……」

「……いいよ、だけど、ほんとうに、一度だけだからね」

 ぼくはしぶしぶ、灰色のパステルと画用紙を一枚彼に渡した。灰色ならほとんど使うことはないと思ったし、そうすることで、ついさっき感じたあのの悪さをなんとか帳消しにしようとしたのだ。

 ダヴィドはさらさらとパステルを走らせた。なにも見ないで。

 描きあがったのは、髪をシニョンにした女性の横顔だった。たぶん、そんなに若くはないように見えた。

「これ、だれ?」

「母だよ」

「ふうん。目の前にいないのに、よく描けるね」

「覚えているうちに、こうやって描いておかないと。写真もないしね」

 ゆたかな髪の毛が、波打つように画面に広がっている。いまにもこっちをむいて微笑みそうなくちびると、やさしいあごの線。

 ダヴィドはなかばうっとりとしたで自分の作品を眺めた。

 彼がそうするのも当然だった。ぼくの絵とは比べものにならないほどだということはわかった。ただぐいぐいとパステルを塗り重ねただけのぼくの薔薇とはちがって、ダヴィドの母親は若くもなく美人でもなかったけれど、紙の上での現実リアルだった。

「それ、ぼくにくれない?」

 ぼくは思わず口走っていた。

「え?」

「その絵をぼくにくれたら、灰色のパステルをあげるよ。交換だ」

「……嫌だ」

 ダヴィドはあとじさった。絵を胸に抱きかかえるようにして。その姿がぼくをなおさら意地悪にした。

「画用紙もあげるよ。そしたら、絵なんかいつでも描けるだろ?」

 たしかに、絵はいつでも描ける。でも、同じ絵は二度と描けない。

 そのことを、ぼくもダヴィドも、少なくとも絵を描いたことのある人間なら、いやというほど知っていた。彼が、その絵を、母親を思い出すにするだろうということもぼくにはわかっていた。写真も、ないからね、と彼は言ったのだ。

 このときぼくは、彼に嫉妬していたのだ。彼の才能に。そしてそれを自分のものにしたかったのだ。彼の母親の絵、思い出の一部をもぎ取ることで、その片鱗かけらででも手に入れたかった。

「……わかったよ」

 ダヴィドは絵を差し出した。画用紙から手が離れるとき、その手はふるえていた。

 ぼくはなんだかとても悪いことをした気になって、

「――ね、じゃあこうしよう。灰色のパステルだけっていうのはなし。ここにある色を全部使っていいよ。パステルはぼくのだけどね。そのかわり、きみはぼくに絵を教えるんだ。いいだろ?」

 ダヴィドはうなずいた。

 それから彼はぼくの“先生”になった。

 ダヴィドはぼくの部屋に入り浸りになり、ぼくのパステルで絵を描きはじめた。

 最初に見たきみの薔薇の絵だけど、と彼は言った。ピンクを均一に塗り重ねるんじゃなくて、ほら、花びらにかげができるだろ、そこへ緑をほんの少しのせるんだ……

「緑なんて見えないよ、おかしいじゃないか」

「そんなことないよ。ほら」

 ダヴィドは緑のパステルをちょっぴりナイフで削り、ママが化粧をするときのように、パステルの粉をのせた小指でそっと紙をなぞった。

「こうすると色に深みが出て、輪郭がはっきりするだろ?」

 薔薇の淡いピンク色は、緑に縁取られて、今ではくっきりと画面に浮かび上がっていた。

「ほんとだ――ねえ、どこで教わったの? だれか先生についていたの?」

「いや、独学だよ」

 ダヴィドは緑色を使って、窓から見える庭を描いた。白い柵に囲まれたそこは、半分が家庭菜園になっていた。パステルの角を使って、にんじんの尖った葉を描く。水玉のスカーフをちょこんと結んで、しゃがみこんで土いじりをしているママも描き込まれた。

「夏の庭だね」とぼくは言った。

 白樺の枝葉がつくる影が、絵の庭にのびていた。

「ぼくが戦前まえに住んでいたのはアパートの最上階でね、狭くて、天井がすごく近いんだ。でも、見晴らしのいい窓がひとつあって、いつもそこから見た絵を描いていたよ。赤い瓦屋根がいっぱいあってさ。たまには茶色とか黒のも。だから、その色のクレヨンだけがすぐなくなるんだ。……このパステル・セットだけどね」ダヴィドは木陰に灰色をおきながら言った。「パパがぼくにくれたんだよ。十五の誕生日にね」

 ぼくは絵と彼を交互に見た。彼の指は、いとおしむように、たんねんに灰色をすりこんでいた。その瞳は夢でも見ているようだった。

「ぼくのママはマイセンの食器のセットを持ってるんだ。すごく立派なやつだよ。中国ふうの花模様がついてるんだ。前のうちでは、そんなもの持てなかったんだけどね。それもパパがママにプレゼントしたんだけど。ママはとっても喜んでたよ。でも、それも……なのかなあ?」

「たぶんね」

 ほら、できた!

 ダヴィドはしゃべりながらも手を休めることはなく、夏の庭は完成した。

 ダヴィドはできあがった絵を、本職の画家のようにためつすがめつした。彼はぼくがわがままを言っても、パパが不機嫌なときに怒鳴りつけても、あんまり困った顔をしたり泣いたりはしなかった。わかりました、とだけ答える。

 笑うときも静かだったけど、絵のことになると熱がこもった。ここがいいとか悪いとか、そんなふうに批評する彼が、ぼくは好きだった。

 ある日、ぼくは言った。

「きみを描かせてよ」

 ダヴィドは身じろぎもせずそこに立った。ぼくはすみずみまで彼を“観察”した。彼のすべてを紙に書き写そうと思って。

 黒い巻き毛。黒い瞳。鼻は細く小さかった。手足が長く、気をつけの姿勢で立っていると、なんだかアンバランスに見えた。肌は少し青白かったが、元気なときだったらたぶんクリーム色、そして、頬もやわらかい薔薇色なんだろう。

 家の中ではきちんとしたかっこうをさせるように、というパパのお達しで、ダヴィドはレストランの給仕ケルナーのような白いシャツと、黒いズボンをはいていた。襟から見える首は細く、大きめのシャツが、痩せた肩の上にのっている。

 ダヴィドの指導で、ぼくの技術は格段に向上していた。お互いのタッチはぜんぜんちがっていたけれど。

 ぼくの線は力強く、するどかった。ダヴィドのはやわらかくて丸く、いつだったか画集で見たモネの『睡蓮』のような雰囲気があった。

 同じものを描いているのに、ちがう雰囲気になるのは、絵の中にその人の一部があらわれるからだ、と彼は言った。

「とっても健康的だね。なんだかぼくじゃないみたいだ」

「そうかな? ぼくは見たままを描いたんだけど。それに、たぶんきみはこうだったんだろ?」

 髪の黒は、黒いパステルをそのまま使うのではなく、光のあたる茶色い部分やにぶい灰色に反射している部分も、その色のパステルを混ぜて使った。

 でも、彼の黒い瞳の中にある神秘的な色までパステルで表現することはすごくむずかしかった。

 ぼくも描いてよ、とぼくはねだった。彼がぼくのことをじっと見ているあいだじゅう、ぼくはくすぐったかった。ダヴィドは穴があくほど、絵にする対象を見つめる。上から下まで、すみずみを。それこそしわの一本、微妙な曲線まで見逃さないとでもいうように。

 魂の一部を削って塗り込めるように、彼は絵を描く。微笑みながら描いているときは、晴れやかな絵になる。

 パーティーのブーケをもらって帰ってきたときは、その豪華さに見惚みとれていた。そのときの絵は、画面いっぱいに、手をのばしたら摘み取れそうな花が描かれた。複雑な花びらの重なりも、黄色い粉をふいた雄蕊おしべ雌蕊めしべ、冷たいほど白い大きな百合も。

 彼に見つめられた対象ものは、彼の内部なかのフィルターを通って、紙の上にあらわれる。そこには、彼の目から見たぼくがいる。

 彼が描きあげたのは、金髪に水色の瞳のぼくだった。朝晩鏡で見る自分の顔。子どもっぽい、丸っこい頬の。金髪の陰りももののみごとに表現されていた。

「すごいや、そっくりだね。やっぱりきみはすごいよ。これだけ上手なら、偉い人やお金持ちのお抱え絵描きになれるんじゃない? お城や美術館にあるような、大きな肖像画なんかを描いてさ!」

「……そうだね、そうなれたらね」

「ぼくは、ぼくはなれるかな? そりゃ、まだきみほどうまくはないけど、きみに教えてもらったおかげでずいぶん上達したし、このままいっしょうけんめい練習すれば、いつかはさ」

「ああ、いつかね」

 ダヴィドはスケッチ・ブックを閉じた。

 彼が寝に戻ったあと、ぼくはその中から、自分が描いた彼の絵と、ダヴィドが描いたぼくの絵を取り出してイーゼルに並べた。それはぼくとダヴィド、ぼくの一部と、彼の一部だった。その両方がぼくのもとにあった。

 そうやってしばらくたったあるとき、

「きみは、灰色と黒をほとんど使わないんだね」

 ママのマイセン人形を描いていたとき、ダヴィドが言った。

「ここは天気が悪いだろ、外なんか描いてもおもしろくないし」

 ぼくは人形の輪郭を水色でとりながら答えた。もののまわりには色が見える、というダヴィドの教えに従って、ぼくはスケッチを黒でとるのをやめていた。

 最近ではパパもぼくの上達に気づいて、前よりもうんと褒めてくれるようになっていた。それがダヴィドのおかげだとは、ぼくは言わなかったけれども。

 ぼくらはもっぱら、家の中にあるものを題材にしていた。収容所の風景なんか描こうとも思わなかった。そんなところに、絵になるものなんてなにもないのだから。

 朝、青ねずみ色の縞の服を着た囚人たちが出ていって、夕方、泥だらけになって帰ってくる。みんな同じで、背中を丸めていて、だれがだれなのか区別がつかなかった。

 冬になれば空はどんよりと曇っていて、おまけに、いやな臭いのする煙も漂っていた。ママもその時期にはすっかりふさぎこんでいて、そんなママのためにも、明るい色を使った絵を描いてあげる必要もあった。そんなだから、ぼくは灰色には見飽きていたのだ。

「よかったらあげるよ」

 ダヴィドは黒と灰色の二本のパステルをそっと布にくるむと、ポケットにしまった。



 一年後、父はまた異動になり、ぼくらはミュンヘンに帰ることになった。収容所には新しい所長がやってくる。

 母は、マイセン磁器のセットを、ポーランド人ポーリーンのメイドに手伝わせながらひとつひとつ新聞紙にくるんでいた。

「みんな持っていくのよ、こんどのおうちも広いんですから」

 ヴィラを去る日、ぼくはパステルの箱をダヴィドの胸に押しつけた。

「これ、きみに返しておかなきゃいけないと思って。ずっと気になっていたんだけど。ごめんよ」

 大事に大事に、少しずつ削って使ったせいで、小さくなってはいたけれど、パステルは三十四色ぜんぶが残っていた。

 ぼくは、あの絵だけは返さなかった。彼が返してほしいと思っているのを知っていて、ずっと隠しておいて、だれにも見せなかった。

 ダヴィドの思い出の中の母親の絵。

 彼がいちばん大切にしていたものを、ぼくが持っている。

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