第5話

暗い部屋に

大人の女性の泣く声が鳴り響いている。

その声の主は

今、僕の胸の中で涙を流している。

子供の様に

わんわんと

泣いている。




もう夜も遅く、寝ようかと思った時に、

電話が鳴った。

彼女からだった。


「もしもし?どうした?こんな時間に・・・」


胸騒ぎはあった。

この時間に電話をかけてくるなんて、

今まで一度もなかったから。

何かあったから

電話をしてきているのは

すぐにわかった。


「・・・ごめん、ごめんね。卑怯だよね。こんな時間に。ごめん」


泣いている彼女の声に

胸が苦しくなる。

たぶん、

このまま電話越しに何かを聞いても、

彼女は落ち着かないだろうと思い、

すぐに車のカギを手に取って家を出た。


「今から行くから、ちょっと待ってて。家、だよね?」


「うん・・・家だよ。ごめん。ありがとう。」


そういって無言になった電話をそのまま繋いだままに、

急いで彼女の家に向かった。


運転をしながら

何があったのだろうと考えたけれど、

いまいちよく分からなかった。

でもきっと。




家のチャイムを鳴らすと、

ガチャリとドアが開いた。

中は電気もついていない。

ドアの隙間から

暗い彼女の姿が覗く。


「ありがとうね、本当に・・・ごめんね」


彼女に招かれて部屋に上がった。


僕が電話越しに来ると伝えたことで、

幾分か彼女は冷静になれたと説明された。

その時もありがとうと、ごめんねと、何度も口にしていた。

彼女が準備してくれたお茶を少し飲みながら、

彼女の横に座って、肩を並べた。


「どうしたのさ?」


彼女は、

きっとまだ、

言う心の準備ができていないのであろうと

僕はゆっくりと待つことにした。




「前に話した・・・元彼から、電話があってね」


こういうのにも慣れた。

心が誰かに土足で踏みつぶされていくような。

吐きそうになるほどに

頭がぐるぐるとまわるけれど。

それでも、

ここで立ち止まるわけにはいかなかった。


「うん。それで、なんだって?」




「寄り、戻そうって。今更、何なんだよって。でもそれに、少しでも・・・」


彼女がそこで止めてくれて、

心底助かったと思った。

もうこれ以上に、

僕の心をえぐらないでおくれ。

愛する人に殺される時って、

こういう気分なのかなと、

冗談交じりに自分を見てた。

でも、

止まれない。

止まっても、もう僕は戻れないところまで来てしまった気がする。




「うん」

短い言葉しか、もう出せない。




「私ね、彼とまた寄りを戻したとしても、幸せになんてなれない・・・頭では分かっているつもりなのに。」


「もちろん、彼のことを忘れられたわけじゃない。今でも・・・」


「でもきっと彼は、変わらない。」


「さっきの電話だって、あんな唐突で・・・私にだって、もう別の生活があるのに・・・」


「彼のいない人生を歩き出してたのに・・・」


「寄りを戻したいわけじゃない・・・ここが、私の居場所だって、思えるようになってきた・・・もう」


「もう、私に、彼は必要ないの・・・」


彼女自身が

自分に言い聞かせるような、

そんな声に聞こえた。

そして

彼女がこうして

泣いている。


きっとまだ、

彼女は運命という言葉の鎖に

つながれたままなんだろうな、と

そう感じざるを得なかった。




なんて声をかけるべきなんだろうって

頭を悩ませていた。

いや、悩む振りをしていた。


でも違う。

本当は分かっている。

彼女にとって

誰が運命の人かなんて。

もう十分に。

痛いほどに。

心に刻まれている。


それを僕は

見えない振りを

ずっとずっと

し続けていた。




自分の思いと

自分の思いが

正反対に向かうように

自分の心が

真っ二つに

引き裂かれていく

そんな気分。




彼女の望むことが

いったい何なのか。

もう

僕には

この道を歩いていくしかない

深く深く

この心をえぐるのだとしても

それでいい

君を

救うために。

これが

僕ができる

唯一の

君への

贈り物だ。




「本当は・・・」




「彼に変わってほしいのだと・・・そう思っているんだよ、君は」


自分で言ってて、

吐きそうなほどに

気持ちが悪い。

それでも




言葉に詰まっている彼女が

引き裂かれた僕に

ひどく

追い打ちをかける。


それでも

僕の足は

歩くことを辞めない。

もう

こんなところで立ち止まってなんか

いたくない。

こんなところに

君に

立っててほしくないんだ。

君のいつわりの世界は

もう

ここで終わりにしよう。




「こんなところで、泣いてても仕方ないんだ。」


「心を決めるんだ。」


「運命の人じゃない、なんて聞こえのイイ言葉で表現してみたって・・・」


「それは君を縛るただの鎖でしかないんだ」


「君が、君であるために。君がどうしたいのかを、君が決めるんだ。」


「自分の心に素直になればいい。」


「それで前に進むんだよ。」


「傷なんてもうとっくに、たくさん負ってきた。」


「鎖を手繰り寄せて、君の思う、君の運命を・・・ただただ手繰り寄せればいい。」




声にならない声で

立ち尽くす彼女。

その頬に流れる涙だけに、

時間が流れているようだった。




「どう、して・・・っ」


声にならないその言葉の先は、

だいたい想像がつく。

ほら、

こんなにずっと同じ時間を過ごしてきたんだ。

お互いにどう思っているかなんて、

それくらいはわかる、

そんなに、

子供じゃない。


諦めろ

さよならをしろ

って

語りかけてくる

もう一人の僕が持つ

そのカギは

運命という鎖を外してくれる

カギなんかじゃない。

それは

いつわりの世界への

偽物のカギだ。

君は

もう、そんな世界に

居てはだめだ。

ほら。

さあ、

まっすぐに

前を向いて

歩き出そう




「好きじゃない振りをする必要なんて、もう、ないんだ」




泣き崩れる彼女。


僕は彼女に寄り添って

そして

柔らかく、

彼女を包んだ。


子供の様に、

こんなに泣く女性を初めて見た。

こんなに弱々しく泣く女性を初めて見た。

僕の心は、

不思議とスッキリしていた。


自分でもわかっていた。

すべてすべて、

僕自身への言葉でもあることを。

そして、

きっと彼女もわかっている。

それが、

こんなにも泣く子供のような彼女の

正体なのだ。




背中を丸めて泣く彼女の髪をなでる。

その手が、

こんなにも痛い。

いや、

甘いのか。

もう、

自分の心がいまいちつかめない。

迷って、悩んで、傷ついて、諦めた、

そんなもったいない僕の過去のように

そんな色気のない僕の過去の世界のように

なってほしくなかった。

彼女が

彼女らしく

生きていてくれることが

何よりも素敵なことだと

そう思った。


もっと違う価値観で

もっと違う性格で

全然別の世界線で出会えていたとしたら


それはもう、

僕でもなんでもない。

そして、

彼女でもなんでもない。


なら進むしかないんだ。

この世界で。


この僕で。


まっすぐに、

彼女に立ち向かうしかないんだ。

僕は、彼女にとっての観客であったとしても

彼女がまっすぐに生きていけるのなら。

それは

それならば

こんな僕でも

幸せだったと言えるかもしれない。




彼女を抱えたまま

夜が明けた。

今日は、

約束をしていた、花火を見に行く日だ。


昼頃に起きた。

意図せずして、

彼女と一夜を共にした。

昨日の夜のことには触れず、

お互いに

少しいつもより大人しい

そんな笑顔を

楽しんでいた。




彼女は可憐な浴衣に着替えて、

本当に綺麗だった。


二人で並んで

出かける。

彼女の下駄が

カランコロン

と気持ちの良い音を奏でている。


彼女に

いつもの元気が戻ってくる。

楽しそうに、

屋台のリンゴ飴を買って、

食べる姿を一緒に写真にとって。


そして花火の時間が来て。

土手に腰を掛けた。

二人、肩を並べて。

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