第4話

 ヒーリング動画が人気とか、前にどこかで見たことがある。焚き火の音とか、川のせせらぎとか。


 私はそもそも癒される心なんてないのか、心があっても空っぽなのか、そういった動画で癒されたり心安らかになったりしたことはない。


 なんとなく流行っていたから見たってだけで、癒しを欲していたわけでもないし。


「すみません、実來さん。両腕を広げてみてくれませんか?」


 休日。相も変わらず悪魔と待ち合わせをして遊びに来ているのだが、彼女は唐突にそう言った。


 何をするのかと警戒したが、桃があまりにも真剣な顔で私を見てくるから、大人しく腕を広げてみせる。


 その瞬間、ふわりと。

 舞うように、桃が私の胸に飛び込んできた。


 体は微妙にこわばっていて、落ち着かなさそうにもぞもぞしている。人に抱きしめられたことがないのか、それとも、単に相手が私だからなのか。


 どっちにしても今の彼女が緊張状態にあるのは確かで。

 どうせ癒しが云々というつもりだろうけれど、こんなんじゃ癒されないぞ、と言いたくなる。


 面倒だから、言わないが。

 仕方なく。本当に仕方なく、私は桃を軽く自分の方に引き寄せた。彼女の体はやはりまだこわばっていて、緊張しています、と声高に叫んでいるようだった。


「桃」


 呼んでも返事はない。

 え。フリーズしてる?

 桃は完全に私の胸に顔を埋めていて、動く気配がない。


 いつまでもこうしていても埒が明かないと思い、私は彼女を抱き上げた。小さな子供にしてやるように抱っこすると、流石に正気に戻ったのか、桃は私をじっと見つめてきた。


「実來さん?」

「あーうん。実來さんだけど。急にどうしたわけ」

「えっと……ハグには癒しの効果があるって、見たんです」

「ネットで?」

「雑誌で、です」

「情報源偏りすぎでしょ。変な思想とかに染まんないでよ?」


 小さな子供と同じように抱っこするには、桃は少し重い。

 中学生なんて、抱っこするものじゃない。私は桃を地面に下ろした。


「……癒され、ましたか?」


 桃はぼんやりした様子で聞いてくる。癒されたか癒されていないかで言うと、まあ、癒されてはいない。

 単純に、びっくりした。


「それより、あんた……桃がフリーズしてたから、びっくりした」

「す、すみません。こういうの、初めてだったもので」


 知りたくない情報がまた増えていく。悪魔の生態は知らないが、やはり、親から産まれるものではないのだろうか。


 だとしたら今まで、桃はどうやって生きてきたのか。

 考えなくていい。知らなくていい。背中があまりにもピリピリと痛む。人のことを知ろうとするなという、脳からの警告だ。


 境遇に同情とか、自分と重ねるとか。そういうのをしてしまったら、私の土台が崩れてしまう。

 だから私は、軽く舌を噛んで考えを全部心の奥に沈めた。


「……あのさぁ。いちいち謝んの、やめなよ」

「ご、ごめんなさ——」

「だから、それね。桃と私は契約してる関係……つまり、対等ってことでしょ。そういう関係なのに謝られんの、うざいから。今すぐやめて」


 気を遣っていると思われたくないから、できるだけぶっきらぼうに言って、眉を顰めてみせる。


 完全に、余計なことを言った。こういう無駄を排していかないと、止まっていた心の鼓動が再開してしまって、痛みがぶり返すことになる。


 わかっているのに変なことを言ったり、したりしてしまうのは、桃が子供だからなのかもしれない。


 ロリコンとは、違うけれど。

 私は多分子供に弱い。意識しないでいると余計なことを言ってしまうから、口を噤んで何もしないようにと、意識して自分に言い聞かせないと駄目だ。


「は、はい」

「で? 今日はこんなところに来て、どうするつもり?」


 桃に呼び出されて来たのは、地元の駅から電車で何駅かの場所にある動物園だった。小さい頃に何度か来たことはあるが、高校生になってから来るのは初めてだ。


「アニマルセラピーってご存知ですか?」

「あー。動物と触れ合うと癒される、みたいなやつだっけ」

「それです!」

「つまり。ここで私に癒されろと」

「その通りです! 私も来るのは初めてですけど、頑張って予習してきたので、バッチリだと思います!」


 桃は胸を張って言う。

 いや、動物園について予習してきたとか、そんな自信満々に言うことじゃないと思うけど。


 私は思わず苦笑した。

 耳かき、ハグ、動物園。全部、桃にとっては初めてで、私にとってはそうでない。多分川遊びだって、桃はしたことがないんだろう。一体どんな人生を送ってきたのか。


 私を癒すと言いつつ、自分が楽しみたいがためにこういうところに来ているんじゃないかと、少し思う。


 それならそれで、別にいいんだけど。

 子供は笑っていればいい。それが一番の仕事で、他に余計なことなんて考えない方がいいのだから。


「あっそ。じゃ、今日はあんたにエスコート、任せていいわけね?」

「お任せください!」


 桃はそう言って、手を差し出してくる。


「何、その手」

「人の体温には、癒しの効果が——」

「ああ、うん。わかったわかった。じゃあ、まあ。繋ぐか」


 人に触っているだけで癒されるのなら、世の中の人間の大半は簡単に癒されるんじゃないかと思う。


 でも確かに、癒しの効果はあるかもしれない。

 現に私の手を握った桃は、いつもより少し安らかな顔をしている。

 私の方がどうかは、わからないけれど。


 友達とは手を繋ぐほど仲良くはないし、妹と手を繋いでいた時は、引っ張られて振り回されていたから癒やしどころではなかった。


 こうして穏やかに人と手を繋いでいると、その温かさだとか微かな骨の感触だとか、そういうものがよくわかる。


 悪魔の体温は高い。火傷しているんじゃないかと錯覚するほどに熱く、赤ちゃんみたいに力が強く、その握り方には遠慮がない。


 締め付けるような痛みを感じる。

 まるで、私がここからいなくなりそうになっているのを、必死に引き止めているかのように。


 本当に。

 何も口にしていないくせに、強く自分のことを教えてくるのはやめてほしい。そういうことをされると、凪いでいるはずの私の心に波紋が生まれて、さざめいていく。


「桃。エスコートってのは、余裕を持ってやるもんだから。わかってる?」

「余裕、ですね。わかってます。ありよりのありです」

「それ、意味違うから。ほんとに大丈夫なわけ?」

「平気です。大丈夫です。お任せください!」


 全くもってお任せできない。

 絶対大丈夫ではないが、あまり大丈夫かと聞きすぎると拗ねるのが子供だ。私はそれ以上何も言わず、知識だけはあるご様子の悪魔様に全てを任せることにした。




「わあっ……見てください! 実來さん! 赤ちゃんです! 白くて! ふわふわで!」

「あー、そうね。可愛いね」


 ちょうどホワイトタイガーの赤ちゃんの一般公開が始まったばかりらしく、檻の周りは人でごった返していた。


 意外にもホワイトタイガーは赤ちゃんでも凛々しい顔をしている。あんなに小さいのに、母親そっくりだ。


 蛙の子は蛙。ホワイトタイガーの子は、ホワイトタイガー。

 そんなのは当たり前で、蛙からホワイトタイガーが生まれてくることはない。私もできるなら親そっくりに生まれてきたかったものだが、そうもいかないのが人間の面倒なところだ。


 私もいっそ、悪魔だったらよかったんだろうか。


「あっ見てください! あっちにはライオンがいます!」


 桃は私の手を引いてあちこちを歩き回る。

 こんなに純粋に楽しんでいる中学生が、他にいるだろうか。友達同士で来ているらしい子供たちを見ても、桃ほどはしゃいでいる子はいなかった。


 この喜びようは、経験のなさの表れだ。桃は何もかもが新鮮といった様子で笑っている。その顔を見ていると、ひび割れた心に何かが染み込んでくるような感じがした。


 全部錯覚だってわかっているけれど。

 でも、桃の無邪気な笑顔を見ていると、癒されるという気持ちが少しだけわかるような気がした。


 これも一種のアニマルセラピーなのかもしれない。

 悪魔の手を握って、その顔を眺めているだけで、少し体が軽くなる。


「実來さんも、楽しいですか?」


 桃は忙しく足を動かしながら、私を見つめてくる。

 青い瞳は相変わらず、透き通っていた。


 悪魔の方が人間よりもよっぽど無垢で、綺麗なのかもしれない。この前ネットで調べたら、悪魔は契約を守るものと書いてあったが、その通りなのだとしたら。


 単純でいいと思う。契約の結果どのような破滅がもたらされるとしても。


「ま、それなりにね。桃がもっと上手くエスコートしてくれたら、もっと楽しいかも」

「が、頑張ります!」


 桃は少しぎこちない様子で歩き出す。

 しばらく手を繋いでいたからだろうか。


 手を繋がれたばかりの時にあった痛いほどの力だとか、締め付けるような握り方がなくなって、自然になっている。


 昔から手を繋いで一緒に歩いてきたみたいに、桃は強くも弱くもない力で私の手を握って歩く。


 甘えてんのかな、私に。

 これじゃどっちが癒される側なのか、本当によくわからなくなってくる。でも、彼女の心が多少なりとも癒されれば、私の心も少しは癒されるような。

 そんな、気がした。

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