第13話 狼蜘蛛
木々の合間を縫い、一匹の獣が山を這いずっていた。その姿は偉業といえる。
熊の二回りはある四つん這いの人型。体表は黒い毛皮に覆われ、四肢は虫の節のように細い。肘と膝は上に向き、進む様はまるで蜘蛛。体を引きずるのは丸々と太った腹のためだろうか。骨が見えるほどやせ細っているのに、その腹部だけが膨らんでいた。頭部は狼によく似ている。鋭い牙の先から垂れる涎が地面に染みを作り、吐き出す息は熱で白く煙る。
火災の魔物、
ひゅんと風切り音がなると、木に刺さった矢を残して狼蜘蛛が消える。地面には地面にめり込んだ足跡。
狼蜘蛛は上空へと跳んでいた。巨大な体躯で機敏な反応速度、先ほどの愚鈍な動作からは考えられない機動力。その動きについてこれるものなど……。
――とす、と一本の矢が狼蜘蛛の腹に刺さった。
「ア?」
狼蜘蛛はぎょろりと目玉を回し、弓を構えた男の姿を捉えた。
迷彩を施したローブを纏い、腰には剣を下げている。深紅の瞳は溢れんばかりの殺意に満ち、白髪が風に揺れていた。出会えば死の怪物に向かって、男は歯を剥き出しにして嗤う。
「よお。会いたかったぜ狼蜘蛛」
王国の猟犬、エボ・グリムハートがそこにいた。
* * * * * *
エボは一筋の汗を垂らし、再び矢を放つ。矢じりにはゴブリンが使っていた毒が塗りたくってある。二発目も腹部へと刺さるが、狼蜘蛛は一瞥するだけで特に気にする様子もない。落下してくる前にエボは弓を投げ捨て、剣を抜いた。
正確な位置を捉えていたおかげで準備ができたが、こんなものは気休めにしかならない。霊体を切り裂く剣だけが有効打となる。エボ自身がそれを一番理解していた。
着地を狙い、エボは狼蜘蛛へと疾走する。
「アッア」
「は?」
狼蜘蛛が鳴いた瞬間、落下位置で爆発が起きた。
爆風に飛ばされエボは地面に転がる。即座に立ち上がり剣を構えるが、狼蜘蛛の姿は煙に包まれていた。
「くそ……魔法か」
せっかく先手を取ったのに後手に回された。
魔法を使うことはわかっていたはずなのに、とエボは歯噛みする。
位置を探ろうと一歩踏み出したエボに、煙から鋭い爪が飛び出す。とっさに剣で受けるが凄まじい膂力だった。背後に転がって力を逃がし、起き上がったエボは全力で逃亡した。
エボの卓越した動体視力は先の一瞬の出来事を正確に捉えている。あの爆発は正確には爆発ではない。何もない場所から炎が沸きだした。超高熱の炎で空気が膨張し吹き飛ばされたのだ。超高温でできることは当然、高温でもできる。
エボの走った軌跡で爆発が起こった。やはりか、とエボは舌打ちする。
爆発、爆発、爆発、爆発。爆発は徐々に狙いに近づいていく。エボは限界だった速度を更に上げた。すると今度は向かおうとした先を覆うように火花が散った。
「な!?」
連続して爆発が起こり、それは一つの大爆発となって一面を爆炎が覆った。
周辺一帯が炎と煙に包まれる。焦土と化した地面から這い上がる影。エボは生きていた。あらかじめ掘っていた穴に飛び込んでいたのだ。
なんとか直撃は避けたが、余波だけで立ち上がれないほどの威力。大の字で地面に転がったエボは、破片で切った頬を裾で拭った。
「……バケモノが」
想定以上の化け物だった。エボは天を仰ぐ。
魔物という名前から獣のような戦い方をすると思っていた。だがこの一連の動きは明らかに知性を持った攻撃。牽制し、試し、動きを読む。訓練を積んだ兵士のような立ち回りだ。舐めているつもりはなかったが、考えが甘かったとしかいいようがない。
近づくことさえできないとは、と苦笑する。これで最後とは。
エボは諦めたように目を瞑った。
……爆発が止んでいくらか経ったが、次の攻撃がこない。ほんの少し回復したので起き上がってみる。手はまだ剣を握っていた。煙はまだ立ち込めている……。
「仕留めたと思っている……それとも俺の位置がわかっていないか?」
はっと気づく。エボほど高い身体能力を持つものは少ない。狼蜘蛛がこれほど連発して魔法を使うのは稀ではないのか。
最初に手の内を見せずに燃やすこともできただろう。それをしなかったのはエボを侮っていたからに違いない。だが、エボもまた想定外の存在だったからだとしたら。
そして今、狼蜘蛛はエボを見失っている。
「勝機だ」
エボは軋む体を無理やり動かす。これが狼蜘蛛に接近する最後の機会。音を立てないように細心の注意で立ち上がり、剣を構えた。
匂いを頼りに位置を探るが、木々が燃えているせいで嗅ぎ分けることができない。心臓は張り裂けそうなほど鼓動していた。視界は共に煙で塞がれている。残るのは聴覚。
エボは目を瞑った。瞼の裏に浮かぶのは父の残骸。湧き上がる怒りは恐怖を上書きした。エボの心は凪いでいた。
「ウウゥ……」
その声はエボの後ろから。エボは即座に振り返り、限界を超えて疾走した。音を立てた今、もう気づかれている。また上空へ飛び跳ねたら終わりだ。 煙を切り裂いて跳び込んだ先、狼蜘蛛はいた。
もう上半身を起こしていない。地面を這うように地面を嗅いでいる。やはり狼蜘蛛もエボを探っていた。音に気付き顔を上げた瞬間だった。
魔法で攻撃してきたときも狼蜘蛛はエボを追えていない。
「らぁああああああああああああああ!!!」
エボは剣を狼蜘蛛に突き刺した。人体構造と同じならばと、背中から心臓を一突き。刺さった刃を捻ると鮮血が噴き出した。
全身に熱い血を浴び、エボは全身が紅く染まる。動かなくなった狼蜘蛛の背でふるふると震えていた。ふふ、と声が漏れる。堪えきれなくなったのか、大声を上げて笑い出した。
「あはははははははははは!」
狂気に、歓喜に、解放されたように。エボは全てを吐き出して笑っていた。
「やった、やったよ父さん。俺、父さんの仇を……」
ボロボロと涙が零れた。嗚咽を漏らしながら、同じことを繰り返して口にする。体中の力が抜けていた。
だからエボは気づかない。その手の柄が動いたことに。
「ア、ハ」
エボの眼前で爆発が起きた。エボは火に包まれ、地面へと投げ出される。何が起きたのか、分からない。焼かれる痛みに悶え、エボは必死に土の上を転がった。
「うわぁ、ああ、なんで……心臓を刺したのに、なんで!?」
ふとミシャの言った言葉が脳裏をよぎった。
……瓶を魔物だとするよ。中の液体が魔物の肉体……いくら中の水を減らしたところで意味がないの。
「中の液体が肉体。肉体を壊したところで意味がない。心臓は急所じゃ……あ、ああああああああ!!!」
雄たけびを上げ、起き上がろうとしたエボの前で再び爆発が起きる。再び肉体を焼かれ、エボは絶叫を上げた。
「あああ! あああああ、熱い。熱い熱い! あつ、ああああああ!」
「アハ。ア、ア、ア!」
地面に体をなすりつけて必死に炎を消すエボを狼蜘蛛は嘲笑う。
エボは確信した。狼蜘蛛には、魔物には知性がある。いつでも殺せるエボを痛めつけて遊び、苦しむ様を楽しんでいる。本能で動くケモノじゃない、明確な意思を持ったケダモノだ。
弱点は、霊体はどこにある。そんな、弱点が一体どこに……。
「あ……?」
エボの瞳に丸々と膨らんだ腹が映る。だらしなく膨らんだ中年のような腹、矢を刺したときには反応していた。
その腹はそう、何かを宿しているようで……。
「こ、こんな分かりやすいものを見落とし……あ、あああああああああ!!」
「アハ、アハハハハアハアハ!」
狼蜘蛛の下卑た嗤い声を最後に、エボの視界は黒く染まっていく。薄れゆく意識の中、どこかで嗅いだ花の匂いがした。
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