キャベツワーム、3



◆3



 ワタシの幻覚は死ななかった。


『まさかオレが死んだと思ってたかァ、アンナぁぁ?』


 それどころか、だ。


『ここは居心地がイイぜェ。ん〜〜サイコーだなァァ」


 昨日の時点で、コイツが幻覚の類だと分かって良かったと心底思った。でなきゃ職場でみっともなく発狂していたところだ。


 ワタシは包丁を手に、キャベツだらけの調理台の上に置いた左手をジッと見下ろしていた。


『これならよォ、自分でヨジヨジと這い回らなくてすむしなァ』


 醜いキャベツワームは、ワタシの左手の中指になっていた。


 なに、コレ。


 朝は違った。間違いなくワタシの手だった。キッチンの容赦ない熱で無駄になると知りつつも、ワタシの顔にメイクを施したのはこの手だ。この右手と、左手だ。


『心配すんなよなァ〜。勝手な動きをするのは控えてやるからよォ、なるべくなァ』


 ワームには潰れた老人のような顔がついていた。首輪のような黄色い輪っか以外は、火傷の水膨れみたいに白い。


 言ってるそばから、イニシアチブを取られたワタシの中指は骨の無くなったようにうごめき、キャベツの葉を食んだ。


 幻覚だ。ぜんぶ嘘だ。


『残念だけどアンナ、オレはアンナにしか見えてねェがよ、まぼろしなんかじャァないんだぜェ〜』


 シャリっシャリっ…………、ワームの咀嚼音がワタシの耳を汚す。


 これは外科? 精神科に行くべきなの? それともお寺にお祓い? でなきゃ地球外生命体と秘密裏にコンタクトをとっている組織のお迎えを待つべき?


『イィィヒッヒッヒッ!』


 ワームが笑う。ワタシは隣の勝瀬さんに声をかける。


「これ、見える? なんか虫に刺されたのか赤くなってない?」


 勝瀬さんはワタシの手をまじまじと見た。いつもの、ですます口調じゃなかったことに気付いたのか、「え? どれどれ?」と親身になってくれるが、


「赤く? なってないけどね」


 勝瀬さんにはこの虫が見えていない。


「なんか痒いんですよね」


「洗い物ばっかりさせちゃったから荒れちゃったのかもね。そうだ。痒みは治らないけど、コレ、あげるよ」


 勝瀬さんはエプロンのポケットから飴玉を2、3個とりだし、ワタシに寄越した。


「あ、ありがとうございます……」


 唐突の餌付けに戸惑い、ワタシは飴をエプロンのポケットに入れた。


 ワームが身を捻り、ワタシを振り返る。


『だから言ったろォ? ちなみにアンナの妄想じャァないその証拠に、アンナのおつむにないことを言ってやるよ。というかコイツぅ、アンナに気があるぜェ?』


 黙ってな、クソ虫。


 ワタシは作業に戻る。


『そうだなァ、きゅうりは最も栄養が低い野菜としてギネス認定されてるんだぜェ?』


 ワームがドヤ顔で言った。


 栄養が低いじゃない。最も熱量が低いんだよ。誤解されがちなネタだけど。


 ワタシはいろんな野菜を切りながら、ワームの相手をした。


 心の中で、自分にしか見えない相手と話している。なんとも悲しい。ワタシがこんな風になるだなんて、人生で一度も予想したことがなかった。


『じ、じャァよ? かき氷のシロップは————』


 どれも同じ味でしょ? 違うのは色と香り。味を感じるのは錯覚。


 ワームはうねうねと身を震わせ、悔しがっているようだった。


 いい気味だ。イマジネーションフレンドを言い負かして悦に入っている状況は悲しいけれど。


 妄想虫はムシして仕事しなきゃ。


『虫はムシってかァ?』


 間違えて中指を切りそうになる。


『オイオイそれはやめときなァァ? 中指がないんじャァこの先困るだろうが? 知ってるかァ? エンコだ、エンコ』


 コイツ……。


『分かったらこの玉ねぎ臭い手から包丁をどかしなァ』


 いつか切り離して刻んでやる。


『そんなコエぇ言葉遣いだから男に逃げられんだよォ。指が玉ねぎ臭くねぇ女のとこにも行きたくなるわなァァ?』


 ハラワタが煮えくりかえる思いだった。


 SNSでしか知らないアイツの新たな彼女の顔を思い出して、更にイライラした。


『アイツは新しい女に言ってたぜェ? 「オマエの方が何倍もカワイイぜ、ベイベー」ってなァァ。イィィヒッヒッヒ————』


 ワタシは洗い場に溜めてある水に左手を入れた。声が途切れ、小さなあぶくがぷくぷくとのぼってくる。


 死ね、死ね死ね死ね、死ねよ虫ケラが。


 今もどこかであの2人がお金の心配もなく暮らし、物の値段もさして気にすることなく食事していたりすると思うと憤りをおさえられなかった。業腹だ。


 ワタシだけが汗だくになりながら、臭くなりながら、みじめに過ごしているだなんて。


『アンナの味方はオレだけなんだよォ?』


 うなじのあたりで何かが動いた。

 もしかしてと左手を見たけど、ワームはまだそこにいた。


 不快害虫め。


 心の中で毒づくと、『もっと毒を吐きな』とワームは笑った。


 ワタシはコイツに対して今のところ対抗手段を得ていない。


『さぁアンナ、今日はどうするゥ〜? どのアホの飯にナニを混ぜてやろうかァァ? おやァ? このナス傷んでらァ』


 ワームの言う通り、今しがた切ったナスは中身が黒く傷んでいた。


『入れちまえ』


 ワームはカラダを縮めると、勢いをつけてピンっと伸び上がった。はじかれたナスが切った野菜を入れる容器にゴールイン。


 なにやってんだよ、バカ虫。


 ワタシは傷んだナスを取り除こうとして、やめた。


 人間、ハズレを引くことはある。


 ワームが一際高く笑った。


 脳味噌をくすぐるみたいに鼓膜が震えた。


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