オニオンベイベー、2



◆2



 仕事終わりの12時前の下北沢は、浮かれきった連中で溢れていた。


 大学生だろう集団が安居酒屋から出てくる。ふらついた一人と肩がぶつかる。汗と酒と煙草の匂い。へらへら騒いでいるこんなヤツらでも卒業したら飲食店なんかじゃなくてもっと良い職に就くのだろう。


 ワタシはなんであんな場所で働いてるんだっけ……。


 帰り道、よく自問する。

 もっと色々考えてバイトを選ぶんだった。高卒フリーターの生活なんて、こんなもんなのかな。


 救いなのは、まかないが美味しいことぐらい。行列ができるだけのことはある。野菜が豊富なのがウリだから、ベジタリアンのワタシでも困らない種類の野菜が常にあるのも良いか。


 でもいつかは、こんな薄給じゃなくて、汗かかなくて、部屋に帰り着くのが12時になったりしない仕事に就きたい。


 アパート、1Kの城に到着した。

 明かりをつけると、服の臭いを嗅ぐ。癖のもう一つだ。


 スパイスと油臭くなる職場じゃなくてさ、もっと良いとこがどっかにあるはずだ。


 なによりもまず先にシャワーを優先。浴室に直行。といっても、狭い部屋なので玄関を入ってすぐにトイレのドアがあって、その隣が浴室となっている。反対側がキッチン。奥に一部屋。ワタシは短い廊下に臭くてたまらない衣服を脱ぎ捨てる。脱皮だ。そして大好きなシャワーを浴びる。


 べったりとした汗がワタシの体から剥がれ落ちていく。


 

『アンナぁぁ』



 シャワーのお湯が冷水に変わったようだった。

 ワタシの体はピクンと跳ねた。


 またあのしゃがれ声だ。


 え…………まさかそういう系?

 霊的なものをワタシは全く信じない。今のはきっと、自分でも気がつかないくらい自然に、なにげなく、そしてハイクオリティにあの声を思い出してしまっただけだ。そうに違いない。錯覚なんだ。


 シャワーから出ると下だけ一枚穿いて、冷蔵庫から缶チューハイをとってソファへ。


 ここでワタシはようやく落ち着ける。悪いものは流した。汗は流し、皮も脱いだ。


 ブルートゥースでスマホと繋げたコンポから、ピアノ曲のアルバムを静かに流す。スマホをいじる。そのうち眠くなって、半裸のままベッドへ。明かりはリモコンで消す。


 いつものパターン。髪も乾かしていない。朝ボサボサでもどうせ帽子をかぶるんだ。


 登録した転職サイトの確認をするつもりだったけど、ぐったりと疲れが体から染み出してくる。ほんっとうに、いざとなれば、バイト先で社員になれる。嫌だけど。


 寝巻きは着ない。余計な洗濯物が増えるし、実家を出てからは半裸族の仲間入りをしている。歯だけは磨いた。えらい。


 暗闇の中、最後のトラックが始まった。

 ワタシは何の気なしに指の匂いを嗅ぐ。

 ツンとした玉ねぎの匂いが鼻をついた。


 あれだけ洗い物をしても、シャワーを浴びても、この匂いだけはとれない。


 ふと、アイツが言ったセリフが頭に浮かぶ。


『アンナの指ってさ、玉ねぎ臭いよな』


 これもいつものパターン。元彼のそのセリフをワタシは、ずっと忘れられないでいる。


 働いてるんだから当たり前じゃん、とワタシは答えた。


 アイツは実家暮らしだった。渋谷の手前ぐらいに家がある。バイトなんて、する必要がないタイプの大学生。やめておけばよかったのに、別れたちょっと後にアイツのインヌタグラムを覗くと、もう別の女とくっついていた。


『他に好きなコができた』


 その、『他』が、ソイツだった。

 玉ねぎはおろか、包丁すら握ったこともないだろうツラをした女だ。19歳の未成年らしい。地下アイドルらしい。ヒョウモントカゲモドキとかいう爬虫類を飼ってるらしい。


 衝撃だった。

 ワタシと全然違うじゃないかよ。


 覗き見えるイビツでカラフルな私生活と、二人とも大学生だという肩書きが、ワタシという存在を遠くへ押しやった。わりと、悲しかった。一年弱だったけど、今はホントに憎たらしいけど、あの時はたしかにアイツが好きだった。


 アイツの匂いのする物は全て捨てた。貸してた黒のスウェットとかもそうだし、二人して好きだったバンドのCDもだし、ベッドのシーツも、ソファカバーもだ。おかげで別れた月は出費がかさんだ。憎い。


 もう一度、指の匂いを嗅ぐ。

 正真正銘、玉ねぎの匂いがする。


『かわいいぜ、ベイベー。キュートだ』


 アイツの睦言はいつだってちょっとおどけていた。デレデレしていたわけじゃない。ただ、アイツはダーリン、ワタシはベイベー。


 アイツめ、あの小娘め。

 なんとなく露わになった胸が嫌で、タオルケットを首までかけた。


 愚痴と文句の塊をワタシは表面からバリバリと皮を剥がしていく。破いても破いても、キレイなところは現れない。


 アルバムがまもなく終わる。


 その頃ようやく、玉ねぎ臭い指のワタシが眠りに落ちるのも、いつものパターン。


 

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