#08 歪んだ邸 ※

 射水いみず隆二りゅうじ、およびその楽曲、どちらも知らないという日本人は少数派であろう。


 だが、……射水隆二が、妻と息子に暴力をふるっていた、という事実を知る者は、もっと少ない。


 著名な音楽家である射水隆二は、人当たりよく、陽気な人柄であった。音楽に関しては無論、仕事でもあるから厳しいところもあったが、指導は厳しくはあっても的を射たものであり、面倒見がよいことでも知られていた。宴会では明るく酔っ払い、大きな声を張り上げて、笑ったり歌ったり、少々騒がしく調子のよい好々爺、といったおもむきであった。プライベートでは「ごく普通のおっさん」で、休日は家の中でごろごろと過ごし、風呂上がりには突き出た腹をむき出しにしたまま麦茶を飲み干し、ときにいきなり「降りてきた」と口走って、個人用の音楽スタジオにこもって作曲を始めたり(射水隆二はプライベートスペースにも小さなスタジオを作っていた)。


 そんな射水隆二は、プライベートで、自宅でひとりで晩酌をすると、人格が豹変した。


 しばらく黙って静かに酒を傾けていたかと思うと、突然激高して立ち上がり、怒鳴り声を上げて、妻の真理子まりこか息子の幸樹こうきを呼びつける、もしくはつかまえに来る。そんなときの父は――父では、なかった。


 口実は、言いがかり、と評していいレベルだった。ただいまを言う前に荷物を置くとはなにごとだ、食事時の姿勢が悪かった、先週廊下でおれの前を横切っただろう――口答えをするな。あとは、堰を切るように、暴力が始まる。顔面を殴られる。蹴り飛ばされる。髪をつかんで、壁や家具にたたきつけられる。首を絞められる。頭に皿をぶつけられる。体に触れるぎりぎりに、コップが投げつけられる。所持品をめちゃくちゃにされる。小学生の頃までは、風呂に顔を押し込まれたことも何度かある。ごめんなさい、すみません、もうしません……何度繰り返そうと、父の気分がおさまるまでは、嵐はやまない。幼い幸樹に為す術は、なかった。


 それでもおぼろげに、幼少の頃は、母がかばってくれていたように思う。思い出そうとしても、もううまくいかない。幸樹の記憶の中でその光景は、色あせて、ひどく傾いている。傾いたところに、殴りつけられた母が横たわるので、母の体はほとんど逆さまに見える。自分が直接殴られたのも無論痛かったが、母が殴られることには別の痛みが走ったことを、覚えている。血と涙と汗と鼻水でくしゃくしゃになった記憶は、色の濃いマーブル模様にさえぎられながらも、今なお幸樹の体をふるわせる。そうしてようやく、父の姿を借りた暴風が立ち去ったとき、幸樹と母は、あまりにも虚しい体を力なく引き起こすのだ。


 父は出張も多い。都内をはじめ、国内にいくつか拠点があり、海外出張も珍しくない。ざっくりと計算すると、ひと月のうちおよそ半分は、出張で不在か、もしくは自宅のスタジオとサロンで、音楽仲間と明るく陽気に飲んでいた。サロンで飲んでいた夜は、プライベートの寝室に戻って来ても、機嫌のいいまま寝入ってしまう。だから父がプライベートのスペースで夜を過ごしていたのは残り半分である。そんなときは必ず晩酌する、とも限らなかった。飲まずに寝てしまう夜もある。こうした生活で月に4、5回は家族に暴力をふるうというのは、けっこうな頻度ではないだろうか。むしろ出張やサロンがあるからこそ、この回数ですんでいた、のかもしれない。さもなければ――。


 幸樹は幼い頃から、父の音楽の手ほどきを受けてきた。楽しかった。父の指導は厳しかったが、論理的で筋はとおっており、父の期待に応えれば褒めてくれたし、自分自身が上達することも嬉しかった。中学生になったときには、クラブは音楽系でなく運動部に入りたいとおそるおそる相談したが、父は「運動不足の解消のためにもその方がいい」「音楽とは違うものに打ち込む経験も必要だ」「ケガだけはするな」と、すんなり賛成してくれた。父の母校である音大に合格したときは、父自身のどんな仕事が成功したときよりも喜んでくれた。昼間の、素面の父は、理知的で、厳格で、あたたかだった。


 暴力をふるわれた時間は、父と一緒に過ごした時間の、ごく一部にすぎない。

 それなのに、わずかな一部は、すべてをかき乱す。褒めてくれたこと、認めてくれたことが、全部噓だったんじゃないかと思えるほどに。


 いつの頃からか忘れたが、母は、幸樹をかばってくれなくなった。幸樹が父に殴られていても、姿を見せなくなった。幸樹はただ、自分のすべてを封じ込めて、父の暴力に心身をゆだねるしかなかった。「ケガだけはするな」と言った当人が、暴力をふるってくるのだ。


 あざ、傷跡、絆創膏、包帯、そうした姿で学校に行かざるを得ない日もあった。友だちや先生に驚かれた。「昨日転んだ」「階段から落ちた」「友だちとケンカになった」……いとも滑らかに、その嘘は幸樹の口からつむぎ出された。なぜだろうか。嘘をつけ、本当のことを言うなと、父にも母にも命じられたことはない。けれど、幸樹はどうしてか、父にされたことを、正直に打ち明けることができなかった。そんなときは、顔面筋肉が異様に固く、動かすのに苦労した。悲しいよりも、心の奥が干からびたような感覚があって、自分なのに自分じゃないような違和感にとらえられていた。意識が、自分自身から半分抜け出してしまっているかのような。

 暴力からのがれるため、自室から続く自分専用の防音室に閉じこもってみたこともあった。ピアノのあるところでは父も暴れないだろうと読んだのだ。だが、防音室に踏み込んだ父は幸樹の襟をつかみ、個室へ引きずり出した。そして……。


 父さんやめてよ、ごめんなさい、ごめんなさい……!


 ……血の味には、慣れることはあっても、平気になるわけではない。


 丘の上に孤立した、防音に気を配って設計された家で、何が起きているのか、近所の人々が知るはずがなかった。


 翌朝、アルコールの抜けた父が、何事もなかったかのように「おはよう」と言ってくるのが、どうしても理解できなかった。幼少時には、昨夜鬼のようだった父が翌朝はけろっとしていることに愕然とし、あれは悪い夢だったのかと、己の認識を疑ったものだった。だがそれを蒸し返して父に問いただすことは、とてもよくないことのように思えてならなかった。理解できなかったが、受け入れなければ、この家では生きていけないのだと、奇怪な形に順応していった。

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