21 今田 麻衣花


ガラスのドアが割れてる。

両開きのドアの 左側ガラスには、何本かの大きなヒビが入ってて、右側のガラスは ほとんど無かった。

ドア枠の上の方に 少し残ってるくらいで。

割れたドアの こっち側にも内側にも落ちている破片は、何年も前からあるのかな?


「及川 くん... 」


割れたガラスドアの入口から、呼びかけてみる。

今 歩いてきた、白いコンクリートの駐車場も真っ暗で、病院の中も真っ暗。

でも ここに、及川くんが居る。私を、待ってる。


あの病院から履いてきた茶色いサンダルで、入口のドアを跨いで越えた。

サンダル越しに 割れたガラスの感触がして、一瞬だけ、良くないのかもしれない... と掠めたけど、それは 一瞬だけだった。

頭には ぼんやりと靄がかかってて、夢の中みたいにも思える。


入口の中は 広い待合室みたいなところで、少し奥に、受付や会計のカウンターみたいなものが見えた。

でも、どうして見えるんだろう?

こんなに暗いのに。


カウンターとエレベーターの間には通路があって、そこに 人影が見える。


人影は、ゆっくり、ゆっくりと、私がいる待合室に向かってきた。


あぁ、及川くんだ。灰色の。

高校の時は 物静かな印象だったのに、すごく 怒ってる。


“今田”... という声が、床を伝ってきた。


「及川くん。私を、呼んでたよね?」


灰色の及川くんは

“地下へ” という形に口を動かしたんだけど、その口の中は黒かった。

夜より、この病院の中より、ずっと。


足の裏を床から離せないみたいで、ず... ず... と、引きずりながら歩いてる。

ついて行かなくちゃ。私がスマホを失くしたせいで、及川くんは殺されてしまったんだから。


... “ころされた” って、誰かの声が耳を掠めた。


地下へ行くために、カウンターの前を横切っていた足が止まる。


... “高坂先生、また、ころすの?”


誰?


床からは、“今田” と呼ぶ 及川くんの声が響く。


行かなくちゃ。

でも、どうして膝が震えるんだろう?

灰色の及川くんは、私の すぐ後ろに追いついた。


行かなくちゃ...


背中が冷たい。無数の氷の針で触れられているみたいに。

前に出す足がもつれて、手の指先までが震える。


縺れる足で 何とか進んで、鉄製のドアの前に着いた。

震えが止まらない手で バーハンドルを握ると、その冷たさが 骨を伝って肘まで伝わった。

開けれるのかな... ?

力が入らなくて、ハンドルを押し下げることも出来ない。


でも、グ... グ... と、冷たいハンドルが押し下げられていく。

ぎっ と軋む音がすると、重たいドアが、キ... キ... と開かれていって、ハンドルから手が離れた。


ドアは閉まらない。

中の階段は 先まで見えないけど、手のひらや肘で壁に寄りかかりながら、震える足を 一歩ずつ降ろしていく。

背中には、無数の氷の針の先と、灰色の及川くんの気配を感じながら。


長く長く感じた階段を降り切ると、膝が動かせなくなってた。

がくがくと震えながら降りたせいかも。

手も、預けている身体も、ひんやりとした壁から離せない。


“今田” って、床を伝う声で 及川くんに急かされる。

うん、わかってる。わかってるんだけど...


足が動かせない。どうしよう?


“... 今田!!”


及川くんの声が響いた。床から、私の髪の先まで。怒ってる...


泣きそうになりながら、壁に掴まったまま、サンダルの足を擦って歩いた。及川くんみたいに。


ず... ず... と サンダルを擦りながら、ガランとした棚だけの部屋の前を通り過ぎると、開いてた隣の部屋から、白衣を着た お医者さんみたいな男の人が顔を覗かせた。

この人は、頭から足まで全部が真っ白だった。


『携帯の持ち主だった子かな?』


囁くような声で 白衣の人が言ったのだけと、及川くんにじゃなく、私に言ったみたい。


迷ったけど、白衣の人に頷くと

『彼に、飲み込まれているねぇ... 』って、笑ってる。


冷たい背中に汗をかきながら 足を擦って進む間に、白衣の人は

『私は 加害者であって、自分で自分を被害者にもしたんだ。そうして終わらせたんだよ。

被害者にした者の診察は、まだ続けているが ね。

君が彼を、私とは逆の道に堕とすことになるんだねぇ... 』と、また笑った。


被害者になってしまった 及川くんが、加害者に...

その被害者は 私、なんだよね...


奥の部屋のドアの前に着いたけど、壁に預けている身体や手のひらを離したら、きっと座り込んでしまう。


“今田”...


及川くんの声が急かすけど、もう怒ってはなかった。

とても 嬉しそうで、汗で背中に張り付いたシャツの上から、背筋を氷で撫で上げられているよう。


壁から手と身体を離すと、床に沈み込んでしまった。

でも、行かなくちゃ...

床に着いた手や腕も震えが治まらなくて、手や肘と両膝で、這うように 向かいのドアまで進む。

壁と同じように、床も ひんやりとしていて、骨の中から冷やされるみたいになって。

もう、歯の根も合わない程 寒い。


冷たいドアの前に着くと、座ったまま ハンドルに手を伸ばすけど、爪の先は当たるのに掴みきれない。

掴みたくないのかもしれない... と掠めるたけど、私の後ろから 及川くんの灰色の手がハンドルを握って下ろした。


ドアが開かれる時に、それを避けようと身体を少し反らすと、灰色の手が 私の頭の上から髪を掴む。ドクン と、胸の中が大きく鳴った。

及川くんの口の中のように黒いものが 髪を伝って私に纏わりついてくる。

髪を離して欲しかったけど、言えなかったし、抵抗する気にもなれない。


開いたドアの中に引っ張られて、脱げてしまったサンダルを残したまま、身体の全部が部屋に入ると、閉まったドアが 裸足の指先についた。




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