10 及川 浬


感情が高まる度に充満し、滲み出してくるくらいものを、外に発散させるな... 滲み出させないようにする ということには、困難を極めた。

定期的に あの医者... いや。白衣を着たクズが覗きに来ていたせいもある。


だが少しずつ、“あいつ等を同じ目に合わせる” という目的だけに集中すると、充満する それはなかたぎり、深く濃厚なものとなっていくが、胸や口から滲み出すことは少なくなってきた。

床に根付いたかのように思えていた足は、床を離れ、踏み出せるまでになった。


灰色の無愛想なドアの前まで来た。

後は、これを開ける。


ドアノブに触れようとした手が擦り抜けて、ドアノブより下の位置まで下りてしまった。

それならドアも通り抜けられそうなものだが、ドアの向こうへ出ることは出来なかった。


拒絶されている と感じたが、そのドアを薄く開け、白い目を覗かせた 白衣のクズが

『扉というものは、“隔てるもの” であり、“開けば出入口” となるねぇ。

身体を失っても、ドアの本質を変えることは出来ないんだよ...

私たちのような者の中には、その概念さえ失った者もいる。

そういう者は壁もドアも お構いなしに通り抜けられるが、自分が誰だったかも失ってしまってるからねぇ... 』と じっとりとした目を笑った形にして言った。

それなら、どうやって開けるんだ?... とは、聞きたくない。こんな奴に。


白衣のクズが去ると、床に落ちていた 今田のスマホを操作した時のことを思い出してみる。


... 操作したのは、怒りと念だ。ぐつぐつとした怒りが外へ這い出て、スマホを明滅させ、蛍光灯を割った。

あの時 滲み出した恨みや怒りは、俺に纏わるだけでなく、床を覆い出して壁の登りはじめ、俺は今田と あの男に、“ここに来い” と強く念じ続けていた。


スマホや蛍光灯も、滲み出て這い出した恨みに覆われ、その中の怒りと 念... 忌々しいが、あの白衣の男が言ったことを踏まえて考えるのなら、“ここに来い” という強い思考の電気信号の発火が 滲み出たものを伝って外側へも洩れだし、床にあったスマホまで繋がって動作させ、また怒りの念が天井の蛍光灯を砕いた... ということだろう。

だが、俺自身が それに覆われ纏わりつかれてしまえば、また足が根付いてしまう。


だったら... と、ドアノブに手を掛けた。

手を掛けたが、“ドアノブの位置に手を合わせた” だけで、それに触れることが出来ない。


いや、開ける。ドアを開けて ここから出て、一階にあるという事務室まで行く。

あいつ等を誘き寄せるために。

それが無理なら、探しに行く。

そのために、まずは この部屋から出る。ドアを開ける。必ず。必ず 必ず...


どのくらい時間が経ったのかは、わからない。

そもそも身体を失ってからは、時間の経過を体感することは ひどく薄いが。

ふと、手に感触がした。金属のドアノブの。

手のひらから滲み出したものが ドアノブに伝わっているのが分かる。

それを下に押すと、ドアノブが下がった。

ドアを開ける... と 強く念じると、手のひらから滲み出しているものが ドアノブからドア自体にも拡がっていくのが分かった。


ギ ギ...  と、軋む音を立てて、ドアが開いた。開いた...


開けることだけを念じ、そのイメージに集中して広く開け、ようやく 通路に出た。

やった、やっとだ...


階段へ向かうために 通路を歩く。

一階の受付の裏、事務室。そこへ行けば...


『... あぁ、私は もう終わりだ』


霊安室を通り過ぎる時に、あの白衣のクズの声が頭に響いた。

だか 俺に話しかける時とは違い、生々しく悲壮な声だった。

いや、声だと思ったが、思考そのもの なのかもしれない。


その気はなかったが、ドアが開いた入口の前で立ち止まった。

あのクズは、霊安室内に残されていた硬そうなベッドに横たわり、左腕の白衣とシャツの袖をまくり上げると

『... あいつが気付かなければ... あの女もそうだ、俺を陥れやがって... クソッ、どれだけ苦労して 今の地位に居ると思ってやがる?... 終わりだ、その全てが終わりだ!』... と、白い目を剥き、何も持っていない右手の指を 左腕の肘窩ちゅうか... 肘の裏の窪みの部分に近付け、注射をするような仕草をした。


『... フ ... フフフッ フフ... 』


自嘲なのか そうでないのかは判らないが、笑いながら右手の指から 持っているものを落とすような仕草をした。

左腕の袖を直すと、胸の上で両手の指を組んでいる。


『... 忘れるものか... 私を陥れたんだ、覚えているがいい... 今頃、遺族の家にも私の手紙が届いている... 私を糾弾した医師あいつやナース等は、デスクを開いた時に、私からの心の籠もったメモを見つけるだろう... 』


天井... 一階より上階を見つめていたクズが瞼を閉じると、プツリと 生々しい声が途絶えた。

そして、今 閉じた瞼を開き、硬いベッドから身体を起こして、入口に立っている俺に 白い目を向けた。


『あぁ、ようやく出られたようだねぇ... 』


さっきまでの生々しさも悲壮感も、怒りも、呪いの気配も、まったく消え失せている。

今 自分がしていたことも、覚えていないようだ。


『ほら、私の言った通りだっただろう?

私はね、君のような普通の子が、外で鬼ごっこをして笑ったり、ゲームばかりをしている頃から、ずっとずっと、ずっとずうっと、勉強してきていたからねぇ... 』


そりゃあ、死ぬほど勉強したんだろう。

その点だけは素直に尊敬する。

だが、その努力を無に帰したのは、助かる人を死なせて罪から逃げたのは、お前自身なんだろう?

それで その時のことを、さっきのように繰り返しているのか?

性格がねじれてなけりゃ良かったのにな。


『どうしたんだい?

事務室は、一階の受付の奥だよ... 』


そうだ。同情したり呆れたりしている場合じゃない。白衣の男から目を背けて通路を進む。


備品室と思われる部屋には、並んでいる空の棚の間に、病衣を着た女が正座していた。

白い目で俺を見つめているが、黙って通り過ぎる。

彼女の話は、白衣の男が話を聞くだろう。

俺は、白衣の男や この女のように、ただ病院ここに居続ける気はない。


階段を昇ると、閉じられている両開きのドアの片側に左の手のひらを付けるように添え、開ける と強く念じながら、ドアが開くイメージを保ち続けた。


手のひらに、鉄製のドアの感触がする。

それを押してみると、あの部屋のドアより簡単に開けることが出来た。

割れた窓から 薄い朝日が侵入し、無機質な廊下や壁を 薄く照らしている。

もうすぐ仕事が終わる と、倉庫内で 一息つく気分になる時のことを思い出す。早朝のようだ...


何でもなかった日常の瞬間が去来すると、恐ろしい程の痛みに襲われた。哀しみの。


振り切って、通路を左へ折れると、すぐに受付のカウンターがあって、広い待合室に出た。

割れた入口のガラスドアの向こうには、黄色いテープが張られている。


青黒い俺を運び出した奴等は、その後も幾度か来たのだろうが、あの部屋にも来たのかどうかは よく覚えていない。


ずっと部屋から出ることばかりを考えていたが、そいつ等が来た時にドアが開いたとしても、俺自身がドアを開けなければ出られないということが判っていた。

あの白衣の男がドアを開けた時も、俺が出ることは出来なかったからだ。

ただ、考えて考えて念じ続けていた。


今は、受付の奥の部屋へ入ることだ。


受付のカウンター内には幅がある。

受付、会計、処方箋を渡す場所が並んでいたようだが、背後にスペースは 医療点数を計算する事務員が座る場所だったのだろう。

床に幾つかのデスクが並んであった跡がある。

その奥には壁があって、ドアが付いていた。


あの奥のドアからカウンター内に入るのなら、サイドの壁に別のドアがあるはずだ。


カウンターの右側、奥へ進む通路に入ると、すぐに そのドアがあった。

ここは半端に開いている。


壁とドアの隙間に指先を入れ、あの部屋や階段の上のドアを開けた要領で、念じながら引いて開けた。


ドアの中は短い通路になっていた。

その通路の左右にも 一枚ずつのドアがある。

右奥についているドアは、カウンター内へ入るためのものだろう。

それなら通路に入って すぐ左にあるドアが、事務室へ続くドアだ。


そのドアを開けて室内へ入ると、中央に 六つの古びたデスクが据えられていて、キャスター付きの椅子が散乱している。

だが、白衣の男が言っていた 古いパソコンは見当たらない。


室内を歩き、左側の壁に作り付けられている棚に収まっている朽ちかけた段ボール箱も覗いてみたが、それも空だった。


... 白衣の男あいつからかわれたのか?

苛立ち、腹の奥から湧き出す憎悪が増していく。


事務室を出ようと、奥の壁側から 開けたままにしたドアの方に向いた時、右端のデスクの上に、ぼんやりとした四角いものが見えた。


デスクに近付き、それに 両手を添えてみる。

まだ何の感触もないが、見えるのなら触れられるはずだ。


物の霊などあるはずがない... と、思っていた。

それどころか、人間や動物の霊も信じていなかった。

だが、俺はまだ ここに居る。

そして、物には記憶が蓄積している。


パチ パチ... と、手のひらに小さな刺激を感じた。

もう少しだ...


目の前には、ディスプレイに厚みのあるノートパソコンが開かれていた。



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