飴イジングヒットウーマン

幼縁会

序章

 ネオンに彩られた街並み。曇天の空模様を頭上に抱えた中、一人の男が路地裏を駆けていた。

 二十歳の体躯に見合わぬ高品質のスーツを泥水と汗で汚し、本革性の靴も汚泥でワックスの塗装を剥がし尽くす。

 息も絶え絶え、既にどれだけの距離を駆けていたのかも把握していない。ブロードウェイの彩りが視界に入り込んだ時点で、正確な距離を把握する意志は放棄している。

 視線を感じる。

 左右を囲うビルの屋上へ視線を送っても、人の姿はない。だが視線を離した直後には再び、獲物の疲弊を狙う猛禽類の如き監視が肌に突き刺さる。

 狙われている。自分でもどれだけ走ったのか分からぬ程の距離を経て、なお。


「ハァ……ハァ……なんで、こんな……!」


 脳裏に過るは駆け出した元凶たる理不尽。

 桃色のモーニングスター染みた、しかして一撃ごとに破損しては球状に再生する得物が付近にいたはずの同僚や取引相手を鏖殺していく地獄絵図。どこまでが欠けた肉塊でどこからが敵の得物かも判別できない空間を、男は第六感が掻き鳴らした警鐘に準じて一早く離脱した。

 そこからが、延々と続く追跡劇の始まり。

 視線を感じる。

 足音の一つもないにも関わらず、狙われているという確信が熱さに伴わない汗を掻かせた。

 視線の先に見えた光明──人々が闊歩する大通りへの道筋が、男には希望に続く片道切符にも思えた。幻視した光景を疑う素振りすらも見せぬ足捌きが、追跡者を振り払おうという意志を殊更に強く見せる。

 月十数万の手取りで満足していた時代に購入したバッグを抱える両手に、一層の力を込める。それが安全を保証するかのように。


「っぶねぇな、オイッ!」


 人工の明かりが四方から照らし出す道へ飛び出した直後、肩へ激しい衝撃が走るものの速度を緩めず左折。

 背後から殴りかかる怒声も、路地裏を出るまで常に突き刺さっていた視線には及ぶべくもない。故に男は脇目も振らずに人波へ跳び込む。

 前後左右。規律が取れているようで無秩序な流れが全身を打ち据えるものの速度を緩めず、むしろ我が道を押し通るとばかりに人々を掻き分ける。

 突き刺さっていた視線が、徐々に抜けていく感覚が肌に伝わる。

 撒いた、と慢心する気はない。

 むしろ姿を見られた以上、どこか特定地点を見張って訪れた瞬間を叩く方が効率的。そう判断された可能性もある。


「ひとまず近くのモーテルを……いや、野宿も視野か」


 過剰なまでに周囲へ警戒の糸を張り巡らせ、男は足早に人波を横断。

 横断歩道を待つ間も背筋を丸める様は、先輩から言われた堂々とすれば案外見つからないというアドバイスを忘れた所作。しかして、追跡者を撒く手段など先輩も知らぬ以上はどうしようもないというもの。

 故、状況への対策も場当たり的。

 品評会の広告を張りつけたトラックの横断も視界をすり抜けて脳には留まらぬ余裕の無さが、事態の証明か。

 停止を意味する赤信号が発進を意味する青信号へと変化し、男は乗用車が行き切らぬ内から足を進める。クラクションを鳴らされなかったのは小さな奇跡。

 道中、脳裏を過ったのは自身の過去。

 貧民街で売春婦の母に生を受けた彼は、常に貧者の側として扱われていた。

 鼻腔をつんざく香水の臭いを嫌い、貧民街から抜け出す気概もなく日の光へ昏い嫉妬の炎を燃やす住民を嫌い、裕福な暮らしを望んだ彼を待ち受けていたのはどうしようもない貧困の現実であった。

 無月謝のハイスクールでも、幾つかの学校から敢えて選んだ者と前提からしてたった一つしか選択肢のない者とでは見目が異なる。

 みすぼらしい衣服。腹を空かせぬよう惰眠程度しか趣味のない教養。流行りを追おうにも追うための手段すら知らぬ身。

 服を買いに行くための服がない、という冗談があるが、彼がハイスクール内で浮いた存在となったのもその類例。馬鹿で後先考えずに道を選び、そして堕落した母を反面教師として勉学に勤しむはずが、学ぶためにも金が必要となればもう生まれから詰んでいると称せざるを得ない。

 気づけば当初の決意は霞み、惰性でハイスクールと自宅の娼館を往復する日々となり、そして卒業式を迎えた。

 幸いにも名も知れぬ三流企業に勤める程度の経歴こそ入手したものの、娼館を脱するには手取りが足りぬ。鼻腔をつんざく香水の臭いに居心地の良さを覚えてしまう中、上司の取り出したブツが彼の運命を大きく変える。


『これやってみないか、ジン』


 汗水垂らして働いた年収がたった一キロのそれを買えないと理解した時、彼の倫理観は脆くも崩れ去った。

 上司から入手経緯を聞き、売人へ仲間にするよう頼み込み、身の潔白を証明するため恥部であった自宅の在り処すらも公表した。

 売女の腹から警察官が生まれる訳がねぇか。

 最上級の罵りと引き換えに入手した粉は、真面目に働こうと息まいたのが馬鹿馬鹿しく思える程の札束を彼に与えた。

 金持ちを自称して豪奢な衣服に身を包んだ級友よりも、娼館の一番人気を抱きに来た顧客よりも。

 ブツを売って得た金で貧民街からニューヨークのマンションへと住処を変え、大統領の付き添いが身に着ける物と同一ブランドのスーツを購入し、身嗜みを整えた。そうすれば、隣人は向こうの方から彼を頼った。

 何の事はない。

 金さえあれば、環境は幾らでも変えられる。

 だというのに。当然の努力を重ねただけなのに。知れば皆が手を出す代物なのに。


「なんでベッドじゃなくてコンクリートの上で……」


 愚痴を零した彼の足取りは、再び光瞬く大通りから薄暗い裏口へと歩を移していた。

 既に息も絶え絶え。一度速度を落としてしまったために改めて駆け出すのも容易ではない。故に息を整え、潜め、目敏く暗闇を見つめる。


「──」


 だからこそ、気づく。気づいてしまう。

 眼前に立つ理不尽の具現に。


「来るな……こっち来んじゃねぇッ!」


 腕を振り理不尽を振り払おうとするも、距離が離れ過ぎている。

 頭上でモーニングハンマー染みた得物を振り回し、恐れるものなどないと歩みを進める。恐怖を煽るためか、意図的に革靴でコンクリートを叩きながら。

 肌を撫でる風が死を謳う。

 巻き起こされる旋風が汚泥や砂、質量の軽いゴミを巻き上げ理不尽の周囲を彩る。

 一つ一つであらば甘美で意欲を誘う匂いも、乱雑に混ぜ合わせてしまえば鼻を犯す臭気へと変貌を遂げる。我先にとプレゼントされた香水を手当たり次第にまぶしてしまえば、お得意様がそっぽを向くのと同じように。


「これは……!」


 あれだけ逃げ出したかった、遠のかせるために全霊を尽くした臭いが、今再び彼の鼻腔を蹂躙している。


「死ね」


 凛とした、稼業の割には幼いに過ぎる声音にも意識が向かぬ程の嫌悪。

 湧き上がった強烈な感情を押し潰され、男は己が頭部を陥没させた。



 壁と路上を塗りたくる赤。

 粘度の高い液体で一筆書きしたような惨状を、桃色の得物を構えた理不尽が見下ろしている。

 筆の入れ始めは、人体の許容範囲を無視した陥没を見せる男だった肉塊。頭蓋骨も奥で保護されていた脳味噌も衝突事故を起こした自動車めいたひしゃげ方を見せ、生死の有無をわざわざ確かめる意味もない。

 大通りを通過した自動車のハイライトが一瞬、理不尽の姿を照らす。

 それは、少女を形取ってした。

 黒のショートボブに初雪を彷彿とさせる白肌。身に纏うは日本の女学生が着用する漆黒のセーラー服。素肌を晒すつもりはないのか、はためくスカートはくるぶし付近まで覆っている。

 少女は己が得物──眼前の有様を作り出した元凶を持ち上げると口元へと近づける。

 ゆっくりと、見つめるにも不適な間合い。口元へと。


「……ペロッ」


 舌を伸ばして一舐め。

 少女は鮮血を舐める異常性癖でも、吸血鬼の末梢でもない。

 証拠に少女が舐めた箇所は今なお足元へと垂れている鮮血に濡れた部分ではなく、そこから離れた桃の部分。衝撃で少なからず罅や毀れが入っているものの、球状は維持している。

 二舐め、三舐め、四舐め。

 少女の味覚は正常であり、伝達器官である舌も正しく情報を伝えている。

 即ち、ピーチ味を。


「……多い、飽きた」


 手首を振って放り投げると得物が霧散。纏わりついていたはずの鮮血諸共に消滅した。

 代わりに懐から取り出したのは、時代の推移から僅かに外れた厚みの携帯端末。

 防水防塵防弾に防電。丈夫さと通信性能に偏重した改造が施された端末の液晶を叩き、見慣れた人物への連絡を取る。


「ガーナ、取り逃がした分も終わったよ」

『そうか、そいつは良かったアヤメ。今どこだ、スノウホワイトに死体を処理させる』


 アヤメと呼ばれた少女の言葉に応じたのは、少ししゃがれた男性の声。音質の問題とは異なる、男性の声帯に原因を抱えた声音は少女に若干の聞き取り辛さを覚えさせもする。

 左右を見回し、配管とコンクリートに彩られた周辺環境を確認。


「ここは……どっかの路地裏。多分ブロードウェイ」


 端末越しに聞こえた嘆息は、男性の零したものに相違ない。


『……とりあえずそこから出ろ。目印の一つでもなきゃ車も手配できねぇ』


 男性の指示に頷くと、足を暗闇から大通りへと動かす。

 左手を胸元へ突っ込み、引き抜けば手に掴むは赤のキャンディ。

 口に含んでみれば、たちまちに口内が苺の味わいに浸食される。先程のピーチが過分な量であった手前、お口直しに別の味をという判断だが、効果覿面と頬が僅かにつり上がる。

 大通りに踏み出す直前。


「あ」


 微かに零れるネオンが漆黒のセーラー服を照らす境。光と闇の境界、その合間でアヤメは自身の服装に視線を落とす。

 返り血は、付着していない。


「じゃあ、いいか」


 革靴が整備した道を叩く音は、雑多に響き渡る数多の音に紛れて潰えた。

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