婚約内定2-1 エミールの場合







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 王太子一行を乗せた馬車列。

 その中でも荘重な拵えの黒い馬車の中で、彼は無言で、一枚の書類を宝物のように撫でた。



 『 王暦987年 四月 二十五日

   A)エミール・ガニアン・ド・シャルティエ

   B)ガブリエール・ド・モルターニュ    』



 署名の入った婚約同意書を眺めるエミールは、馬車の中でほっと息をつく。


「今日の殿下はずいぶんと上機嫌ですね」


 ともを務める黒髪の少年執事──サージュは、王太子の常ならぬ調子を見極める観察眼に優れていた。


「うん。そうだな」


 あっさりと首肯するエミール。

 これでガブリエールと形式上とはいえ、口約束以上の繋がりができたのだ。喜びこそすれ、悲嘆にくれる理由などない。

 だが、


「まさか、ここまでとはな」


 移動する馬車の中で、エミールは実直な面持ちを浮かべて、窓外の光景に目を凝らす。

 実によく手入れされた前庭と花園が見て取れる。

 貴族としては慎ましい部類に入る規模だが、それを一人の少女が管理維持する労力を、思わずにはいられない。魔法でも使えば一発だろうが、そんなことができるのは王室に召し上げている魔法使い以外に存在しない。


「ジョルジュの──リッシュ公爵の言ってた通りの娘だ。家名を維持するべく、ここまでの努力を……いやはや讃嘆に値する」

「だからといって、王家にふさわしいかは別です」


 少年執事は片眼鏡の位置を直しつつ、王太子に真っ向から意見する。彼はメモ帳を懐から取り出した。


「あの娘。軽く調べさせていただきましたが……。一歳の時に、母を病で、五歳の時に父を事故で喪っております。それ以降は生家たるあの屋敷で祖父母と共に生活。中学校コレージュを六歳で入学し、十二歳で卒業。高等中学リセ―への入学も果たしておりますが、一昨年に祖父母を事故死したのを機に退学しておりますな」


 成績は可もなく不可もなくといって、少年執事は資料を閉じる。


「このような婚約ごっこ・・・、誰も喜びはしないでしょうに──よくもまぁ、大それたことをなさる」

「そう言うな。おまえだって、私がいつまでも婚姻しないことにあれこれ文句をつけていたくせに」


 じいと呼ばれた片眼鏡の少年は、碧色の交じった短い金髪をかきあげ不遜に鼻を鳴らし、「坊ちゃんの婚約ごっこ」をたしなめた。


「どうせなら、帝国の皇女殿下とか、教国の姫巫女殿とか、外交上の関係強化に『御身は“使われる”御身分』ですぞ? ──王陛下は、さぞやお嘆きなさることでしょうな?」

「ふん。結婚しろだの孫見せろだの、さんざん揺さぶってきたのはアチラが先だ。文句を言われる筋じゃない」

「ですが、フリ・・なのでしょう?」

「────ああ、今は、な」


 少なくとも昨夜、ガブリエールを納得させるには、それ以外の良法が思いつかなかった。

 王族だろうと、貴族だろうと、一両日中に結婚できるものではない。少なくとも両家・両社の合意──“婚約”関係を結び、長ければ一年の猶予期間を設ける。しかも今回の縁組は王族と下級貴族の末端の末端──立ちはだかる問題は多い。

 その間にすべての準備を整える。

 王を説得し、ガブリエールに王族としてふさわしい教養と格式を身につけさせながら、彼女の心を射止める。

 王太子は本気以上の心構えでいることを、サージュはペンを回して嘆息交じりに確認。


「ならば結構なことです。王太子にも、遊興のいとまくらいは、必要でしょうから」


 サージュは執事らしい落ち着いた手つきで婚約同意書をスーツの中にしまい、王太子の偽りの婚約について半ば興味を失う。


「ですが。事は重大事です。婚約がフリだなどと王の耳に触れようものなら」

「わかっている。そのあたりはうまくやるさ」


 エミール王太子は、王を、国を、なかば騙すことになる。

 だが、そんなことなど些細なこと。そう思えるほどに、エミール王太子の心は熱い滾りたぎに満ちていた。


(ガブリエールとの仲を緊密なものにし、やがては正式な婚約者に据える)


 それまでに立ちはだかるであろう万難を排してでも、黒髪の王太子ドーファンは彼女との婚姻を結ぶ覚悟をかためていた。


「それで、爺よ。ジュール伯爵には話を通してくれたか?」

「婚約者殿を伯爵令嬢にするための養子縁組の件ですな?」


 王太子殿下のお達しとあれば、嫌な顔をするはずもありますまいと、サージュは肩をすくめてみせた。

 ……何しろモルターニュ家の家名は、些か異常に“低すぎる”。

 ただの騎士候の孫娘と、現王太子ドーファンとでは“不釣り合い”にも程があった。

 そのため、知古にして師たるジュール伯に頼み込んでおいたのだ。「とある娘の後見人になってほしい」と。


 万事抜かりなく事を進めるエミール王太子。

 彼はガブリエールとの未来を確固たるものとするため、入念な準備を重ね始めた。






 □






 王国内のみならず、近隣諸国にも激震がはしるのは数日後のこと。

 ソヴァ―ル帝国も。ルリジオン教国も。ソルシエール国も、エルフ公国もナン氏族国も、ラ・モール魔族国も。すべて


 帝国の皇女は真っ赤な顔で怒鳴った。


「ちょ、誤報か何かじゃないの、それ!」


 教国の姫巫女は沈着な声音で驚いた。


「あらまぁ。意外なこと──」


 魔女の国の女王は静かに声を発した。


「我が占術のとおり……とはなりませんでしたね?」




 かくして、ユーグ王国王太子──エミール・ガニアン・ド・シャルティエの婚約発表はなされた。




 数多くの悲嘆と疑心、そして不満の種を産み落としながら……。






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