第23話 逃げる母と迎える父

「に、にせ……まっっ!!」


 初海が先ほどの反応よりも更に大きな驚きをみせる。


 洋子についても言わずもがな。


 この場においてあまり感情をみせて来なかった美海ですら目を丸くして息を呑んでいた。


 まあ、自分でも計算した時に桁をひとつ間違ったんじゃないかと驚いてしまったから気持ちはわかる。


「そ、そんな大金払うわけないでしょっ!! 馬鹿じゃないっ!!」


「何度でも言うぞ。それだけの大金を、私は、お前に、支払った。支払ったんだよ」


 生涯賃金を二億円ちょっとと考えれば、二千七百万円はその四分の一である。


 つまり私は美海に人生の二十五パーセントを捧げたに等しかった。


 それを無かったことにされるのは、かすめ取られて素知らぬふりをされるのは、絶対に許されるはずもない。


「そ、そんな貰ってるはずがないっ! そんなに貰ってたらもっと贅沢できてたわよっ!!」


 語るに落ちるとはこのことである。


 今、八尋は私の金で贅沢したことを認めたのだ。


 ただ、まだ少し証拠としては弱い。


「とにかく私はきちんと養育費をその子のために使って――」


「『今日、元夫の慰謝料でブランドバッグ買ったんだけど、私の傷が消えるわけじゃないんだよね』」


「は?」


「自分でSNSに書いといて忘れるなよ。これはお前のつぶやきだぞ」


 十年前のつぶやきだからさすがに覚えていなくても仕方ないだろうが。


「えっと、他には……ああ、こんなのもあるな」


 私は用意しておいた印刷物の山を探り、ひとつひとつ読み上げていく。


 それらは全て、八尋自身がSNSに投稿したものであり、使い込みを自白する内容になっていた。


「まだまだあるが、こんなものか」


「……最っっ低、このストーカー!! 私のSNSをそんなに遡って調べるなんて気持ち悪い!!」


 そもそも八尋が養育費を使い込まなければ、徹夜でSNSを十年分も調べあげる必要はなかったのだ。


 どちらかといえば、被害者ヅラ全開の怖気が走るほど気色の悪い文章を読まされたこちらの方が被害者なのだと反論したかった。


 けれど、同じレベルで争い合っては意味がない。


 どうしようもなくなるほどに追い詰め、こちらの要求を通すことが目的なのだ。


「ありがとう、お前が投稿したと認めてくれて」


「――――っ」


 私の投げた言葉の剣が電話越しに八尋の口を縫い留める。


「お前が養育費を着服して贅沢品を大量に買った。ホスト通いにバカ騒ぎをした。それが事実だと認めたってことでいいよな」


「わ、私だって仕事くらいしてるわよっ!! 自分で稼いだお金を自由に使って何が悪いのよっ!!」


 仕事というのはSNSで知り合った男相手に股を開いて援助してもらうことなのだろう。


 それもまた叩き甲斐のある香ばしい要素だが、今回は別の方向から攻めることにする。


 というか、ツッコミどころが多すぎてもはや攻撃のしたい放題だった。


「お前、住民税非課税世帯なのに何を言っているんだ」


「え?」


「非課税世帯ってことは、お前が働いて稼いだ金額はある程度以下ってことになる。それなのに、お前が買ったとつぶやいたブランド物の合計金額だけでその額を越えるんだよ」


「は? え? なに言って?」


 八尋はここまでバカだっただろうかと少し呆れてしまう。


 こんな女と結婚していたこと自体が恥ずかしい。


「お前の最高収入は分かってる。もし借金と養育費以外の方法で収入を得て、その申告をしていなかったとなるとその時点でお前は脱税をした犯罪者になるんだよ」


「…………」


「ちなみに、男と寝た見返りに金品を得る売春行為は犯罪だ」


 先ほどまでの甲高い八尋の声は鳴りを潜め、スマホは一切の音を出さなくなってしまった。


 八尋が逃亡した可能性は十二分に考えられたが、八尋の父親が義務を果たしてくれることを信じて一応確認だけはしておく。


「もう一度聞く。養育費を着服したのか? それともお前は犯罪者か? どっちだ?」


「…………」


 予想通り、返答は得られなかった。


「つえー……」


 口で追い詰めたことをお気に召してくれたのか、初海が目を輝かせながらつぶやく。


 ことがことだけに誇れるようなものでもないのだが、尊敬のまなざしは少し気分が良かった。


「これが大人の喧嘩ってやつだ。まあ、本当に大人ならこんな喧嘩をしなくて済むように立ち回るんだけどな」


 軽く初海の頭を撫でると、少女は一気に破顔し、興奮しながらまくしたてる。


 それほどまでに痛快だったらしい。


「でもスゲーって! あのクソババア、なんか言ったらいっつも逆切れして暴れんだもん。それを口だけで封じ込めるって……」


 今回は電話だったことが逆に八尋の首を絞める結果につながったのは運がよかったかもしれない。


 まあ、対面で話していて暴力沙汰にでもなれば、それはそれで手っ取り早く話を進められるのだが。


「勉強して知識を溜めれば初海も出来るようになるぞ」


「うぇ~」


 初海の頭を軽く混ぜてから話を切り上げると、美海の方を覗き見る。


 美海は私の背中をじっと見ていたようで、一瞬だけ目が合ったけれどすぐに外されてしまった。


「……さて、と」


 居住まいを正し、ずっと沈黙していた洋子へと向き直る。


「八尋が逃げたみたいですから、代理である洋子さんに責任をもって話し合いを続けていただきます」


「……はい」


 先ほどの会話から八尋が逃亡したことで、着服は決定的になった。


 もはや擁護すら出来ない状態だろう。


「具体的な金額については弁護士を通じて後日請求させていただきます。減額などはまた話合いをいたしましょう」


「はい……」


「もちろんするつもりはございませんし、今度は容赦なく取り立てさせていただきます」


「はい……伝えて、おきます」


 全ては自業自得。


 自身の行動が招いた結果なのだ。


 離婚に対する慰謝料に関しては、美海という人質が居たため取り立てることが出来なかった。


 けれど今度は違う。


 八尋ひとりだけ。


 金をむしり取ったところで美海が被害を受けることはない。


 いや、むしり取るは違うか。


 正当な所有者に返してもらうだけなのだから。


「きちんと伝わるでしょうか」


「わたくしたちも努力はしているのですが、あの娘が聞く耳を持ってくれないので絶対とは言えませんが……」


「よろしくお願いいたします」


 洋子が、はぁ……と深くて長いため息をつく。


 今日だけで相当老け込んだように見える。


 だが、可哀そうだとは思わない。


 自分の娘が周りに危害を加えることを知っていて放置し、管理責任を怠ったつけが回って来ただけだ。


 私はスマホの通話状態はそのままに、交渉を再開した。


「では、最後の要求に移らせていただきたいのですが、その前に……」


 横を向いて、初海をまっすぐに見据える。


「初海」


「え、な、なに?」


 まさか自分が呼ばれると思っていなかったのか、初海がうろたえる。


「お前はどうしたい?」


「――――っ」


 話し合いが始まる前にした問いかけを思い出したのか、初海の表情が一気に引き締まった。


「どうって……」


 初海も分かっているのだろう。


 自分がこの家の異物であることを。


 初海は確かに美海の妹である。


 けれど、私の娘ではない。


 八尋の腹に居た時に血縁の有無を確かめて、きっちり親子関係を解消してある。


 全くの他人である私が、初海の親権を得ることは不可能だった。


「八尋と暮らしたいか?」


「それは絶対嫌」


「すまん、今のは誘導になるな。そうじゃなくて初海がどこでどうやって生きていきたいかってことなんだが……」


「…………」


 初海が申し訳なさそうに瞳を逸らす。


 遠慮しているのだ。


 らしくない、とは思わない。


 炭酸だなんだとがっついたのは、きっともうすぐ出ていかなければならないから、その前に楽しめるだけ楽しんでおこうとでも考えたのだろう。


「子どもが変な遠慮しなくていいんだぞ」


「子どもゆーな」


 前もって言い含めていたのに、それでも初海は言い出せないでいる。


 いや、少し怖がっているようにも見えた。


「……アタシさ、令次の家庭を壊したヤツの娘じゃん」


「それがなんだ。初海とは関係ないだろう」


「……でもさ。最初に会った時、令次言ったよね」


「――っ!!」


「私とは関わりたくないって」


 言った。


 確かに言っていた。


 君と君の母親とは関わり合いになりたくない、と。


 無知だったとはいえ、初海がこれほど良い娘だったと知らなかったとはいえ、許されざる傷をつけてしまっていた。


「ごめん、本当にごめんっ!」


 顔だけでなく、体ごと初海へと向き直る。


 許されることではないのは分かっていたが、必死に頭を下げた。


「今はそんなこと全く思ってない。だから――」


 そんな私の頭を初海は片手で掴み、レバーでも操作するような手つきでガッと持ち上げた。


「謝る必要ないって。アタシだって今ホントの父親がチャイム鳴らしてやってきたら同じようなこと絶対言うし」


「でも……」


「とにかく要らねーってば」


 初海は寂しそうな笑顔を顔に貼りつけ、空いている方の手を顔の横でパタパタと振る。


「ホント、令次っていい奴だよね」


「そう言ってもらえる資格はないよ……」


 お返しとばかりに今度は私の頭がやや乱暴に混ぜっ返された。


「いい奴だって。寿司食わせてくれたし、炭酸も好きなだけ飲ませてくれるし、服とかも買ってくれたでしょ」


「物を与えてくれるのがいい人の基準なら、パパ活おじさんだっていい人にな――」


「うっせ」


 今度はボールのように頭が振り回されて、無理やり言葉を中断させられる。


 けれどその手つきに私への害意は露ほどもない。


 その真逆の感情である親愛ならば、山のように感じられた。


「本当だったらお客さんで終わるはずなのに、美海ねえと同じように扱ってくれた。一緒に暮らしてもいいみたいなことも言ってくれた」


 いつの間にか、初海の表情が変わっていた。


 寂しそうなものから、心から楽しいことを話す、無邪気な幼子の様に明るいものへと変わっていた。


 自分は幸せなんだとでも言うかのように。


「叱ってくれたし、褒めてくれた。悪いなって思ったらこういう風に謝ってもくれた。なんてーの? 目上なのに対等な人間としてアタシを見ててくれてるのが分かるっていうかさ……。普通のお父さんってこんな感じなのかなーって」


 初海は色んな色眼鏡で見られてきた。


 不良の子ども。


 迷惑な親を持っている子ども。


 かわいそうな子ども。


 貧乏な子ども。


 だから、普通の子どもとして扱われることが嬉しかったのだ。


 それだけで満たされるほどに。


「いいのかな、関係ないアタシが居て」


 頭に置かれたままの初海の手を取って、互いの眼前で握り直す。


 初海からの抵抗は、無かった。


「初海が居なくなったら、私たちは家族をひとり失ってしまう。初海はそのことを悪いと思わないのか?」


「……その言い方はずるいって」


 私が「大人だからな」なんてうそぶくと、初海は不満たっぷりの仮面を被ってみせる。


 でもその下から笑みが見え隠れしていて……。


 そんな泣き笑いみたいな矛盾した表情を浮かべて「最低だ」と呟いた。


「約束するよ、初海を絶対幸せにする。だから私たちと家族になってくれ」


「……バッカ、プロポーズみたいじゃん」


「返事は?」


「~~~~っ」


 こぼれ落ちたうれし涙が、初海からの返答だった。

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