第6話『表出』

 秋はすぐに終わり、やがて冬になった。かじかんだ指先で、真鍋は日誌のページをめくっていた。担当カウンセラーは崎谷。クライアントは外部顧問の太田――あのダンス部の外部顧問だった。


 ――その経緯は、以下の通り。


 カウンセリングルーム外で声をかけられ、本人の希望によりその場で相談を受ける。相談内容は、部員との関係悪化について。大会の選抜メンバーについて、部員全員から異議を唱えられ、こちらの意図を話したものの全く理解を得られなかった。仕方なく部員との話し合いによってメンバーの選び直しを行ったものの、部員との関係は悪化したままで、指導とは関係なく部活動を行うようになってしまった……というものだった。


 それを見たとき、真鍋は愕然とした。


 自分のカウンセリングで、緒方は確かに良い方向に向かったと思っていた。

 ――しかし実際は、新しい問題が起きていたのだ。

(俺のやり方が……間違っていたのか?)

 あの時自分が言ったことは、間違いではなかったと思っていた。いや、今でもあれ以上の言い方は思い浮かばない。だが……。

(もし……もしも崎谷が、初めから緒方のカウンセリングに当たっていたら……)

 思わずにはいられない。崎谷が担当だったなら、たとえ同じ内容のカウンセリングを行ったとしても、全く別の方向に導けたのではないか。自分の言葉だからこそ攻撃的な結果に終わったが、崎谷の言葉なら、もっと他人を思いやった行動に出られたのではないか。

 考えても仕方のないことだ。たらればの話など時間の無駄だとは真鍋にも分かっていた。しかしどうしても、崎谷と自分の実力差が頭から離れない。

(切り替えろ……切り替えろ切り替えろ! いまは仕事中だ……)

 自分がこんな体たらくでは、およそ他者の相談を受けることなどできない。相談室に誰か来るまで、どうにか精神的に持ち直さなければ。

 真鍋は軽く目を閉じ、呼吸を深めていった。自分の感情をコントロールする方法ぐらいは心得ている。考えることで生まれるストレスは免れないが、思い浮かべることそのものを抑え込むことぐらいはできる。集中して頭を空にする。そうすると、自然に頭は仕事モードに切り替わってくれるのだ。



 日が沈み、真鍋は帰り支度を手早く済ませた。今日はともかく帰りたかった。相談時間中は何も考えなくて済んでいたが、昼休みやこうして仕事が終わった後は、緊張の糸が切れるのか、否応なく考えたくもないことを考えてしまう。

 ――今日は早く帰ろう。帰って寝て、時間が経てば全て過去のこととして冷静に受け止められるようになるはずだ。

 相談室を閉めて廊下をに出る。教員用の駐輪場は学校裏手にある。そこまでさっさと出てしまおうと急ぎ足で歩いていると、

「あ、真鍋先生」

 聞き覚えのある声だ。階段を下りてきた生徒に声を掛けられていた。真鍋が顔を上げると、階段を下りてくる緒方の姿があった。

「やあ……どうも」

「どもっす。この前は、ありがとうございました」

「……礼を言われるほどのことはしてないよ」

 実際、話を円満に解決できたのは崎谷のおかげだ。流石にそこまでのことは言わなかったが、否応なく苦笑を浮かべてしまった真鍋に何かを察したのだろうか。緒方は「いや、マジで」とワンクッション置いて言った。

「俺、真鍋先生のおかげで言いたいこと言えましたから」

 そうなんだ、としか真鍋は言えなかった。緒方は軽く頭を下げて「じゃ、失礼します」と昇降口に向かっていく。これから部活なのだろう。真鍋も彼に背を向けて、外に出ていった。


 外の風は冷え切っていた。その日は風が強く、冬の口だというのに肌がひりつくようだった。自転車での通勤はこれだから嫌なんだと溜め息を吐けば、白い息が風に流されていく。


 震えながら岐路に着き、家まで帰る。マンションの駐輪場に自転車を止めた真鍋だったが、その場に立ち尽くして、しばらくの間、動けなかった。やり場のない、疼くような苛立ちをどうにかしたい。飲みに行くか、家で飲むか――そんなことを考え、真鍋は再び自転車に飛び乗った。

 近くのスーパーに行って、ビールと適当な総菜を買う。自分の好物だけを並べた、栄養バランスも何もない、いつもより金のかかった夕食だった。

 多少の気晴らしにはなっただろうか、とビールを一杯飲み干したところで真鍋はソファの背に体を沈ませた。体が酷く重い。眠気も強い。このまま眠ってしまいたいが、まだ風呂にも入っていない。明日の昼食は弁当ではなくコンビニで買えばいいかもしれないが、風呂やら歯磨きやらは寝る前にやらなければならない。……だが、やらなければという義務感が、逆にやる気を削いでいくようだった。いっそこのまま、アラームでもかけて仮眠でも取るかと思いテーブル上のスマホを取り上げた、ちょうどその時。

「っ!」

 短い振動がメッセージを告げる。危うく取り落としかけたスマホを握り直して、真鍋は画面を見た。

「……崎谷」

 メッセージは崎谷からだった。内容は『飲みに行かない?』といういつもの文面。真鍋はしばらく呆然とその文字列を眺めていた。五分ほどそうしていた。そのぐらいの時間が経ったような感覚ではなく、実際メッセージを返した時に五分前と崎谷のメッセージに表示が付いた。

『家で飲んでる』

 真鍋はそう送り、

『来たかったら来い』

 と送った。つっけんどんな文言はいつも通りだった。崎谷も気にしなかったのだろう。『そっちにお邪魔します』という返事が来た。


 返事が来てから、真鍋は深く息を吐いた。

「なにやってんだ……」

 何故自分は来いと言ってしまったのか。いま、一番顔を合わせたくないのが崎谷ではなかったのか。実力差を思い知らされ、それに苛立ち宅飲みをしていたのではないのか。だが、いま『やっぱり来るな』とでも言うと、カンの良い崎谷のことだ。何かを察するかもしれない。真鍋は仕方なく、崎谷を待つことにした。


 ――が、しかし。


 結局眠気には抗えなかった。ソファに背中どころか後頭部までもを預け、真鍋はそのまま寝落ちていた。時間にしておおよそ10分程度だろうか。真鍋としては眠っていた自覚すらない、一瞬意識を飛ばしていたようなものだった。

「う……ん……?」

 真鍋は何かの気配を感じて、重い目蓋を押し上げた。他人の気配に飛び起きなかったのは、それがなんとはなしに見知ったものだったからだろう。

「……崎谷……?」

 ぼやけた視界の中にいるのは確かに崎谷だ。ああ、そういえば来るんだったと口を覆ってあくびをしながら思い出す。

「大丈夫? 真鍋、滅多に寝落ちとかしないのに。また酒飲んだ?」

「……一缶……それより、」

「疲れてるんじゃないか。鍵、閉め忘れてた」

 聞こうとしていたことに先手を打って答えられた。なるほど、と思うと同時に、日頃やらないようなミスに、羞恥と苛立ちを感じて真鍋は手で顔を覆った。大丈夫? と再び聞かれ、呻く。否とも応とも答えられない。正直、あまり大丈夫ではない。よりにもよって崎谷に無様な姿を見られ、腹の底に何かが渦巻くような、吐き気と圧迫感を感じていた。

「しんどいなら、何か買ってくるけど」

「……大丈夫だ」

「そうは見えないけど……僕にできること、何かある?」

「大丈夫だって言ってるだろう!」

 気づけば怒鳴っていた。ぎょっとしたのは怒鳴った方の真鍋で、崎谷の方は一瞬目を見開いたものの、すぐに気を取り直していた。

「……何かあった?」

 聞き返すその表情はあくまでも心配げだ。……それがまた、真鍋の癪に障った。

「何でもない。放っておいてくれ」

「何でもないことでいいんだ、少しでも話してくれれば――」

「話して、それでまたお前が解決するのか? よくできた同僚を持って、鼻が高いよ」

 嫌味は止まらなかった。崎谷は顔を曇らせている。――ここまで言われれば、流石にお優しいこの男にも伝わるものがあるだろう。多少は溜飲を下げた真鍋だったが、

「……そうか。分かったよ」

 崎谷は顔をうつむけていった。

「気にするだろうと思って、言わなかったんだ。裏目に出たのか、表立っていようがどうしようもなかったのか……分からないけれど」

「……何の話だ?」

「ダンス部の一件だよね、君が苛立ってるのは」

「……!」

 真鍋は息を飲んだ。気づくとは思わなかった。だが、本当は気づいて当然なのだ。相手の反応と経歴から、その人格と問題を洗い出す――カウンセラーなら誰しもがすることだ。しかも、崎谷ほどのカウンセラーなら、なおのこと上手くやって当然だった。

 ――知られた。瞬間的に真鍋は悟った。

「本当なら、君の悩みを僕が何とかしたい。けれどそれは、僕が一番不適格だろうね」

「別に……何も悩んでない、お前の気にすることじゃない」

 真鍋はただ突き放すことしかできなかった。適格、不適格という問題ではなかった。崎谷に己の悩みを知られたということが全てだった。自分は何も見せていないと、そう偽ることでしか、真鍋はもはや自分を保っていられそうになかった。

「……今日は帰るよ。真鍋……本当に、悩みは何も無いんだよね」

「ああ、無い」

 そう、と呟いて立ち上がった崎谷の顔を、このとき真鍋はようやく見た。そして、絶句した。その顔には一切の表情が無かった。

「悩みが無いなら、このことは、誰にも相談しないで」

「は……?」

 思いがけない言葉に、真鍋は思わず怪訝な視線を向けた。

「僕は僕以外の誰かが君の相談に乗り、悩みを打ち明けられて支えるなんて嫌だ」

「……は? なんだそれ……人に相談するのになんでお前の許可がいるんだ? そんなに人助けがしたいのか? 誰かの悩みの種は全部お前の手柄の資本か?」

「そんなんじゃない」

 背を向けた崎谷の表情は、真鍋からは窺い知れない。表情どころか、何を考えているのかさえ分からない。

「じゃあ……またね、真鍋」

 声だけはいつも通りだった。崎谷は、そのまま真鍋の家を出て行った。

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