ep.05 家族

 イルカが水面を跳ぶ。尾ビレで水を蹴り、人よりも大きな体を水中から跳び上がらせる。正しく人間離れした芸当には、感動すら覚えてしまう。

 イルカが跳ぶ度に上がる観客たちは歓声を上げた。そして、そんな歓声から僕らは切り離されていると感じる。どうしようもない疎外感は、僕がこの場に似つかわしくない緊張を覚えているからだ。

 僕の問いかけに、しかし笠松さんは答えない。踏み込み過ぎたと直感した。込み上げる焦燥に指先が冷たくなるのが分かる。血が隅々まで通っていないような感覚に、自分が遠ざかったような気がした。

 似合わないことをするもんじゃないと思う。僕は基本的に受け身な人間で、自分から他人に踏み込むような人間じゃないんだから。

 だけど、それでも間違ったことはしていないと確信している。いつ訪れるか分からない次より、目の前にある今。受け身だからこそ、やってきたチャンスを不意にすれば次がないことを知っている。

 そうして、笠松さんが口を開いたのは、僕が緊張のあまり生唾を飲み込んだ時だった。


「そう、ね。良い家族とは言えなかったのでしょうね、やっぱり」


 笠松さんが腹の底に溜まったものを吐き出すように話し始めた。


「うちはさ、いわゆる核家族ってやつで、私と親2人で生活してるのよね」


 最初の一言を口に出せば、もう止めるものがないようで、笠松さんは何処かやり切ったような、それでいて過去の自分を笑うような顔で言葉を紡ぐ。


「それで、まぁ何というか、一言で言うなら一緒にいると諍いが絶えなかった家族って言うのが正しい気がする」

「つまり、家族喧嘩が多かった、と」


 僕の言葉に笠松さんは頷いて、それから「今はそうでもないけど」と付け足した。


「うちは共働きで、昔は——私が幼稚園とか小学校低学年くらいの頃は忙しかったらしくて、抱えたストレスのせいでお互いに八つ当たりしてたのよ」


 なんとなく、笠松さんが置かれた環境が想像できる。親がお互いにいがみ合って、言い争いが絶えない家庭。うん、想像するだけでも嫌だ。


「だけど、なんでかしらね、それでも家族っぽく振る舞おうとしてたのよ、あの人たちは。ほんと馬鹿みたいよね」

「きっと笠松さんに対して罪悪感があったんだと思うよ。だからご両親は必死で、家族であることを取り繕うことにしたんじゃまいかな」

「どーかしらね。映画館やら水族館やらに行って、空気を最悪にしまくってたあの人たちに、そんな愛情があったようには見えなかったけど」


 そう言いながら、疲れたように笑うのが痛々しい。きっともう、家族に対して悲しむことも、嫌がることも、もう彼女は辞めてしまったのだ。


「家族と出かける時はいつだって親の顔色伺って、冷や冷やしながら過ごしてた。何が空気を悪くする火種になるか分からなかったもの」


 なるほど、道理で得心がいった。熱帯魚の時やハーバリウムの時、笠松さんが頑なだったのは過去の経験があったからだったんだ。幼い頃の経験が笠松さんを縛り上げ、苛み続けているんだ。

 そう、だから、笠松さんは親に悲しんだり、嫌悪を向けなくなったけど、親を霧スレてはいない。むしろ親に対する執着はいっとう強いんじゃないだろうか。 

 だって、どうでも良かったりしたら、10年くらい前に身に染みついた忌まわしい習慣をとうにやめているだろうから。やめないってことは、まだ期待してる彼女の本心が垣間見える。親にとってであれば、仲の良い家族や愛情が手に入ると祈っている。


「笠松さんは、さ。まだ追い求めてるの? 仲の良かった家族とか、貰えなかった愛情とか」

「……そうね、してるわね」

「でも、今は昔みたいに喧嘩ばかりしてるわけじゃないでしょ? だったら――」


 「――だったら、求める必要なんてないんじゃない?」と続けようとした僕は、笠松さんによって遮られる。


「違うのよ。私が求めてるのはね、過去に得られなかった愛情なの」

「過去に得られなかった愛情?」

「あの頃の子供に向けられる混じりっ気のない愛情を、私は求めているのよ」 


 馬鹿みたいでしょ、とそんな風に笠松さんは自嘲する。分かっているわけだ、彼女は。自分自身がやっていることが、無為であることが。

 もう彼女は子供ではなくて、子供に向けられるような愛情を向けられることは二度とない。だから手を伸ばしても、伸ばしても、その手は宙を切り続ける。求めているものは、もう二度と戻れない過去の産物で、どれだけ渇望してもその渇きが一生満たされることはない。

 そしてそんな願望に縋り付くことを、きっと彼女は虚しさと呼んだんだろう。

 喫茶店で聞いた、いつかのフレーズが思い出される。

 虚しさとは目を背けられないほどに強い欲求にしか感じないもの。手に入らないと分かっていながら、それでも求め続けてしまう彼女はまさに言葉の通り、目を背けられていない。

 そう、だからこれが、


「笠松さんが抱える虚しさの正体ってことだよね」


 僕の断定に笠松さんは何も言わなかった。

 沈黙が肯定だった。否定の言葉を積み上げないのが、過去の言葉から推測した僕の結論を認めていた。

 「まじかる☆まじかる」に良い顔をしなかった理由も今なら分かる。家族によって救われる、なんて笠松さんの神経を逆なでするようなものだ。気に入らないのも当然だろう。


「欲しがらない方が楽なのは分かってる。でも、それが出来ないから、私はなのよ」


 袋小路を嘆く言葉は、虚空に溶けた。どうしようもない自分に対する諦めと、焦がれるような熱が籠った声色だった。 

 ピーっと、空気をつんざくホイッスルの音が聞こえる。ショーには、シャチが登場し、イルカ以上の巨体でダイナミックなショーを見せている。

 シャチがプールの観客席側で、やたらと大げさに泳ぐと波がプールの淵を飛び越えて、青いカッパを被った観客たちにかかった。

 なるほど、あの看板はそういうことだったのか。そうしてぐるっとプールを一蹴したシャチは、観客席側の中ステージに跳び乗って水族館のスタッフから魚を貰い、なでられている。

 そんな様子を見ながら、笠松さんは呟く。


「シャチとかイルカは良いわね。あんなに飼育員さんに愛されて」

「笠松さんだって、愛される存在になってみればいいじゃない。友達作ったりさ」

「イヤ。友達とか、そういうのから向けられる親愛は私の求めてるモノじゃないもの」


 羨ましがったり、拒否してみたり、忙しい。中々難しい人だ。分かってはいたけども。


「じゃあ、笠松さんはどんな愛情が欲しいのさ。子供に向けられる愛情とは言うけど、具体的に」

「親が子供に注ぐような愛情。子供という唯一の存在に対してのみ向けられる特別な無償の愛」


 それは、また、なんとも厳しいことで。確かに友達程度の結びつきじゃあ、笠松さんは満たされない。

 特に、これはハーバリウム作りで分かったことだけど、彼女には完璧主義な面がある。より正確には凝り性というべきかもしれないが。彼女は妥協を許さない。たかだか――というのは怒られてしまうかもしれないけれど――ハーバリウム作りも、僕ならなぁなぁで済ませてしまいそうな部分を決して手を抜かずに細部を作りこんでいた。

 そんな細かな部分も見過ごせない、ある種の潔癖さのせいで、友達が向けてくれる親愛の情は中途半端に思えるんだろう。だから友達なんて作ったら、中途半端な慰めで今の自分が余計に惨めになるだけだ。普段の狂犬と言われる振る舞いの本質は、友達を作らないようにするためだと今なら分かる。

 ピ、ピ、ピとリズミカルに鳴るホイッスルに合わせて、跳ねたイルカが高い位置にあるバルーンを尾びれで蹴る。いつの間にかシャチはいなくなっていた。どうやらシャチとイルカは交互にショーを披露してくれるらしい。

 昔はどんな感じだったんだろう。気になって笠松さんに問おうと思ったら、彼女にとって子供の頃の思い出は嫌なものだったと思い出す。

 そして今さらながらに、自分のやったことが見当違いだったことに思い至った。


「ごめんね」

「急に何。気持ち悪い」

「いや、僕が笠松さんにやってきたことってさ、結局何の解決にもなってなかったわけでしょ。映画館も、水族館も、笠松さんにとっては嫌な思い出が詰まった場所なわけなんだし……虚しさを解消させるには逆効果だったなって」

「…………別に、貴方に責任はないわよ。だって――」

「だって?」

「――行先は私が決めたわけだし」


 あぁ、そっか、そういえばそうだった。映画館も、水族館も、笠松さんからの提案だった。

 だったら、つまり、


「もしかして、わざと?」

「そうよ。私が一向に変わらなければ、貴方も諦めると思って」

「……だったら、来なければ良かったんじゃない?」

「屋上の秘密を握ってるくせに良く言うわよ」

「もう僕が、それを交渉カードに使う気がないこと分かってるでしょ」

「…………」


 少し意地悪なことを言うと、笠松さんは恨めし気にこちらを見てきた。

 はは。どうやら僕がやってきたことも、あながち無意味じゃなかったらしい。

 ——よし。

 

「じゃあさ、今度は家族との嫌な思い出を忘れるくらい、楽しい思い出を作らない?」


 提案した途端、笠松さんが信じられないものを見るような顔をする。

 窺うように笠松さんは僕に問う。


「……誰と誰で?」

「僕と笠松さんで」


 人差し指で僕と笠松さんを交互に差す。笠松さんは堪えきれなくなった様子で、溜息を吐いた。


「まったく、貴方って人は……」


 どうしようもないものを見るような目で見られてしまった。

 なんだか、言いたいことが上手く伝わってない気がする。


「例え笠松さんがさ、僕のことを諦めさせようと思っていても、僕はそう簡単には折れないよ」

「いや、私が言いたいのはそういうことじゃ――はぁ、もうめんどくさいわ、ったく」


 笠松さんはくたびれた様子で、膝の上に頬杖を突く。ほんの少しばかりの時間を置いて、ぼそっと呟く。


「無駄だと思うわよ。それでもやるの?」


 僕はそれに力強く答える。


「やる。


 返事に躊躇いはない。困難だからこそ、やり続ける価値があるって、心の底から思ってる。

 揺るがない僕の意志に笠松さんはこう答えた。


「じゃあ、もう少しだけ付き合ってあげるわよ」

 

 その声は、ほんの少し、ほんの少しだけ、弾んでいるように聞こえた。

 プールでは、ウェットスーツの女性が最初の立ち位置に立って深いお辞儀をしていた。プールではイルカとシャチが、胸ビレで水面を叩いている。人間で言うところの手を振っている動作のつもりだろう。いつの間にかイルカショーは終わってしまったようだった。

 ショーが終わり、用がなくなった観客たちは各々席を立つ。一体感を失い、弛緩した空気の中で、僕らはしばらく無言のまま座り続けていた。

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