37. 前を向き、共に進め

 長い腕に包まれながら、もぞもぞと動き彼を見つめる。くっつきそうなほど近い距離で彼を見て、とくとくと穏やかに鼓動が早まる。


「朔夜。あのね、さっき麻田さんから、伯父さんがグループを乗っ取ったことについて聞いたの」


 彼は頷き、口を開いた。彼の声に合わせて、あたたかな胸が振動する。


「伯父が鴻グループを狙っているのはわかっていたけど、ここまで急に話が進むとは思わなかった」

「朔夜はこれからどうするの。ご両親や望夢君はどうするんだろう」

「俺はどうせ家を出る予定だったから。ただ、望夢がな。いくら資産があるとはいえ、会社がなくなった以上、今までのような『鴻家』ではいられない。そんな家を望夢がわざわざ継ぐ意味があるのかな、とは思う」


 鴻家そのものは残る。となると、社交界にはそのまま居続けるのだろうか。もしそうだとしたら、望夢君にとって社交の場は地獄でしかない。

 「新・鴻グループ総帥」も社交界に食い込むだろうから。

 だからといってあのお坊ちゃんが、たとえば平山さんと家を出て長屋暮らしをする、というのは難しい気がする。


 そこで、一つの案が思い浮かぶ。


 そうだ。そうなってくれれば嬉しい。でも彼らが背負うリスクが大きすぎる。

 もしうまくいかなければ、私だけでなく皆が不幸になってしまう。

 では彼ら以外ならいいのか。そんなことはない。

 だとしたら、そんなことを考えてしまう私にはやはり無理なのか……。


 ぎゅう、と朔夜の腕に力が入る。

 いつの間にか俯いて考え込んでいた。彼の顔を見ると、困ったような微笑を浮かべている。

 私の頬に触れ、そっと撫でる。滑らかな指が頬を滑る感触に、とくり、と心臓が甘い鳴き声をたてる。


「瑠奈が、そんなに難しい顔をして考え込まなくてもいいんだよ」


 優しい声を聞いて、つい甘えが出てきそうになる。そんなんじゃだめだ、と頑張って顔を引き締めると、今度は頭をぽんぽんと軽く叩かれた。


 もう。なんなのよさっきから一体。

 人が真剣に考えているのに。そんなことをされたら、胸の中が蜂蜜でいっぱいになって苦しいんですけど。


「そういえば、瑠奈のほうはどうなの。起業、うまくいきそうかな」


 そのくせ話す内容は真面目なんだから混乱する。とりあえず話の内容の方に意識を集中して、引き締めた顔を維持した。


「まあまあ、かな。いきなり『魔法のエンジン』は売り込めないから、まずは小さな機械部品を作る工場から始めるの。大きな工場では請け負ってもらえない小ロット生産に対応します、という売り文句で――」


 廃工場や中古の機械が入手できそうなこと、取引先候補として手を上げてくれた会社がいくつかあることなどを話す。

 以前、社長に連れて行ってもらった経営者交流会での繋がりが、こんなふうに花開くとは思わなかった。


 思ったより好調に物事は進んでいるが、大きな問題が二つ残っている。

 一つ目は資金不足。小娘相手にお金を貸してくれる人はなかなかない。

 そして二つ目は。


「ところで瑠奈。それ全部、自分一人でやるつもりじゃないよね」

「え、っと」

「どう考えても、その規模を一人でこなすのは無理だろ。そのうえ十和田さんの工場で罐焚きも続けるなんて現実的じゃない。何人くらい雇う予定なの」

「ええ、とお」


 そう。それが最大の問題なのだ。

 人を雇う。それは自動的に、私がその人の生活を背負うことになる。絶対に人が必要なのはわかっているのだが、どうしてもあと一歩が――。


「瑠奈、俺もその会社で働きたい」

 

 朔夜の声に、思わずびくりと体を震わせてしまった。


 この人は今、思考を読み取り、私が密かに願っては頭の中から消し去っていたことを、すくい上げたのだろうか。


「俺は瑠奈みたいに働いたこともないし、情けないけど力もない。だけど瑠奈を支えたいし、困っているなら救いたいんだ」

「あ……ありがとう。凄く嬉しい。本音を言うと、そうしてくれたら凄くありがたい。でもね、それはやっぱりだめだよ。軌道に乗ってからならともかく、最初は苦労も多いだろうし、リスクだって」

「だから。その苦労やリスクを、どうして瑠奈が一人で背負わなきゃならないんだよ」


 そう言って私から体を離し、両腕を強く掴んだ。

 真正面から見る彼の瞳はまっすぐで強く、新月の夜空に似ている。

 こっくりと深い色の中、無数の星が眩いほどに煌めいている、新月の夜空に。


「わかってよ。瑠奈が苦しんでいたら俺だって苦しいんだ。だけど苦労を共に背負えば、半分ずつになる。だったらそのほうがいいじゃないか」

「そ、れはそうだけど……。じゃあ、本当に申し訳ないのだけど、大学の勉強の合間に手伝ってもらっていいかな」

「いや。大学なら申請すれば夜学に変更できるから、普通に働く」

 

 当たり前のようにそんなことを言う。

 朔夜に私みたいな思いをさせたくない、と首を横に振ったら、両方の頬を手で挟まれ、押さえつけられてしまった。


「俺、今まで瑠奈より月例試験の点数が良いことが多かったし、首席にもなれた。でも、ずっと自分は『負け』だと思っていたんだ。だから今度は俺が仕事と勉強を両立する。そうして大学を卒業できたら、ようやく『負けていない』って思える気がするんだよ」


 いつも教室で見せていた、あの、煽る時の笑顔を見せる。


「瑠奈。俺、今度こそ勝つからな」


 彼の笑顔を受け止める。

 その笑顔の奥にある本当の心を受け止める。

 覚悟を決める。


「ありがとう。じゃあ、私と一緒に苦労を背負ってもらえますか」


 彼の手が頬から離れる。

 ベッドの上で互いに姿勢を正し、握手を交わす。




 その後、書斎に移ってこれからのことを話し合った。

 話し合えば合うほど、互いに同じ方向を向いているのだとわかる。

 一人で背負い込んでいた時と違い、悩むときも下を向かず前を向ける。


 そうして一つの結論が出た。




「ねえさま。こんな日に離れ家まで僕を呼び出すとか、なんなの。しかもなんで伝声管じゃなくて母屋直通の手紙なの。そしてこの差出人は何」


 ぷりぷりと怒りながら望夢君が来た。勿論、平山さんとはしっかり手を繋いでいる。


「すみませんねえ。でもいいじゃないですか速達と違ってタダだし。いやあ、同じ家の中で気送管を使って手紙を出せるんだあ、って面白くなっちゃって」


 もし彼がご両親と大事な話をしていた場合、伝声管だとお邪魔かな、と思って手紙にしたのだが、わざわざそんなことを言う必要はないだろう。


「それはいいんだよ。そうじゃなくて差出人! 『あねより』って、なんで『姐』っていう字なの。まだ『姐』だと思っていたなんてびっくりだよ。僕は『姉』の前に一文字つく方のつもりで呼んでいるのに。ねえ兄様。なんでこんな鈍い女が好きなんだよう」


 望夢君が何やらよくわからないことで怒っている。それでもそんな彼を見てほっとした。

 怒る姿が楽しそうだからだ。

 よく見ると彼の顔色は悪く、目元は真っ赤に腫れあがっている。


 彼はひとしきりぷりぷりした後、すう、と顔から感情が引いていった。

 平山さんと繋いでいない方の手が、微かに震える。


「――実は僕、鴻家を出たいんだ」


 平山さんと見つめ合い、私たちに視線を移す。


「甘い考えなのはわかっている。逃げ出せる立場じゃないのもわかっている。でも」


 全身を震わせている。その小さな体を、平山さんがしっかりと支えていた。


 その様子を見て、私と朔夜は頷きあう。

 先ほどの話し合いで、私から話すと決めていた。だから口を開く。


「ここに来てもらったのは、もし望夢君が本当の本気で『鴻家を出たい」と思っているなら、ある提案をしたかったから、なんです」


 不思議そうな顔をした彼を覗き込む。


「いかがでしょう。もしよければ私たちと一緒に、この蒸気時代を変える会社をおこしませんか」

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