29. 食卓の戦い(1)
少し欠けた月が夜空を支配する頃、私は異国の宮殿のような母屋に足を踏み入れた。
服装は学校へ行く時と同じ、制服に作業靴だ。麻田さんから伝言を受けた後、一度家へ帰って着替えた。
朔夜は食事や勉強など、シーンに合わせて一日に何度も着替える。しかし私は「普段着」「作業服」「制服」しか持っていない。だからこういう場では制服を着るしかない。
エントランスには大量の電灯が
大理石をふんだんに使った、重厚なつくりのお屋敷だ。床や壁、装飾のひとつひとつが私を威圧してくる。
建物自体は、おそらく百年くらい前のものなのだろう。異国の古典的な様式を新たに解釈して作り上げられた、当時流行していた様式で建てられている。
朔夜と二人、眩いエントランスを抜ける。
微かな靴音と衣擦れの音が響く。私たち以外は誰もいないように見えるのに、四方八方から視線が飛んできているような気がする。
この鋭い棘のような視線、空気は気のせいか。
朔夜が私を見た。
心配そうな彼に向かって、大きな笑顔を見せる。
拳を握る。
これがもし「普通の」夕食会だったら、私は緊張でがちがちになっていたことだろう。
そしてまともに喋れず、スカートを踏んづけて盛大に転んだりしたはずだ。
だが、この空気が却って私を冷静にさせた。
心の中で、そっと呟く。
負けるもんか。
通された小さな部屋では、朔夜のご両親と望夢君が椅子に座って待っていた。
お父様の視線が、びりびりと痺れるほどに痛い。お母様らしき人と望夢君は、私と目が合うと気まずそうに俯いた。
「このたびはお招きくださいまして、誠にありがとう存じます」
出来得る限り丁寧な礼の後、挨拶をする。初対面のお母様がいることもあり、「ありがとう存じます」の後に自己紹介をしようとしたら、お父様が大きく手を振って言葉を遮った。
「朔夜、改めて紹介しなさい」
「はい。今日はこのような時間を作ってくださり、ありがとうございます。彼女は私と交際をしている高梨 瑠奈さんです」
普段は「俺」なのに、父親の前では「私」なのか。
私なんか、父の前ではうっかりすると「あたし」になってしまうのに。
お父様は眉間に皺を寄せ、朔夜に向かって立て続けに質問をした。
その間、私たちは立ったままだ。そして私は一切話しかけられない。
「家はどこにある」
「
「両親の職業は」
「お父様は罐焚き夫をされていましたが、現在は入院中です。お母様は天に召されているそうです」
「それでどうやって高等中学の学費を払っているんだ」
「高梨さんは成績優秀者のみが申請できる、授業料全額免除の特待生なのです」
お父様の質問を聞いているうちに、重いもやもやがお腹に溜まる。
訊かれていることはどれも私の基本的な情報で、一つ一つは別にどうというものでもない。
とはいえ、私と面識がないも同然の状態で、こういう質問をいきなりしてくるのってどうなんだ。しかもなぜか朔夜に。
これが礼法の試験だったら落第だ。それを天下の「鴻総帥」がやっていいのか。
お母様らしき人に目を向ける。
望夢君の容姿はお母様似なのだな、と思う。
柔らかな金髪に白い肌。小柄で華奢で、初春のぬくもりのように儚げだ。
小さな体をさらに小さくして、時折困ったような表情でお父様を見ている。
「ふん。なるほど了解した」
お父様は鼻を鳴らして私を一瞥し、朔夜に向き直った。
「朔夜。お前はもうすぐ十八。いい大人だ。手近な人間の女と遊ぶことに関して、いちいち口を挟む気はない。だが万が一、将来を視野に入れた交際だというのであれば、その時点でお前は予備ですらなくなる、ということはわかっているんだろうな」
その言葉に、望夢君はびくりと身を震わせ、目を見開いてお父様を見た。
朔夜はお父様をまっすぐ見つめ、よく通る声を上げる。
「承知しております」
お父様の眉間の皺が更に深くなる。
なんの話をしているのかわからない。だが今は、到底質問ができる空気ではない。
僅かな沈黙が生まれる。そこへお母様が細い声でお父様に話しかけた。
「おそれいります。あの、お食事の時間が遅くなりますと、明日のお仕事に差し支えるかもしれませんわ」
その言葉で、ようやく食堂に移動することができた。
朔夜の両親と向かい合うように座る。
テーブルを見渡す。
奥歯を噛む。
お父様は口の片端を僅かに歪めて私を見た。
「君。このテーブルの上を見てどう思う」
その言葉を受けて、にっこりと笑う。
「とても素晴らしくて、感激しております。もし、このセッティングが鴻様のご提案によるものでしたら、大変嬉しゅう存じます」
朔夜が驚いたように私を見る。まあ、当然の反応だ。
白いテーブルクロスが掛けられた食卓。中央にある食卓花はマリーゴールド。その両脇には燭台。
帆船が描かれた
一見、よくあるセッティングだ。だが。
燭台の蝋燭には火が灯されていない。
これはおそらく、「私のことを、蝋燭の火を灯して歓迎する気はない」という意味だろう。
カトラリーはおそらくアルミニウム製。
朔夜が普段の食事で使っているのは銀や
そして、マリーゴールド。
食卓を彩る、可愛らしい花だ。しかし以前、朔夜と望夢君が交わしていた会話を考えると、マリーゴールドの「花言葉」を私に向けている、あるいは私がその意図を汲めるか試しているのだろう。
マリーゴールドの花言葉にはいろいろある。
有名なものでは、「悲しみ」そして「絶望」だ。
私はにこにこと食卓花に目を向けた。
「まあ、綺麗。マリーゴールドの花言葉には『勇者』というものがありますから、幾望国の経済を担う勇者、鴻家の食卓にぴったりですわ」
一瞬、「変わらぬ愛」の花言葉で照れてみる、というのも考えたが、鴻家を絡めれば、「絶望」云々をネタにしようがなくなる。
位置皿。これに悪意はない。おそらく、この意味でいいのだろう。
「こちらのお皿も素敵です。お屋敷と同じ時代の様式ですから、貿易業から発展した鴻グループを象徴されているのでしょうか」
鴻グループの歴史は、朔夜との雑談で少しかじっただけなのだが、物凄く知っているような雰囲気を出してみる。
そしてカトラリー。ここで触って素材を確認したらおしまいだ。明らかに不愉快そうな顔をしたお父様から発する空気を、完全に無視してひたすら喋りまくる。
「こんなにも精巧で美しいつくりのアルミニウムカトラリー、初めて見ました。まるで銀器のようです。縁飾りもお皿と同じ様式ですし、長い歴史と新しい素材が融合していて、趣深うございます」
ほう、なんてため息をついてみる。
テーブルの下で朔夜の手が動く気配がした。
ちらりと見る。テーブルの下で、ぐっ、と親指を立てていた。
そこで改めてお父様を見つめ、駄目押しのように微笑む。
さて。これからだ。
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