22. 恋は、とっても
「目から鱗が落ちる」という表現がある。その意味を、今、深く深く理解した。
目を覆っていた分厚い鱗が、ばこん、と取れる。
今まで世界の常識だと思っていたものは、実は様々な価値観の中の一つでしかなかったのだ。
「瑠奈、どうしたの」
私の様子がおかしかったのだろう。紅子が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「私、今まで自分は結構柔軟な考えをしている方だと思っていたの。でも、違った。世間でよく言われる常識を疑ったこともなかった」
自分の中の「常識」を思い浮かべる。
「お嬢様は働かない、経営者の長子は後を継ぐものだ、良家の子女は同じくらいの家柄の人と恋愛や結婚をする」
紅子がふっと微笑んで紅茶を口にした。
つられて私も飲む。色が濃く、渋みのあるしっかりとした味だ。
あの店で飲む紅茶と同じ味。お菓子の味を引き立てるための紅茶だ。
「そうね。そう考えると、私や私のまわりの人は、皆『常識外れ』ね。でも、私だって最初は『大学卒業後は婿を迎えて家庭に入る』と考えていたわ。それを壊したのは、恋人の存在」
大人っぽく微笑む紅子を見て、つい身を乗り出してしまう。
恋人が価値観を変えたのか。ということは、どんな甘い恋の話が聞けるのだろう。
わくわくしながら話の続きを待つ。
「だって、おかしいと思わない? あのお店、料理人は全員男性なのよ。家庭では女性が家事全般を担っているのに、料理を仕事として評価されているのは男性ばかりなんて変だわ」
甘さのかけらもない話に、がくっと来る。でもまあ、確かにそうだ。今まで気にしたこともないが。
「だから私は、花嫁学校ではなく、家事や育児といったものを科学的に学ぶ女学校を作るの。ゆくゆくは特定の分野を専門的に学べる職業学校も作りたいわ。でも、家で恋人と過ごすひとときも大事。この時間はしっかり取るわよ」
「凄いね。そこまで考えているんだ。でも、紅子とお婿さんが家業と関係ない仕事をすることを、よくご両親が許したね」
「ああ、手続きが大変だから籍は入れないの」
まるで「紅茶に砂糖は入れないの」みたいな口調でそんなことを言う。
ちょっと待て、それでは「大河内家」はどうするんだと言いかけた時、伝声管から音楽が流れてきた。ここは放送室から近いせいか、比較的音質がいい。
「まあ、お昼休みが終わっちゃうわ。ごめんなさい、私のことばかり話してしまって」
「ううん。凄く楽しかったよ。んで、なんというか、自分の足元がひっくり返るようなひとときだった」
休憩室を出ようとドアを開ける。その手を紅子に捕まれた。
美しい鼻を指で押さえ、視線を外に向ける。
「ちょっと、ちょっと待って。今、向こうの部屋から鴻さんが出てきたわ。……うん。離れたわね」
その仕草と話で、やはり、と思う。
紅子も人狼族なのだ。
「もう『開いて』も、鴻君の匂いと音はしない?」
この言葉の意図を汲んだのか、彼女は笑って頷いた。
「あのね、今日は私の夢の話がしたかったわけではないの。授業の前に、お伝えしたかったことを一言だけ」
華やかで美しい顔が間近に迫り、思わず引いてしまう。彼女の表情は真剣だった。
「瑠奈はとっても魅力的だわ。だから心ない声とかは気にしないで自信をもって。自分の本心に素直になって。そしてね、恋には相手をいとしいと思う心さえあればいいの。家柄とか種の違いなんて関係ないわ」
ふふっと笑って両腕を広げ、優雅にくるりと一回転する。
「恋は、とっても素敵なものよ」
授業が終わり、鞄と頭陀袋を抱えて席を立つ。
「身の程知らずが」
「学校の品位が落ちるわ」
「汚い」
一日が終わっても、私がぎりぎり聞こえるくらいの声で何かを言う人がいる。これ、明日も続くんだろうか。
教室を出る時、女生徒の一人が私の顔を見て口の端を歪めた。
「罐焚きのくせに図々しい」
お決まりの、ぎりぎり聞こえる声だ。でも私に話しかけてきているのを見てしまったのだから「会話」しないとね。
「そうね。私は『罐焚き』ですけれども、何をもって罐焚きの『くせに』なのかしら。図々しいって、何が? ごめんなさいね、私、『罐焚きのくせに図々しい』という言葉だけでは何を仰りたいのかわからないわ」
まさか私が声をかけてくるとは思わなかったのだろう。少し怯んでいるのがわかる。
ここで間を置くと加勢が入ってしまう。私は話題を変えた。
「昨晩、勤め先の社長と経営者交流会に行ったのですけれど、あなたのお父様もいらっしゃったわ。自動車用エンジンを製造する会社を経営されているのよね。私、全く新しいエンジンのアイデアを持っているので、もしよろしければ『十和田さんとこの高梨』のことをお伝えになってみてね」
これで本当に話が伝わればそれもよし。十中八九伝わらないだろうが、それでも「高梨は変な角度から言い返す」ということを見せられたからよし。
困惑したような表情を見せる彼女を放置して、工場へ向かう。
そして、来てしまった。この日が。
この日が、って、朔夜と一緒に勉強するだけなのだが、それでも朝から鼓動がおかしなことになっている。
どっくん、どっくん、と、心臓が血液を送り出す音のひとつひとつがやたらとうるさい。しかもこの鼓動、朔夜の顔を思い浮かべると、どこどこっと祭囃子の太鼓のような音に変わるのだ。
――おうちデート
紅子の言葉が脳内をぐるぐる回る。いやだから勉強だよ、と心の中で反論しても、紅子の声が脳を圧倒する。
普段の休日なら、顔と足をささっと拭くだけだが、近い距離で朔夜と二人になることを考え、全身綺麗に洗ってみる。
朔夜が来るから綺麗にしている、という事実を脳内で文字に起こし、それを読んで額から汗が出る。
髪を結う。象牙色のリボンを結ぶとき、また紅子の声がした。
――恋には相手をいとしいと思う心さえあればいいの
――恋は、とっても素敵なものよ
自分の心を改めて見つめなおす。
そうだ。私は今、恋をしているんだ。
家中掃除をし、金盥をしまったところで自動車の停まる音がした。
家を飛び出す。そこには、麻田さんに自動車のドアを開けてもらい、自分で荷物を抱えた朔夜がいた。
「それでは朔夜様、夕刻前にお迎えに上がります」
「えっ」
麻田さんは、驚いたような表情の朔夜を置いて、さっさと自動車に乗り込んだ。
「私は近くに住む知人に会ってまいりますので、あとはどうぞ、お二人でごゆっくりお過ごしください」
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