14. 「初デート」

 罐焚きの仕事はきついが、職場は気に入っている。とにかくいい人ばかりなのだ。

 「父が回復するまでの繋ぎ」として働いている上に、労働時間でわがままを言わせてもらっている私を、仲間の一人として可愛がってくれている。

 彼らに、いつかなんらかの形で恩返しをしたい。




「ご安全に!」


 皆との挨拶の後、着替えに向かう。そこで汽罐長が声を掛けてきた。


「どうした瑠奈ぼう。なんかいいことがあったんか」

「え、いやあ、どうしてですか」

「そんな空気が周りから出ているんだよ」

「あはは、なんですかそれ」


 汽罐長って人のことをよく見ているなあ、と思いつつ軽く流す。そこで彼は「あっ」と声を上げた。


「鴻のボンボンのことで、いいことがあったんだろ」

「えっ」


 「鴻のボンボン」の言葉が出てきた途端に頭から汗が噴き出す。動揺のせいで、顔のパーツを冷静な表情のときの位置に収められない。


「おっ、やっぱそうなんだな。おおかた試験の点数でボンボンを負かしたんだろ」


 どや、という表情で指さしてくる。思わぬ逃げ道を提示してもらい、私はほっとして笑顔を浮かべた。


「まあ、なんでしょう。では着替えてきますね」


 頭を下げ、走り出す。ボイラーの低い轟音に交じって、別のおっちゃんが話す声が微かに聞こえた。


「まあったく。汽罐長ってば鈍いっすねえ」




 緩みっぱなしの頬を両手でばしばし叩いて気合を入れ、帽子とゴーグル、手拭いを身に着ける。

 これで表情は隠れる。だが、内面のふわふわは止まらない。


 朔夜の家を出る前に、食事の約束をした。

 以前「休みの日に一緒に食事をしよう」という話をしていたが、それの具体的な日にちなどを決めたのだ。


 互いの都合により、割と満月に近い日になってしまった。とはいえ、どうせ私は正体を知っているし、麻田さんが自動車で送り迎えをしてくれるから、おおごとになることはないだろう。


 具体的な日程が決まると、「食事へ行く」ということの現実味が増してくる。

 ただ「休日に級友と飯屋へ行く」だけなのに、なぜか頬の緩みが止まらない。


 出かける前に、湯で髪と体を洗っておこう。以前、望夢君が「汗と石炭の臭いが染みついた女」と言っていたが、あれは嫌味ではなく、おそらく事実をそのまま言ったのだろうから。

 そうだ、いつもは帽子を被りやすいという理由でお下げ髪にしているが、他の女生徒みたいな結髪にしよう。あれ、リボンがなくても結えるんだろうか。

 スカートの裾がほつれていたな。ちゃんと直さなきゃ。

 どこの飯屋にするかは決めている。ちょっと風変わりな店だが、朔夜の口に合うだろうか。


 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 悩むこと、不安になること、手間をかけることが、こんなにわくわくするなんて。

 級友と、食事に行くだけだというのに。




 約束の日の前日、昼休みに握り飯を食べていると、紅子が私の席まで来た。

 小さな巾着袋を手に、周囲を見回しながら近づいてくる。


「瑠奈、今お話できるかしら」


 異国の女神像みたいな体を小さくして声を潜める。

 紅子の様子につられて私も周囲を見回す。今、教室にいるのは私と紅子だけだ。


「この間、マガレイトの結い方をお伝えしたでしょ。あれから上手に結えるようになったかしら」


 「マガレイト」というのは、普段紅子が結っている髪型の名前だ。情けない話だが、つい先日紅子に結髪のやりかたを教わった時、初めて知った。


「うん。あの時はありがとう。こんな髪だから紅子みたいに綺麗にまとまらないけど、形は作れるようになったよ」


 一本の三つ編みを折り込んで結うのは、想像したより簡単だった。だがやはり赤茶色をしたばさばさの髪では、見た目に限界がある。

 握り飯を掴んで汚れた手をハンカチで拭く。その目の前に、巾着袋を差し出された。


「これ、私も使っているものなのだけれど、もしご迷惑でなければお使いになって」


 促されるままに中身を取り出す。中に入っていたのは象牙色のレースのリボンと、黄金色の液体が入った小瓶だった。


「私、リボンを集めるのが趣味なの。でも象牙色は私の肌や髪に合わなくて。きっと瑠奈のほうが似合うと思うわ。あとこれは髪油よ。結髪の時にこうやってつけてから結うと、綺麗にまとまるの」


 そう言って小瓶の蓋を開ける。すると瓶の中から上品な花の香りがほのかに漂ってきた。


「ほええ、いい香りい。……って、いやいやこんなに高級そうなもの、借りられないよ。申し訳ないって」

「お貸しするのではなくて差し上げるわ。リボンは私より瑠奈のほうが似合うし、髪油もたくさん持っているから気になさらないで。それに」


 小瓶の蓋を閉め、袋に戻す。


「この間瑠奈が言っていた『知人と昼食を食べに行く時に髪を結う』の『知人』って、鴻さんのことでしょ」


 可愛らしいウインクをして、袋を私の手の中に押し込む。


「や、いやいやそれは、いえいえいえいえ」

「うふふ。ほうら、わかりやすいのよう瑠奈は。クラスの他の子が気づいていないのが不思議なくらいだわ」


 紅子の声がだんだん大きくなる。それに気づいたのか、肩をすくめて口を押えていた。


「瑠奈、もしかして、そのお食事って『初デート』ということなのかしら」

「ほえっ!」


 私の十七年の人生の中で、無縁中の無縁だった言葉が耳に突き刺さって喉を通り抜け、変な叫び声が出る。


「ちちち違うし! そんなんじゃないし! てか朔……鴻君の名前がどうしてこうして今」

「あら、やはりそうだったのね」


 紅子の大きな目がきらきらと輝く。何がどうしてこうなったのかわからないけれど、とりあえず額から変な汗が流れ出す。


「いいじゃないの。素敵なことよ。あ、そうそう、それで話を元に戻すけれどね」


 戻すと言われても、もはや元がなんだったか頭の中身がぐるぐるでわからなくなっている。

 紅子が声を落とした。


「鴻さんって、、今流行している合成香料アルデヒドを使った髪油よりも、こういう花の香りを使ったもののほうがいいと思うわ」




 約束の日になった。

 ゆうべも仕事をしていたのだが、仕事をした実感がない。体が自動的に石炭を焚口たきぐちに入れていただけで、心はずっと綿あめの中を漂っているような感覚だった。


 髪にリボンを結ぶ。紅子の言葉を信じて、私に似合うと思い込むことにする。髪油のおかげで、反抗的な態度の枝毛や切れ毛は見事なまでに従順になった。


 明るい陽が差す一人きりの部屋の中で、笑顔を作ってみる。

 丁度その時、長屋の前に自動車の停まる音がした。

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