8月27日(土)レイニーブルー
今朝から雨が降っていた。雨は人の行動を鈍くさせる。とくにうちの母親がそれだ。
「買い物行ってきて。晩御飯の」
午前9時前、まだ寝ていた俺は、母親のその言葉で起こされた。
この年頃の男子高校生といえば反抗期の真っ只中で、寝ているところに用事を言いつけられて叩き起こされれば、「うるせーババア! 主婦なんだから主婦の仕事くらいテメーでちゃんとしろ! このアホタレ!」なんて言ってしまうアホもいるくらいだが、常日頃反抗期なんてダサいと思っている俺なので、そんなことは言わないし考えたことすらない。
むしろ親に感謝している。休日はついつい寝過ごしがちだが、昼間で寝ているとその日半日を損したような気分になるのを事前に防止してくれているのだから。たとえそれがお使いの命令だろうと、朝ちゃんと起こしてくれる母親には感謝の念しかない。
というわけで、朝起きて、トイレに入り、顔を洗い、口をゆすぎ、着替え、冷たい水を一杯飲み、母親から電子マネーのカードとエコバッグと買い出しのメモを受け取り、靴を履き、傘を持ち、いざ買い物へと出陣した。
しとしとと降る静かな雨だった。空にはまんべんなく薄雲が垂れ込み、かすかに薄く太陽の輪郭があった。湿度は高いが、雨のせいで気温は昨日よりぐっと下がって、時折吹くそよ風さえやけに冷たく感じられた。
近所のスーパーまでは徒歩約5分。自宅を出て北に向かうと、片側一車線の車道を超えた先に、一体化した幼稚園と小学校があり、そのすぐ横を歩いていくとすぐにスーパーが見えてくる。
スーパーは高級を自称しているが、自分たちで誇るほど店員のと食材の質が優れているわけでもなく、ただ古いことを伝統と歴史と言い換えているに過ぎないようなところで、つまりはどこにでもある普通のスーパーでしかなかった。
それでも近隣住民の暮らしの場には違いない。俺は店の入口で閉じた傘を傘立てに入れ、靴についた水をよく切ってから店の中へと入った。
この店はやけに明るい。雨の日は特に明るく感じる。昨今の節電が叫ばれる中、ここだけは頑なに照明を煌々とたき続けている。野菜コーナーでそれが顕著だ。食材の傷みや不出来や見栄えの悪さとかを光で誤魔化しているのだと俺は密かに睨んでいる。
買い物かごに商品を入れながら店内を周っていると、おそらくは俺と同じ境遇だろう人物に遭遇した。
タツミだ。
前に家に来たときや、コンビニで会ったときのようなラフな格好をしていた。両手で買い物かごを持っているのは、かごに商品がたくさん入っているのと、彼女自身の腕が細くしなやか過ぎるせいだろう。
店内の明るすぎる照明の中でも彼女の存在は一際明るかった。さすがは美少女といったところで、無機質な照明と違い、彼女が放つ明るさはなんとなく心が温められるような、そんな柔らかさを感じた。
さて、最近はずっとタツミの方から話しかけられてばかりだった。これでは男が廃る。今度は俺から話しかけるべきだ、と思ったのだが、いざ話しかけようと思っても、なんて話しかけていいのかわからなかった。
いや、普通に話しかければいい、そんなことはわかりきっているはずだが、なぜかそれができなかった。普通に話しかけるということを普通に忘れてしまっていた。普通ってなんだったっけ?
俺はタツミの後ろを付いていってしまっていた。そうなってから二分経ったところで、自分のやっていることがストーカーチックであることに気付き、愕然としてしまった。
俺、かなり怪しいヤツなんじゃない? そこに気づくとは、やはり俺は天才か。本当に天才ならもっと早く気づくべきだし、なんなら、天才はそもそもそんな行動を起こさないだろう。つまり俺は天才には程遠い。
俺は立ち止まった。遠ざかる彼女の背を見るのも止めた。機を逸していた。もう諦めるしかなかった。
同級生の女の子にも話しかけられないなんて、自分で自分が信じられない。しかもただの顔見知りじゃない。最近はちょくちょく話していた仲だ。なのに自分からは話しかけられなかった。そんなことってある?
タツミに話しかけるってそんな勇気のいることか? ただの女の子じゃないか。少しばかり美人なだけで。俺と変わらないただの人間のはずだ。なのに、なぜ俺は躊躇ったんだ? タツミは俺にとってただの人間じゃないのか? たしかにタツミは美人だ。可愛い。よく話しかけてくれる唯一の女の子だ。だが、それって特別か? 特殊なことか? うん、結構特殊かもしれない。しかしタツミがスペシャルな女の子だからって、話しかけられないということはないだろう。ということは、スペシャルの中のスペシャルなのかも? タツミは俺にとって特別中の特殊な存在なのか……。
買い物途中なのに、店内の一角で佇んで、タツミのことで頭がいっぱいになっているときだった、
「わっ!」
後ろからいきなり背中をポンと叩かれた。
俺は夜の自室でゴキブリを見かけたよりも驚き、一歩前に飛び出し、華麗にターンして後ろを振り返った。
タツミだった。食材の集まった買い物かご片手に、いたずらっぽい笑顔を浮かべていた。
「よっす。マツザキくんも買い物?」
「お、おう……」
内心、敗北感があった。いつも向こうから話しかけられてばかりだ。タツミにはそれができて、俺にはそれができない。なんとなく非常に悔しい。
「ちょっとそこ、どいてくれない?」
「お、おう……」
タツミは俺のすぐそばの棚にあった竹輪を取って自分のかごに入れた。
「はい、あとこれ」
続いて、タツミは自分のかごにあったジュースを俺のかごに入れた。
「これ、美味しいんだよ~。気に入ったらまた今度奢ってあげるね。じゃ、私急いでるからまたね!」
「お、おう、またな……」
早足でレジの方へ去ってゆくタツミを見送った。俺も大体の買うものは既に揃っていたので、最後の一品を探してから俺もレジの方へ向かった。レジには小さな列ができていて、タツミは俺の隣のレジで会計途中だった。こっちのレジは店員の練度の違いか隣よりスムーズで、タツミがサッカー台で買ったものをエコバッグに詰めている頃には俺も追いついていた。それでも少しだけ彼女のほうが早く店を後にした。
「またね」
「またな」
今日、タツミと交わした最後の言葉だった。タツミはエコバッグを二つも抱えてスーパーを出ていった。
ぱんぱんに膨らんだエコバッグを持ってスーパーを出ると、雨は止んでいた。薄く張り詰めていた雲間に切れ目が生まれ、ところどころに青い空が見え隠れしていた。
スーパーをすぐ出たところで、駐車場にタツミの姿を見た。知らない男と一緒にいた。おっさんだ。おっさんは言い過ぎにしても、俺たちとは世代が違う。10かそれ以上年上だ。
二人は親しげな笑顔と楽しげな言葉を交わしていた。男がタツミからエコバッグを受け取り、愛車のフロントのトランクへ入れた。愛車は馬のマークのポルポルくんだ。が、ポルポルのトランクは小さいので、入り切らなかった一方は手に持って運転席へと乗り込み、先に助手席に座っていたタツミの膝下に申し訳無さそうにのせていた。その仲睦まじげな様子を、俺は歩きながらずっと眺めていた。
「不潔だな」
思いもよらない言葉が思わず口から飛び出してしまった。なんだか胸がムカムカしていた。きっと気候のせいだ。俺はそう決めつけた。気持ちを和らげるためにエコバッグからタツミオススメのジュースを取り出して飲んでみた。よく冷えていたがあまり美味しくなかった。本当は美味しいはずなのだが、なぜか今はそう思いたくなかった。
ジュースを飲みながら家路を辿った。家に帰るまでにジュースを飲みきってしまった。ヤケジュースだった。それはきっとタツミのせいだ。きっとタツミが、俺にとって特別過ぎるからだろう。認めたくないし、あまり考えたくないことだが……。
「よりによっておっさんかよ」
家の玄関ドアを開けたとき、ふとそんなことを口にした。自分で自分がイヤになった。そして、気が付いた。
あ、傘を忘れた。
これもきっとタツミのせいだ。
店内の照明に照らされたタツミの笑顔が頭の中に浮かんできた。おっさん相手には似合わないし、もったいないほどの爽やかなあの笑顔が。
それがなぜかやけに俺の心に突き刺さる。
勘弁してくれ……。俺はつくづくそう思った。
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