8月25日(木)噂のタツミ

 二学期の始まりは雨だった。

 夏の雨は最悪だ。濡れる上にとても蒸し暑い。そんな中をかっぱを羽織ってチャリで40分かけて登校するのは苦痛の極みだ。しかしそれが学生というやつなのだ。いや、学生でなくとも、俺と同じ境遇の人間は山ほどいるに違いない。とどのつまり、これも人間の営みの一部ということか。


 いくらかっぱを羽織ったからといっても、学校につく頃には手も足も濡れ尽くしている。手はまだいいが、靴下が濡れるのもこれまた不快だった。基本的に、雨は不快なものなのだ。俺は下駄箱の前で靴下を脱いで、適当なポリ袋に入れ、下駄箱の中にしまった。


 教室に入ると、そこは天国だった。エアコンが点いている、それだけで天国だと思えるくらい、今朝は地獄の登校だった。


 自席について、ようやく一息ついた。休みながら周りを見渡した。久しぶりな顔がたくさんいた。そうでないのもそこそこいた。そうでない内の一人が、話しかけてきた。


「おっす」


「おっす」


 クラスメイトのタケウチだ。とりたてて特徴のない、どこにでもいる男子高校生だが、それだけに人間性に角とクセがなく、とても付き合いやすい。誰とでも友達になれるタイプだが、誰とでもそこそこでしか付き合わなさそうな、そんな男だ。


「久しぶりじゃん? 元気してた?」


 タケウチが言った。彼はそう言うが、俺としてはそこまで久しぶりという感じはしなかった。彼とは二週間前に会って遊んだばかりだった。彼の他に、イシダとカワナを交えた四人で適当に飯を食って街をうろついた。


「元気だよ。そっちは?」


「俺のことなんてどうでもいいだろぉ? 俺が知りたいのお前の元気の秘密だよ」


 タケウチがニヤニヤ笑って言う。意味深な笑みだ。


「元気の秘密ぅ? そりゃ快食快眠快便だ。お前、ちゃんと朝食ってるか? 朝食わないと力出ないぜ?」


「それだけじゃないだろぉ? 聞いたぜぃ? お前、昨日タツミさんと一緒だったらしいじゃん?」


 ニヤニヤ笑いの意味がわかった。なるほど、そういうことか。思春期男子高校生にとって、男女が話すという至極単純なことにも、非常な興味をそそられるらしい。ま、俺も思春期男子高校生だから気持ちはよくわかる。というか、逆の立場なら俺だって興味津々だったかもしれない。


「一緒っていうほど一緒にいたわけじゃない。昨日夏期講習が終わった後、ちょっと話しただけだよ」


「くぅ、うらやましいねぃ! 俺だってタツミさんと話してーよぉ!」


「何言ってんだよ。今の聞かれたらマズいんじゃないの?」


 俺は視線を斜め前に向けた。クラス委員長のセリザワさんの背を見た。赤いフレームのメガネをかけた素朴で可愛らしい女の子。タケウチとセリザワさんは付き合っているはずだった。しかし、セリザワさんはこちらを一切気にすることなく、むしろあえて無視するように背を向けて、周りの女子と楽しそうに会話に興じていた。


 視線を再びタケウチに戻すと、彼は悲しそうに拗ねたような顔をしていた。


「フられたよ……」


 一言、ポツリと悲しげに、不満げに、それでいて、自虐気味に寂しげな笑い混じりに言った。

 何と言っていいかわからず、俺は目で「ご愁傷さま……」と言うしかなかった。


「だからお前が羨ましいよぉ~。なんてたって、あのタツミさんだろぉ~? いいなぁ~。もうキスとかした? Bまでいった? それとももう大人の階段登った!? お前はもうシンデレラなのか!?」


 タケウチは急に元気になって言った。どうやら心の傷はそこまで深くないらしい。もしくは切り替えが早いのか。いや、むしろ傷が深すぎて壊れかけているのか。なんにせよ元気そうには見えるが。


「勘違いしてるな。俺とタツミは付き合ってない」


「えっ!? 仲睦まじげに話してたって聞いたぜ!?」


「仲睦まじげだったかは知らないけど、ただ話してただけ。そんな間柄じゃないよ」


「チッ、負けたぁ……」


 がっくり肩を落とすタケウチ。


「負けた……?」


 その言葉の意味がすぐにわかった。イシダとカワナが二人して教室に入ってきて、まっすぐこちらに向かってきた。


「おっす、マツザキ、タツミとキスしたんだって?」


 イシダが言った。


「おっす、マツザキ、タツミとBまでいったんだって?」


 カワナが言った。

 二人とも雨に濡れた前髪の下のニヤニヤ笑いが妙にヤな感じ。


「お前ら、急に来て一体なんだ?」


 俺は呆れながら言った。朝っぱらからド下ネタはさすがの俺でもキツイ。しかもそれが俺とタツミのことならなおさらだ。


「ごめんごめん、そんな不機嫌になんないでくれよ。ほら、フリスクやるからさ」


 イシダがポケットからフリスクを出してきた。ケースがやや濡れていた。中身も同様だった。濡れフリスクなんていらねぇ。丁重にお断りした。


「俺たちはただ、あの絶世の美少女タツミさんとマツザキがどこまで進んだのか気になって仕方なくて夜も眠れないことはないんだけど、ま、とにかくお前とタツミさんの馴れ初めが聞きたくてしょうがないんだ。できればキスとかBとかHの詳細を生々しく克明に語ってほしくもあるんだ。わかるだろ?」


 やけに真剣な顔をしてカワナが言った。このイシダとカワナのコンビは少しばかりイカレたところがある。そこが良いところでもあり面白いところでもあるのだが、気怠い雨の朝と下ネタの相性はあまり良くないのでご遠慮願いたい。


「さっき、タケウチにも言ったけど、俺とタツミは付き合ってないよ」


「ガチンコ!?」


「マジンコ!?」


 コンビは同時に驚愕の表情を浮かべた。ムンクの『叫び』みたいだった。それが二人並んでいる。こんなに面白いことはない。というか、そんな驚くことでもないだろ。


「じゃあ、キスは!? Bは!?」


「Hは!? その先のXXXは!?」


「付き合ってもないのにするわけないだろ。あと、その先のXXXってなんだよ。人類の知らない未知のステージか」


「しっかし、マツザキがこんなにヘタレだとは思わなかったよなぁ~。おかげで賭けが成立しねーよ」


 タケウチがつまんなさそーに言う。


「いやいや、待て待て、ヘタレってなんだよ。付き合ってないんだからヘタレもなにも……ん? 今、賭けって言ったか?」


「ああ、俺たち、マツザキがタツミさんとこの夏でどこまでイケるか賭けてたんだよ」


 イシダが言った。悪びれる様子はどこにもない。さも当然かのように言ってのけた。


「お前らってやつらは……」


 呆れるしかない。


「つーか、まだ付き合ってなかったんだな」


 カワナが言った。


「俺は知ってたぜ。だから俺、タツミさん狙ってみたりして!」


 タケウチが言った。


「やめとけって、眼中にねーよ」


 イシダが言った。


「やっぱ、そうだよなぁ。タツミさんが仲良く話してる男子なんて、マツザキ以外いないもんなぁ」


 タケウチは心底悔しそうにオーバーなリアクションを交えて言った。こいつは仕草や喋りが大げさで、見てる分には飽きない。


「ところでさ、なんで付き合わねーの? ひょっとしてタツミさんのこと好きじゃねーの?」


「えっ……」


 イシダの言葉に、俺はドキリとさせられた。


「そうそう、なんで付き合わないの?」


 カワナが追い打ちをかけてくる。


「いや、なんでって言われても……タツミからそんなこと言われてないし……」


「そりゃ女の子からは言い難いだろぉ。お前から言ってやんなきゃダメだって! そんなゆっくりやってっと、他の男にとられちゃうぜ? あんなにいい女の子なんだからさ! タツミさんもきっと――」


 タケウチの言葉はチャイムに中断された。チャイムと同時に先生が教室に入ってきた。始業式のために、俺たちは先生に先導され、教室を出て体育館に向かった。


 始業式の長い校長の挨拶の間、ずっとタツミのことを考えた。

 俺はタツミのことを好きなんだろうか? 自分でも確かなことはわからなかった。女子の中では一番好きだ。だが、それが恋愛的な意味なんだろうか? ただ仲がよくて、話ができるだけなんじゃないか? それが果たして恋愛なんだろうか?


 思えば、俺は恋愛をしたことがないのかもしれない。今まで誰かに告白したりされたりしたことがなかった気がする。元々女の子が苦手だった。だから、女の子について深く考えたりすることもなかった。


 そういう意味では、タツミは他の女の子とは違った。彼女ほど近い距離の異性は母を除いて存在しない。タツミほど、俺の懐に入り込める女の子はいない。タツミといるとき、たしかに俺は幸せを感じていた。


 でも、それはそうなんじゃないか?

 タツミと楽しく話せば、男子なら誰でも幸せな気持ちになるんじゃないか?

 タツミ以外の女子でも、楽しく話せれば俺は幸せな気持ちになるんじゃないか?


 俺の気持ちはタツミにだけ向いているだろうか? 今はタツミに向いていたとしても、タツミ以外の女の子に話しかけられて同じ気持ちになるなら、それは恋愛と言えないだろう?


 始業式に限らず、今日の学校生活のほとんどをタツミについての思考で費やしてしまった。結局答えなんて出なかったし、考えが深化したわけでもなかった。ひたすらタツミという単語が頭の中を暴れまわっただけだった。あの笑顔、あの天真爛漫さが、頭にチラついては消えていった。全くウイルスのような女だ。人の心の中に入り込むだけならまだしも、頭の中で増殖するなんて。それでも嫌な気がしないのが、タツミウイルスの怖ろしいところだ。


 放課後、雨は止んだ。教室の窓の外に、曇り空を割って白い陽光が濡れた地上へと降り注がれていた。葉っぱが、水たまりが、濡れたありとあらゆるものがキラキラと輝いていた。気温が少し上昇傾向だったが爽やかな気分になれた。少なくとも、帰りにかっぱを着る必要はなくなったのが嬉しかった。


 下駄箱前で待ち伏せにあった。


「やっほ。一緒に帰ろ?」


 タツミだ。薄暗い下足室に差し込む陽光が彼女の顔に、鮮やかな印影を描いていた。下駄箱の前で小さな手を腰の上の低い位置でヒラヒラ振って俺に笑いかけていた。


 そのとき、俺は背中に気配を感じた。おそらくが見ている。おそらく思春期男子高校生にありがちな好奇心だろう。だが、俺はその視線に背中を押されたような気がした。


「ああ、いいよ。一緒に帰ろう」


 自分でも驚くくらい堂々と言えた。他にもこっちを見てるのが何人かいたが気にならなかった。


「良かったぁ! ねぇね、私、帰りに寄りたいところがあるんだけど……」


 俺とタツミは並んで歩きだした。ほんのわずかだけど、一歩前に進んだ気がした。

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