第3話

 少しだけ華やいだ玄関を上がった陽子さんは、エプロンのポケットからハンドタオルを取り出して框の上に置いた。俺に汚れを落とせという趣旨だろう。


 俺は毎朝「散歩」と称して、この「赤レンガ小道商店街」を見回る。探偵という商売は情報が命だ。街のちょっとした変化も見逃す訳にはいかない。だから店の一軒ずつを見て回り、変わった様子はないか確認する。それが俺の日課だ。


 今朝もいつもどおり「散歩」をした。その途中、ここの隣の「フラワーショップ高瀬」を覗くと、主人の高瀬邦夫さんが店先に並べたバケツの菊に、いつもどおり水をやっていた。俺が「おはよう、今朝も精が出るな」と挨拶すると、邦夫さんは身震いしてから呟いた。


「うう、一雨毎に少しずつ寒くなってくるな……」


「公子さんはどうした。いつもは二人で花を並べているじゃないか」


 と彼の奥さんの所在を尋ねてみると、邦夫さんはこちらを向いた。


「よう、桃か。おはよう。寒くなってきたのに、今朝も見回りかい」


「当然だ。悪党が秋思に耽って大人しくなる訳ではないからな。気は抜けない」


「桃が目を光らせていてくれるから、この街も平和だよ。毎朝、ご苦労様です」


 そう言って、邦夫さんは敬礼した。俺は警察官でもなければ軍人でもない。ただの探偵だ。探偵に敬礼は必要ないが、敬礼には敬礼だから、俺もとりあえず敬礼した。商店街で二人の民間人が向かい合い、敬礼している。奇妙だ。しかも、邦夫さんが左手に握っているホースの先から水が垂れて、俺の足に掛かっていた。冷たいぞ、邦夫さん! と文句は言わずに、俺は教えてやった。


「何か鳴っているぞ。電話じゃないか」


 敬礼をやめた邦夫さんは、再びバケツに水を入れ始めると、腰を叩きながら「こっちも腰が痛いんだけど、ま、お互いに五十も過ぎたし、無理させる訳にもいかないか」と息を漏らす。俺がもう一度「だから、電話だぞ。鳴っているぞ」と言うと、「ん? ああ、電話か。何の音かと思った」とバケツの中にホースを突っ込んで店の中に歩いていった。水は出しっ放しだった。この人はいつも水道の水を止め忘れる。


 俺が「おーい、また水が出たままだぞ」と教えると、邦夫さんは振り返り「ああ、水か。忘れてた、いかん、いかん」と慌てて蛇口の方に駆けていって、水を止めた。「電話も鳴っているぞ」と俺が言うと、「ん? ああ、そうだった、電話だった」と言って、また店の奥のカウンターまで走っていく。普段から呑気な人だが、今朝は何か変だ、と気に掛けて見ていると、邦夫さんは「公子が腰痛でね、病院に行っているんだ。何か忘れ物かな」と言いながら電話の子機を持ち上げた。なるほど、そういう事か。どおりで調子がおかしいと思った。一人だとこうなるんだな。納得した俺は「そりゃ大変だな、お大事に」と言って、濡れた足をプルプルと振ってから店を後にした。


 こんな具合に、見回りの際には何が起こるか分からない。汚れる事も多い。今朝は別に汚れた訳でもなく、水が足に掛かった程度だ。その後、濡れてぐちゅぐちゅの靴を履いて歩いた訳でもないし、濡れた足も疾うに乾いている。だが、陽子さんはきちんとした人だから、他人の家に上がる時は綺麗にしろとハンドタオルを置いたのだろう。俺は少し口を尖らせてそのタオルを取ると、汚れを落としてから、その家の玄関を上がった。


 暗い廊下を俺が先に進んだ。横のドアの向こうから声がする。


「こっちよ、左のドア」


 陽子さんがドアを開けた。


「失礼します。お弁当をお持ちしました」


 中は広い洋室だった。二十畳ほどはあるだろうか。北側のキッチンと続いているので、それ以上に広く感じた。


「悪いけど、中に入ってテーブルの上に置いてちょうだい」


 そう言ったのは、車椅子に座った白髪の老女だった。化粧は薄く、グレーのエプロンドレスに洒落たネックレスをしている。俺のネックレスの方がお洒落ではあったが、全体的に見てセンスがいい。


 その女は西の小さな庭を望むサッシを背にしていた。綺麗に生まれ変わった庭は家の影に覆われていて明るくはない。それでも、日光は通常どおり窓を貫けてくる。射し込んだ光は部屋のあちらこちらに飾られたガラスの板に反射して室内に散っていた。天井の照明もそれを後押しする。赤や緑、黄、青、白、そして鮮やかなオレンジ。さまざまな色をまとった光が室内を飛び回っていた。


 紅葉狩に来たような景色の室内を俺はテーブルの方へと歩いた。浮かれて歩いた訳ではないが、首のネックレスが音を鳴らす。その音を追うように、陽子さんは俺の後ろを歩いた。


 陽子さんが目を細めながら慎重にテーブルの上に弁当を置く様子を見て、女は尋ねた。


「そんなに眩しいかしら。電気を消しましょうか」


 陽子さんは首を横に振る。


「いえ、その……私、強い光が駄目で。目の病気で」


「あら、それは大変。私ったら、知らなくて。ごめんなさい」


 女は慌てて車椅子の向きを変えると、両肩を上げて車輪を回し、窓の端に束ねられたカーテンへと急いだ。俺も反対側の端へと向かい、白いレースを引く。光の入室を抑えられた室内は、それまでよりも幾分か落ち着いた明るさになった。


 女は奥のキッチンへと車椅子を移動させながら、俺と陽子さんにソファーに座るよう勧めた。陽子さんは弁当を配達に来ただけだと遠慮したが、女は紅茶のセットを並べたお盆を膝の上に載せて運んできた。陽子さんは戸惑いながらソファーに腰を下ろすと、俺に視線を送った。その視線に気付いた女は「気にしないで。彼のお噂は伺っているわ」と言って、俺にも座るよう促した。俺は少し警戒しながら、ソファーに座った。


 女は俺たちの前の低いガラス・テーブルの上にカップを並べた。陽子さんは慌てて腰を上げて手伝おうとしたが、女は制止して、陽子さんの前のカップに紅茶を注ぎ始めた。


 俺の前に置かれたカップには既に中身が注がれていた。


「カフェインは摂られないのでしょ」


 その通り。俺は牛乳しか飲まない。俺が頷くと、女は口角を上げた。俺は注意しながらカップに口を付けた。程よい温かさだった。俺が猫舌なのも知られていた。女は俺について調べ尽くしているようだった。


 紅茶を注ぎ終えた女は、陽子さんに言った。


「ごめんなさいね。お目の事は存じ上げなくて」


「いいえ。私の方が黙っていただけですから」


「失礼だけど、お目が悪いように見えませんけれど、どのくらいお見えにならないの?」


「視野の方が少し。込み入った所や暗い所とかも駄目で……」


「それは大変ね。配達をお願いして悪いことをしたわ」


「明るい時間なので大丈夫です。すぐ近所ですから、気にしないで下さい」


 陽子さんは進行性の目の病気だ。少しずつ見えなくなって、いずれは完全に失明してしまうらしい。それでも、今年から小学生になった一人娘の美歩ちゃんのために頑張っている。強い人だ。


 女はじっと陽子さんの顔を見つめたまま尋ねた。


「お一人なの」


「はい」


 陽子さんは、それ以上話さなかった。


 女は視線を落として「私と同じね」と呟くように言った後、「でも、あなたが羨ましいわ、立派な娘さんと頼もしい同居人さんもいらして」と微笑んだ。


 陽子さんは俺を一瞥して少し笑うと、「いただきます」と紅茶をすすった。なんで笑うんだ陽子さん、と言うのはやめて、俺はそのリビングの隣の南側の部屋に顔を向けた。その部屋の壁には、何枚もの肖像画が立て掛けられていた。柔らかいタッチと明るい色彩の絵だ。部屋の中央に置かれたイーゼルには、描きかけの絵が載せられている。色鮮やかな橋の上に立つ若い男女の絵だった。


 俺が「あんた、画家なのか」と言って女の方を向くと、隣から陽子さんが「これ、全部、琴平さんの作品なのですか」と尋ねた。


 どうやら、この女は琴平さんという人らしい。陽子さんはお弁当を配達に来たのだから、当然、名前くらいは知っている訳だが、俺は俺で、探偵として、この街に越してきた新参者については情報を得ておく必要がある。よし、覚えておこう。それにしても、何で表札を出してないんだ。それがあれば、俺も把握できていたのに。


 その時、俺が思ったのは、そのくらいのことだった。


 その時、陽子さんは目を細めてリビングの中を見回していた。


 確かに、部屋の中にはガラス細工の置物や、額にはめられたステンドグラス、色ガラスを繋ぎ合わせた花瓶などが多く置かれていた。どれも様々な色を反射させたり、奥に映し出したりしている。陽子さんには、やはりそれらが少しだけ眩しくて、目に付いたのかもしれない。俺がそう思って陽子さんの顔を観察していると、琴平さんが「私は画家よ」と答えた。陽子さんは怪訝そうな顔をしている。琴平さんは「ここにある作品は、私が買い集めた物よ。ただのコレクション。私の仕事場は、隣の部屋」と説明した。


 陽子さんは琴平さんの手の動きに気づいて、顔を南の部屋に向けた。陽子さんは、この時初めて南にもう一部屋ある事に気づいたようだった。すぐ近くの隣室に目を凝らしている陽子さんを見て、琴平さんは言った。


「置いてあるのは、どれも『マリー・ローランサン』の絵よ。お手本にしているの」


 陽子さんは、ふと思い出したらしく、


「ああ、たしか、フランスの画家ですよね。お好きなのですか」と尋ねた。


 琴平さんは少し驚いた顔で尋ね返す。


「あら、ローランサンをご存知なの」


「何とかっていう詩人の方と恋仲だった女流画家じゃありませんでしたっけ」


「ええ。アポリネール、『ギヨーム・アポリネール』よ。よくご存知ね」


「いえ、その人の詩を読んだことはないのですけど……」


 そう正直に答えた陽子さんに琴平さんは「彼の詩は大好きよ、素晴らしいわ」と少し興奮気味に言った後、今度は言葉を選びながら慎重に尋ねた。


「普通の大きさの活字を読むのは、やっぱり難儀でいらっしゃるのかしら」


「まあ、今のところは何とか読めています。時間は掛かってしまいますけど、本は好きですし、字の小さなものは、音声読書機とか使って……」


「でも、自由に読むのとは勝手が違うわね。ご不便なことでしょう」


 そう言いながら車椅子の向きを反転させた琴平さんは、壁際のサイドボードの上に置かれていた一冊の本を手に取った。


「アポリネールの詩は、そう長いものは無いし、印刷の文字も比較的大きいと思うわ。行間が開いているから、読み易くはないかしら」


 そう言いながら車椅子を動かした琴平さんは、陽子さんの手を取ると、その上に一冊の古い本を乗せた。陽子さんはそれを膝の上に移し、まじまじと見つめた。


 その古い本は表紙が皺だらけで酷く傷んでいた。深い割れ目を繋いだセロテープは黄ばんでいる。


 陽子さんはそのボロボロの詩集を顔に少し近づけて、丁寧に表紙を捲った。天井の電灯の光に合わせて角度を変えながら、ゆっくりと頁を捲っていく。


 琴平さんは陽子さんの顔を覗き込むように見ながら尋ねた。


「どう? お見えになられるかしら」


 陽子さんは顔をあげた。


「はい、何とか。これくらいなら、天眼鏡なしでも、読めそうです」


 琴平さんは胸を撫で下ろした。


「よかった。古い本で申し訳ないけど、お貸ししますわ。ゆっくりでいいから、お読みになって。温かくて優しい詩が多いから、外村さんのような方なら、きっとお好きになられるはずよ」


「有難うございます。大事に読ませてもらいます」


 琴平さんは微笑んで肯いた。


 俺は琴平さんに言ってみた。


「その、ロースハムという画家の画集はないのか。有れば、それを貸してくれ」


「外村さん、よかったら、時々、遊びに来てもらえないかしら。そちらのお暇な時で構わないから。私がここに居る間、お話し相手になってもらいたいの」


 完全に無視された。分かっている、ローランサンだろ。わざとボケてみただけだ、無視するな。と、心中で抗議しながら、俺は牛乳を飲んだ。琴平さんに目を向けると、彼女は陽子さんに期待に満ちた眼差しを向けていた。陽子さんは笑顔で「はい、私で良ければ」と答えてから、「でも、ここに居る間とおっしゃいますと、どこかに転居されるご予定なのですか」と尋ねた。


 琴平さんは静かに首を横に振った。


「私もこんな体でしょう、歳も歳だから近いうちに施設の方に入らないとも限らないわ」


 その発言を聞き慣れた社交辞令で否定するほど、陽子さんは不誠実ではなかった。しかし一方で、それを黙って聞き流すほど不人情な人でもない。陽子さんは肩を落としている老女に言った。


「お互い、時間がありませんね。だからこそ必至に生きないと。絵画の事などもいろいろと教えてください。私も元気が出るような気がしますので」


 琴平さんは微かに顔をほころばせた。


 俺は再び牛乳を飲んだ。陽子さんの顔を見ていられなかった。



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