第9話蜜柑

「——河合先生?どうかなさいました?」

「……っえ?いや……構わずに続けて」

私はうけもつクラスの女子生徒に呼ばれ、現在の状況を思い出し、続きを促した。

「そう、ですか……?では——」

彼女は訝しがりながらも、話を続けた。


視界の端に映る本棚——に収められる一冊の文庫本が集中を途切れさして、机を挟んだ正面の背筋を伸ばした少女の話題が脳内に入らないのだった。



♢♢♢♢♢


ギィギィ、と不気味な軋みを響かせながら、カビ臭さが僅かに漂う図書室の扉をスライドさせ、入室した私。

太陽の陽射しに当たり、読書に夢中な彼女は私の存在に気付くことなく、ページを捲る。

全ての窓が拳ひとつ分ほど開けられており、換気はなされている。

息苦しさを感じさせない空間に安堵した。

掃除が行き届いていない空間ではあったが、何故だか落ち着いた。


読書に夢中な少女の他に利用者はいない。貸出を担当する図書委員もカウンターから席を外しており、彼女と私の貸し切りであった。


少女の正面へと歩んでいき、目的とした位置につくなり、彼女の顔をおずおずと窺う。

三分が経過した頃に、彼女が開いた文庫本から顔を上げ、驚いた表情を浮かべた。

「河合さん……?河合、透杞……さん」

訊ねるようなイントネーションで呼ばれ、息を呑んだ私。

「しっ、知ってるの……?」

「三組の河合透杞さん、だよね?」

彼女が瞬きを繰り返しながら、左サイドの垂れた黒髪を耳にかけ、慎重に確認した。

彼女の声音が川のせせらぎだと思えるほどに静かで、返事が一拍ほど遅れた。

「……っ、はい。河合です。えっと……」

「そうだよね。私は、漣由奈です。一組だよ、クラスは」

察したように、少女が、漣由奈が、自己紹介をした。

椅子に腰を下ろしたままに、頭を控えめに下げながら。

「漣、さんは何を——」

「蜜柑……」

返答になっていないだろう単語を独り言かのような声量で発しながら、文庫本を開けたままに表紙を見せた彼女。

「……ミカン?芥川龍之介の作品に出てきたんですか……?」

私が訊ねると、何か気に障ったらしく眉を顰め顔を歪める。

それは一瞬で、微笑みを浮かべた表情に戻り、柔らかい声音で、「芥川龍之介の『蜜柑』ってタイトルの作品を読んでたって意味だよ」と返答した。

「漣さんの気に障ることを言ってしまってごめんなさい。あのっ……」

「ああ、いや……河合さんが謝ることはないよ。気にしないでよ、河合さん。さぁさぁ、座ってよ。それよりさ、河合さんって誰の読んでるの?」

「私は——」



「——あのっ、河合先生ってば、ほんとに聴いてますッ?」

「……えっと、ごめんなさい。もう一度、お願いしてもらえない?」

「はぁあーー!やっぱりそうでしたよ、聞いてないぃ〜。最近、うわの空ばっかでどうしたんです?河合先生らしくないですよ」

「ごめんなさい、林谷さん……」


林谷さんと対峙する空間が悪い。


ふぅー、と不機嫌な彼女に気付かれずに息を吐いた。

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