第10話 回復からの生活


「くっ、瘴気か……」


 少女を見るなり、レクサはこぼす。

 ソファーに横たわる十代前半とみられる少女の顔は青白く、ぐったりしており、肩を揺さぶるレクサに一切の反応を示さない。瘴気を帯びているのは額の左側。もうすぐ目元にまで瘴気が達しそうだ。


「瘴気に……仕入れから帰る途中で、孫は。アリィは、瘴気を帯びた魔物に襲われてしまったのです。メマの力では、こればかしはどうにも……」

「メマさん……」


 悔しそうに杖を持つ手が小刻みに震えている。千春からは少女――アリィの姿はレクサの背で隠れて見えないが、彼のトーンが、メマの声が、アリィの状態が悪く危険な状況であることを知らせている。

 瘴気で人々が苦しんでいるという話は聞いている。

 抗うことが出来ずに大切な人が苦しむ姿を見ていることしか出来ない無力さ、そして後悔。それが苦しいものだと分かっているつもりだった。


 命には限りがある。それを得体の知れない瘴気に奪われる。そんな悲しい世界、あってはならない。

 千春はメマから手を離し、無言でレクサの元へと向かう。そして苦しむ少女を前にする。

 呼吸は弱い。けれど、胸は動いている。


 この子は生きている。


 それなら千春にできることはひとつある。


「レクサさん。瘴気が無ければいいんですよね?」

「見たところ、瘴気以外の傷はない。瘴気を除けば体力も戻るはずだ」

「だったら――」


 千春は自分のヘアバンドをとり、レクサに見せつける。癖がついてしまった髪が乱れ落ちた。


「今朝急いで作ったものですけど、試してみる価値。あるんじゃないですか?」

「ふっ……流石だ」


 レクサはニヤリと笑い、千春の手を取った。



 ☆☆☆☆☆



「坊ちゃん、何を……?」


 たかがヘアバンドで何をするか検討もつかないメマが狼狽するのを無視するレクサ。唇を舐めて、アリィを蝕む瘴気を睨むと、瘴気の中央付近、最も瘴気が濃い箇所にヘアバンドを押し当てた。

 すると、瘴気はまるで生き物のように動き抗うが、水を吸うかのようにヘアバンドに吸われていく。


 可能性が見える。千春は隣で願うように指を組んで、成功するよう祈る。

 少女の傷は大きくなかった。瘴気もレクサの負った傷と比べればたいしたことは無い。だからこの程度の瘴気ならば、すぐに瘴気を消すことができると、二人は思っていた。


 しかし。


「チッ……」


 最初は黒いモヤがヘアバンドにより吸われているようだった。だがしかし、あらかた吸われた段階で、ヘアバンドが灰のように崩れていく。それは千春が手を加えていたあのカーテンに見られた――刺繍が焦げたような――のと同じようであった。


「そんな……」

「いや、上出来だ。瘴気は消える」


 レクサの言うとおり、ヘアバンドが灰に変わるまでに、瘴気は全て消え去った。

 すると、ぐったりしていたアリィが小さく呻き声をあげる。


「アリィ!」


 ほんのかすかな声を拾ったメマが、光の速さで移動すると、千春やレクサを押しのけて、少女の傍に寄る。


「おばぁ、ちゃ……」


 うっすらと開いた瞳。しばらくぶりに聞いた声だったのか、メマは大粒の涙を蓄えて力強くアリィを抱きしめる。


「もう、苦しいよ、おばぁちゃん」

「アリィ、アリィ……! あたしゃ、もう駄目だとばかりっ。お前が生きていることが信じられないよぅ」


 まるで映画のようなシーン。千春はうるっと目元を濡らす。


「よかったぁ……あの瘴気はもう、消えたんですよね?」

「ああ。念のため、全身治癒魔法かけておくか」


 メマからアリィを引きはがすと、レクサは自分を治した治癒魔法をアリィにも施した。そして最後に前髪をめくりあげ、額の傷を確認する。

 五センチほどの傷がふさがっているものの、わかる程度には傷跡が残ってしまった。しかし、アリィ本来の丸い瞳には活気がある。


「吐き気などはないか?」

「はい! まったく! 重かった頭も軽くて、空も飛べそうです! ありがとうございました、王子!」


 もともとアリィはイキイキとした明るい子のようだ。さっきまでの弱い姿が信じられないほどに、声を大にして言う。


「メマからもお礼をさせてください。坊ちゃん、本当に。ありがとうございます」


 にぎやかな声の傍で、床に額をこすりつけるぐらい頭を下げたメマ。大きな感謝が伝わる。


「俺の力ではない。こいつ……チハルの力だ。礼をするなら、チハルにしろ」


 レクサの声に視線が千春に集まる。突如現れたレクサの『婚約者』に救われた二人が、千春の手を握ってブンブンと大きく振る。肩が外れそうな勢いに困るも、元気が伝わってくるので拒否することもできない。


「おねーちゃん、ありがとう! おねーちゃん、すごいんだね!」

「メマはチハル様へ、お礼をしたいです。何かご所望であれば、おっしゃっていただければ、このメマ。培ったものを全てを活用しましょうぞ」


 どういたしまして、と言いながら千春はレクサを見る。困ったことに彼は何事もなかった素振りで壁際の棚を見て回っていた。


「ねえねえ、王子は何を探してるの? それになんでアリィの瘴気が消えたの? あと、王子のお仕事はサボっているんでしょー? ニールさんが困っちゃうよー?」

「ぎゃんぎゃん言うな。これも仕事の一環だ。まだ、研究段階だが瘴気を消すことができる可能性がたった。それだけだ。それに必要なものを買いに来た」

「ふぅん? むずかしーことはわかんないけど、必要なんだね! で、何が必要なの? 食品はないよ? 生産も収穫もまだ出来てないからね」


 アリィはソファーからぴょんっと飛び降りて、レクサの隣で言う。

 身長差があり、レクサが見下ろす形になるのだが、その目は怖くない。アリィのくだけた対応は常なのだろう。


「糸だ」

「イト? 糸? どんな?」

「どんな……? 知らん」

「えー。糸だっていっぱいあるよ。素材も色も太さも長さも。何に使うかで変わってくるよ。どの糸なの? 何に使うの? どれくらいいる? 何糸だろう? 在庫あるかな? 糸以外も必要? 針とかハサミとか。布も?」

「ま、待て。一気に言われても俺は……」


 アリィはガサガサと棚の引き出しを漁る。しかし、レクサは何がなんだかわかっていないために慌てふためいている。たまに見せるギャップに千春は顔が緩んだ。

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