第10話 放課後

 伊東からもらったお守りは、憎々しいことに、霊験あらたかだった。怪現象はぴたりと止み、久しぶりに静かな夜が訪れた。当たり前の日常が身に染みる。何かあっては煩わしいからとりあえず持ち歩いているが、存在を確認するたびにあの時のことが頭をよぎるので、それはそれでいい気持ちはしない。

「あくつ、なんかイライラしてる?」

「してない」

 声が素っ気なくなってしまうのが、我ながら子供っぽくて嫌だ。机に頭を預けると、ふああ、と緩くあくびが漏れる。

 怪現象は収まったけど。このところ、何かとままならない。

 とはいえ、私生活を鑑みて遠慮をしてくれるほど、世間は優しくない。時間は刻一刻と過ぎていき、目前には中間テストが迫っている。テスト期間だから部活はお休み。今は塾が始まるまでの暇を、こうして三人で持て余しているという具合だ。教室にはまばらに、同じように机を突き合わせて、勉強道具を開いている奴らがいる。

 このところ勉強に身が入っていなかったから、今回ばかりはいつもより気合を入れなければならない。じゃないとこいつらとつるむ資格を俺は失う。怪現象よりなにより、俺はそれが怖かった。塾の授業料はバカにならない。流行らない商店の倅の俺が塾に通えているのは、特待生の立場があるからだ。授業料免除の資格は、一定以上の成績の維持が必須となる。前回の模試でやらかしたので、俺には後がない。

「またなんかあった?」

「いや……朝まで親父に粘られただけ」

 重なるときは重なる、という奴なのか。あの日以来、部屋に籠ることが増えた俺を、親父が呼び出した。テスト前なんだけどと言えば、お前は勉強に逃げているだのと勝手を言う。それからは空が明らむまで小言の嵐だ。お前は自分さえよければいいと思ってるとか、家族に対する協力が足りないとか、好き放題やるなら育ててやった分の金を返せとか。

「『誰の金で生活してると思ってんだ』って怒鳴っとけば言うこと聞くと思ってんの。あいつバカだから」

「そーやってバカにしてるから『俺のことナメてんのか』って怒られんでしょお」

「尊敬できるとこゼロなんだからしょうがなくね?」

 この頃店の経営がますます芳しくないらしく、資金繰りには苦労しているようだった。自転車操業であっぷあっぷの親父殿はただでさえご機嫌ナナメだ。貧すれば鈍する、とはよく言ったものだ。明らかにキレる頻度が増えた。同情はするが、それをぶつけられるのはいい気分じゃない。経営不振はあの商店街じゃどこも似たり寄ったりだし、そこに俺の責任はない。八つ当たりされるのは筋違いだ。そう言うと親父は他人事だとか言ってますます不機嫌になる。金ばかりかかるくせに口だけでかくなりやがって、と。

 ……勉強、再開しなきゃな。愚痴ばかり言っていても生産性がない。嘆くだけで何もしない商店街の大人たちと同じだ。

「うちの父親もさー」

 ぽろっと零したのは、まひろだ。目だけは教師の配ったプリントに向いている。

「失業したらしいんだよな。よく聞くリストラってやつ」

「あら」

「まあうだつのあがらないオヤジだし、さもありなん、って感じだけどさー。うちは母親がバリバリ稼いでるから、金の心配はないんだけど、なんかこう、空気がぎくしゃくしてて。――いつもなら兄ちゃんがクッションになってくれてたんだけどな。おれには荷が重い」

 まひろの年の離れた兄は、とうに就職して遠方にいる。彼が「仕送りをしようか」と母親に打診したところ、必要はないと母親がつっぱね、まひろの学費もあるのにいいのかと弱腰な父親と、そもそもあんたが元凶でしょうと責め立てる母親で、昨日は口論になったそうだ。別に嫌な親ってわけじゃないし、二人とも嫌いじゃないのになー、こうなっちゃうとどうしようもないよなー、と話すまひろは、わざとらしいくらいに淡々としていた。

「どこの家も色々あるんだね」

 みっきーが雑な総括をする。

「なんかさ、あくつ見てると母親みたいでひやひやすんの。なんつーの、頑固な感じ?」

「プライドが高いんだろ」

「自覚あったんだ?」

 まひろはすっかり元の調子に戻る。みっきーだけが気まずそうな顔をしている。

「みっきーんちは平和そうでいいよなあー」

「そうかな」

「そうでしょ。みーんな穏やかでさあ。お父さんもお母さんもおっとりした感じじゃん。喧嘩とかもないんでしょ?」

「まあ、あまり」

「いいなああああ」まひろが足をじたばたさせる。向こうずねにつま先が当たった。「おいこら駄々こねんな」「だってさあ」「痛えんだよさっきから」

 まひろを抑えようと席を立った瞬間、だった。

 ぶわり、と何かが身体を通り抜けた。感覚として一番近いのは、地下鉄の気圧変化だ。空気の膜、のような。薄くて冷たい何かが、鼻先から背中の方に抜けた。

 みぞおちがすっと寒くなる。耳鳴り。金縛りにあったみたいに、身体が動かなくなる。

 蛍光灯が消える。ちちち、と弱々しく点滅した後、何事もなかったかのように、再び明かりが戻る。周囲は完全な無音。

 中腰の体制から、ふっ、と身体のこわばりが消えた。それまでの停止を取り戻すかのように、心臓が勢いよく動き出す。俺は咄嗟に二人の顔を見た。凍り付いたようになっていたまひろが、ぶるる、と小さく身震いをした。

「何、今の。なんかキモい」

 誰も、何も言わなかったが、その言葉には俺も同意だった。みっきーも肯定するように、小さく頷いた。

 教室。散らかったままの、三つ繋がった机。何も変わっていないはずなのに、空気が異質なものに様変わりしていた。不自然だ。何かがおかしい。何が、とは言えないけれど、それだけは確かだった。胸がざわざわして、どうにも落ち着かない。

「人、いない……」

 か細い声で言ったのは、みっきーだった。

 はっとなって教室を見渡すと、教室には俺たち以外、誰もいなくなっていた。くっついた机と、荷物だけがそのままになっている。「トイレでも行ったんだろ」誤魔化すみたいに口にするが、そうじゃないというのは自分でもわかっている。

 静かすぎる。

 放課後の教室に、こんなに音がないことは、今までなかった。

 テスト期間とはいえ、直後に大会が控えている部活は、いつも通り活動をしているはずだった。グラウンドや体育館から音が絶えることはない。それに、人の気配がある以上、廊下を歩く音や話し声は聞こえる。テスト期間ならなおさら、教師は忙しそうにうろついているし、ほかの教室にも俺たちみたいに生徒が残っているはずだ。

 あるはずの音が全くない。音どころか、気配も。

 まるで俺たちしかいないみたいに。

 ふと思い立って、俺は窓側に近づいた。グラウンドを覗き込む。砂の敷き詰められた校庭に、人影はない。持ち主を失ったサッカーボールがぽつんと転がっている。

 ――無人。

 砂を踏み荒らした跡や、誰かがいた形跡は、まだあちこちに残っているのに。

 ありえない。……いや、たまたま見える範囲に人がいないだけかもしれない。普通はこんなことは起こらない。でも、人が突然消えるなんてもっと普通じゃない。

 考えが頭の中に渋滞していく。

「うそぉ……」

「……先に帰っただけかもしれない。みんな」

「だとしたらあの荷物は? 第一まだそんな時間じゃないし、そうじゃなくても先生が来るでしょ、早く帰れって」

 まひろが詰問してくる。確かにそうだ。まだ残ってるのか、早く帰りなさい。その声に追い立てられて、いつも俺は教室を出ていた。

 そもそも今何時なんだっけ? 壁掛け時計に目をやると、俺はそのまま呆然としてしまった。長針は動いている。そこまでは普通。問題は、長針が上下に不規則に動いていることだ。ぐらぐら、うねうね。催眠にでもかけられそうな、見ていると気持ち悪くなる不安定なリズム。

「うええ……なにあれ」

「壊れたんだろ」

 言い聞かせるように、呟く。

「こんな壊れ方するう?」

 皮膚はうっすらと汗をかいていて、なのにひどく寒い気がする。

 あ、と今度はみっきーが声を上げる。「スマホ、つかない」

 試してみると、俺とまひろも同様だった。電源ボタンを押してもまるで反応がない。

「電池切れのセンは?」

「三人一斉に?」

 沈黙。会話が途切れると、無音がますます強調される。

「とにかく外に出よう。まだ誰か残っているかもしれないし、仮に帰されていたとしても、職員玄関は開いてる」

「……そうだね、冷静にならなきゃ」

 みっきーのその声もまた、どこか言い聞かせるようだった。


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