第3話 怪異


 風呂場の血液の一件から、どうも妙なことばかりが続いた。

 気のせい、と言われたらそれまで。俺自身が経験したことじゃなかったら、俺もそう言うようなこと。けれど確かに、少しずつ精神を蝕んでいくような、些細だからこそ嫌ぁな感じが、終始肌にまとわりついてくる。

 バイト中、焦げ臭いと思って顔を上げたら、ガラスの向こうに手が見えたことがある。窓の上から垂れ下がるような形で、焼けただれた手がだらりと垂れ下がっていた。誰かの悪戯を疑うこともできた。だが窓の上に庇はない。

 ずるりと剥けた灰色の皮。赤黒い色と、時折混ざる黄色と白の脂肪の色。生きた者の手ではないと、直感的にわかった。その手が、拳で窓を叩く。まるで意志をもっているかのように。気づいているのは俺だけ。

 隣のカウンターで古本の査定をしていた大学生バイトに、「あそこ、何か見えません?」と尋ねても、「何もないけど?」ときょとんとした顔をされるだけだった。その後、ぼとりと腕が落ちたが、落ちたはずの場所を見ても何も残っていなかった。

 帰り道、一人になったとたんに、妙な気配と足音がすることもある。耳にイヤホンをはめ込んでいても、いくら音量を上げても、逆に何も耳につけていなくても、音量は一定。周りを見渡しても人っ子一人いない。

 それだけじゃない。寝る前になると、子どもの泣き声がする。隣家かと思わせるほど近くに。少子化甚だしい商店街の一角だ。珍しく赤ん坊でも生まれたのかと思ったが、それとなく話を振ってみても、誰も心当たりがないという。それどころか、誰も泣き声など聞いていないと。

 単なる思い違いだろう。いくら薄気味悪くても、非科学的なものは信じる気になれない。人間の思い込みは、なんでもないようなものでも別のものだと思わせる。丸が三つあれば人の顔だと認識する。心霊写真の多くはそういった錯視が原因だと聞いたことがある。

 そう言い聞かせながら過ごしていた最中。水を飲みに階下に降りると、親父がテレビを見ながら焼酎を飲んでいた。間が悪いな、と思って蛇口をひねったとたん、どぷん、という妙な音とともに、黒くて長い髪がごっそり蛇口から落ちた。咄嗟に蛇口を締める。髪の毛が、水滴を垂らしながらぶら下がる。

 上水にこんなものが混ざるはずもない。さっきまではなかった、むっとするようなにおいがした。風呂場で血が落ちてきた時と同じ。放置しすぎた生ごみみたいなにおい。湿度の多い悪臭は、目が痛くなるほどひどい。

 親父は平然とテレビを見ている。色とりどりのテロップが他人事みたいに流れる。

 思い付きで棚にあった塩を手に取る。四角いプラスチックのケースには、間違いのないように「塩」「砂糖」とマジックで書かれている。塩をひとつまみとってシンクに撒いてみると、すっとにおいが薄まった。黒い髪に白い粒が滲んで溶けていく。

「どうした?」

 親父が訝ってこちらを向く。髪の毛が、と言おうとして、口をつぐむ。再び目を向けると、例によってシンクには何も落ちていなかった。夕飯が終わってすぐ奈帆さんが片付けた洗い場は、汚れひとつなかった。塩の粒だけがぱらぱらとこぼれている。

「……親父さ、妙なもの見たりしたこととか、ない?」

 親父は意外そうな顔をする。馬鹿にされるかと身構えていた俺は、急いで言い訳を用意する。今、学校で怪談が流行ってて、なんかネタないかと思って。この辺りなら自然だろう。

「俺はないけど……血筋かな」

 親父はゆっくりと水割りを舐める。何か察したようなのが奇妙だった。

 いつもだったら、鬼の首を取ったように揶揄われるような話題。なのに親父は淡々と話す。表情は静かなままで、それがどうも据わりが悪い感じがする。

「昔、香弥が怖がったことあったよなあ。覚えてるか? 誰もいない廃ビルの窓を指さして、あそこに男の子がいるとか言って泣いて」

「いや……」

 その話は覚えていなかったが、姉は昔からその手の話が好きだったよな、と思い返す。変なまじないとか、怪談とか、すぐに作り話だとわかるような都市伝説だとか。そういうものを怖がりながらも面白がっていた。その話も霊感ごっこの域を出ない気はする。

「血筋って?」

 引っかかっていた言葉を、俺は親父に投げ返す。

「お前の母さんの出身が、そういう家だったらしい」

「曰くつきの?」

「いや、神社だか寺だか、拝み屋の専門をやってるような家だよ。よくあるだろ、テレビなんかで、人形やら心霊写真やらを持っていって供養するとか。そういうやつだ」

 親父の説明はいかにも適当で、俺は気のない返事をするしかない。

 実母の出自の話はほとんど聞いたことがなかった。口数が少なく、親父とは違った意味で気難しそうな人だった。東北の田舎で育ち、実家と縁を切って大学に進んだことだけは、噂話経由でなんとなく聞いたことがある。この辺りではそんな話まで人の口に上るのだ。

 大学に残り続けていた彼女は、この辺りでは「学者先生」とわざとらしくちやほやされるか、反対に「学校から出ていない世間知らず」と蔑まれるか、どちらかだった。愛想も人付き合いも悪く、古くからの人脈もない彼女にとって、ここが居心地のいい場所だったとは思えない。商店街の人間は商店街で買い物をし、お互いに支えあう。その不文律を彼女は破り続け、少し離れた小綺麗なスーパーまで俺と姉を引き連れて行っていた。半ば意地だったのだろう。そんな彼女はますます商店街の人間から疎まれた。

 離婚にこれといった原因があったとは聞いていない。けれど俺は、ずっと、それが原因だと思っていた。

「それ、離婚に関係ある?」

「ねえよ」

 親父は豪快な笑いと一緒に切り捨てる。「あいつは家族に向いてなかっただけだ」

「あんたも子育てに向いてるとは思えないけど」

 俺は意味もなく憎まれ口をたたく。「何おう、誰がここまで育ててやったと思ってんだ」親父は妙に楽しそうに酒をあおる。冗談だと思っていても笑ってかわせなかった。俺はそのまま「おやすみ」と部屋に戻る。おう、という声が追いかけてくる。

 俺もたぶん、「家族」には向いていないのだろう。

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