第8話


則人

「門脇もも子さん」

 

もも子

「僕と、結婚してください」

 

向かいに座る男は、何の濁りもない口調で言った。

 

まずい。

 

このままだと、結婚してしまう。

 

でも「考えさせてください」なんて言ったところで、彼はいくらでも待ってくれる。

 

いや、待ってくれてしまうんだ。

 

もう一生、この男から逃れることはできない。

 

もも子

「……よろしく、お願いします」

 

泳いだ目がバレないように、少しだけ俯いた。

 

則人

「じゃあ、これからの僕たちに、乾杯」

 

「チン」とグラスのなる音は、仏壇の鈴(りん)によく似ていた。

 

結婚は墓場。

 

それは決して、男に限った話ではない。

 

私は一生、この男のルールに従って生きていかなければならない。

 

「普通」という、無敵のルールに。

 

そもそも夜景の見える高級フレンチで告白するなんて、鶏を小屋の隅に追いやって捕まえるようなものだ。

 

逃げ場がなさすぎる。

 

そういう狡猾さにも、だんだん嫌気が差してくる。

 

私は視線だけでもと思い、窓の向こうの夜景に逃避した。

 

考えろ、私。

 

結婚してしまう前に、この男から逃れる方法を。

 

浮気でもする? いや、そんなんじゃこの男はへこたれない。

 

犯罪でも犯す? そんなことをしたら、私の人生が台無しだ。

 

すると、店内がやけにザワザワし始める。

 

ギャルソンが巨大な扇風機をホールに持ち込んでいた。

 

——そうか、物だ。

 

男と浮気をするには、理由が必要になる。

 

物足りなかった。寂しかった。刺激が欲しかった。

 

それを聞いたら彼は、その需要に合わせた「普通」を、いとも簡単に供給してくるだろう。

 

でも、物は違う。

 

「そういう性癖だから」と言ってしまえば、それ以上の理由はない。

 

受け入れざるを得ない。

 

そしてきっと、受け入れられないはずだ。

 

婚約者が扇風機と浮気をしているなんて。

 

自分のアイデアに興奮して、汗が噴き出してきた。

 

則人

「とりあえず、飲み終わったら場所変えよっか」

 

こんなハプニングにも全く動じない彼を見ながら、

 

これから自分が巻き起こすハプニングに、胸を躍らせていた。

 

×                      ×                      ×

 

人生で一度も、ワンナイト的なことを経験したことがない。

 

よほど信頼している相手じゃないと、濡れない体質なのだ。

 

よって今日も、私のコンディションが整うことはなかった。

 

私は彼を信頼していない。

 

9年も一緒に居るのに。

 

その事実は、単純に悲しかった。

 

則人

「きっと、飲み過ぎただけだよ」

 

彼は当たり前のように、私を抱きしめてきた。

 

本当は、したくてたまらないくせに。

 

やはり私は、彼から逃れることはできないみたいだ。

 

×                      ×                      ×

 

「エアコンが壊れた」と嘘の連絡を入れると、私は押し入れから扇風機を取り出した。

 

今から、この「男」とセックスをする。

 

自分で決めたことではあるが、9年間積み上げてきた「普通」が崩壊することを考えると、さすがに足がすくんだ。

 

でもそんなんじゃ、人生は変えられない。

 

相反する二つの感情が衝突し、息が上がっていく。

 

——これって、興奮してるってこと?

 

このエクスタシーはきっと、浮気の時に感じるそれと一緒だ。

 

それが消えてしまう前に、急いで服を脱いで、「男」を抱きしめる。

 

浮気なんて、本当は男でも扇風機でも変わらないのかもしれない。

 

日常を破壊する背徳感さえ感じられれば、相手は誰でも。

 

そんなことを考えるうち、彼に抱かれるよりもよっぽどコンディションは整っていた。

 

皮肉なものだ。

 

これを彼が見たら、一体何と言うだろう。

 

その答えを知りたい気持ちが絶頂に達した時、彼が帰ってきた。

 

私は演技を超えて、本当に興奮していた。

 

もも子

「則人くんには言ってなかったんだけど」

 

もも子

「私、こういうヘキなの」

 

もも子

「扇風機が、好きなの」

 

則人

「扇風機が好き……?」

 

きっと人間は理解を越えると、復唱することしかできないんだと思う。

 

私は、彼の怒りが爆発するのを待っていた。

 

さあ早く、私を殴るなり犯すなり、なんでもしてくれ。

 

そうすれば、この日常を終わらせられる。

 

だが期待とは裏腹に、彼の怒りは扇風機へと向かった。

 

私を傷つけてはくれなかった。

 

則人

「浮気相手が扇風機ってか?」

 

則人

「俺が相手じゃ、濡れもしないくせに」

 

則人

「コイツにはアンアン言いながら股開くのかよ!」

 

則人

「だいたい、挿れるモンだってないのにどうやってするって言うんだ?」

 

則人

「そんな物に興奮するって、お前、狂ってんだろ!」

 

なるほど、と思った。

 

彼の心を占有しているのは、なんとも気高きプライドだった。

 

彼は自分が扇風機に負けたという事実に、打ちひしがれているのだ。

 

それが分かっただけでも、立派な収穫だ。

 

しかし私は、さらに欲をかいた。

 

もも子

「則人くんは、私とエッチができないから怒ってるの?」

 

則人

「……は?」

 

もも子

「もし私とエッチできてたら、このことだって許してくれたんじゃないの?」

 

彼のプライドを抉るには、最も効果的な言葉だと思った。

 

則人

「許せるわけないだろ」

 

則人

「こんな気持ちの悪いこと」

 

勝った——。

 

そう確信して、私は風呂場へと走った。

 

笑い声をシャワーでかき消すためだ。

 

なるべく慟哭に近い響きを意識して、私は笑った。

 

彼はついに、私を許せなくなった!

 

×                      ×                      ×

 

しかし、それはぬか喜びだった。

 

実家に帰り、別れた後の人生についてゆっくり考えようとしていたら、彼がやってきた。

 

逃げ切れなかった。

 

私はそのことがショックで、一言も発せなかった。

 

しかし彼も、なかなか深いダメージを負っているはず。

 

もも子

「もう、聞き飽きたと思うけど」

 

もも子

「本当にごめんなさい」

 

もも子

「何から話せばいいのか、何を謝ればいいのか、分からないの」

 

もも子

「でも、則人くんを傷つけたことには変わらない」

 

もも子

「だから、ごめんなさい」

 

何度も謝ることで、これが「普通」ではないということを彼に刷り込んだ。

 

則人

「いろいろ聞きたいことはあるけど、昨日のことは忘れることにする」

 

則人

「だから今日からまた、普通に暮らしていけないかなって」

 

則人

「俺は、そう思ってるよ」

 

もも子

「……ありがとう」

 

悔し泣きだった。

 

彼から逃げ切れなかったこと、また受け入れられてしまったこと。

 

それもある。

 

だが、私自身が日常を壊すのに躊躇していること。

 

それが何より悔しかった。

 

×                      ×                      ×

 

それから彼は、隙間を埋めるように口数を増やした。

 

核心に触れることを恐れているからだ。

 

もも子

「赤ちゃんがいるわけでもないしね」

 

たまにこんなジャブを打ってみても、すぐにはぐらかされてしまう。

 

やはり、もうひとつ決定打がないと埒が明かない。

 

しかし家に帰ると、引き出しを開けられた形跡があった。

 

そして、扇風機が粗大ゴミ置き場に出されている。

 

彼がこんなにも分かりやすいアクションを起こしてくるとは、予想外だった。

 

なら、核心から逃げられないようにしたい。

 

私は彼が帰ってくるまで、粗大ゴミ置き場で待っていた。

 

待ちながら、彼との日々を思い返していると、なぜだか自然に涙が出てきた。

 

そんな馬鹿な——。

 

彼によって作られた、何の変哲もない普通の日々。

 

その時間を慈しんで、涙するなんて。

 

もしかしたら彼は、この日常が壊れるのを承知で、

 

それでも私を受け入れようと奮闘してくれているのかもしれない。

 

私は、なんて都合が良いんだろう。

 

自分で破壊しようとした日常を、もう一度この手で抱きしめようとしている。

 

その身代わりのように、私は扇風機を抱きしめた。

 

すると彼が、私を見つける。

 

則人

「もも子、俺が間違ってたよ」

 

則人

「今まで君のこと、見て見ぬふりして、やり過ごそうとしてた」

 

則人

「受け止められなかったんだ」

 

則人

「でもこれからは、君のそういうところも全部ひっくるめて、愛していきたい」

 

則人

「君の性癖とちゃんと向き合って、二人でどうすれば良いか考えるんだよ」

 

則人

「どれだけ時間がかかってもいい」

 

則人

「どうせ僕らは、一生を共にするんだからさ」

 

私は、ただでさえ枯れている涙を搾り出すようにして泣いた。

 

心からの涙だった。

 

×                      ×                      ×

 

本当のことを打ち明けてしまおうか、と思った。

 

でもそれから、彼は私の性癖を受け入れようと努力してくれた。

 

最初は半信半疑だった。

 

彼は、私を許した自分に酔っているだけで、私を愛する気持ちなんて本当は無いんじゃないかと。

 

でもそれは間違っていた。

 

則人

「今、ここでしてみて」

 

彼はこざかしい駆け引きを捨て、今この場で私を受け入れると宣言したのだ。

 

私は言われるまま、彼の前で扇風機を抱いた。

 

彼は今まで見たことのない凄惨な光景に吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。

 

これが芝居だとしたら、彼は立派な詐欺師だ。

 

私は彼の「葛藤」を、初めて可視化できたような気がした。

 

彼は本気で、私を受け入れようとしてくれている。

 

私は左手で彼の背中をさすりながら、右手で事実を握りつぶした。

 

本当のことは、言わないでおこう。

 

もう少しだけ、彼が私のために本気で葛藤してくれているこの時間に、浸っていたい——。

 

×                      ×                      ×

 

そのうち、彼の帰りが遅くなった。

 

どうも仕事が忙しいらしい。

 

そして彼の居ない時間は、私の中に沸々と罪悪感を育んでいった。

 

あんな光景が見れたのだから、もう何も求めることはない。

 

全てを打ち明けて、いつも通り彼の「普通」に飲み込んでもらおう。

 

そう思い、彼をスーパーまで迎えに行った。

 

彼を見かけて駆け寄ろうとすると、私より先に若い女の子が彼にたどり着いた。

 

二人はそのまま彼の車に乗り込んで、家とは反対方向に走り出した。

 

——彼は、人間の女の子と浮気をしていた。

 

私の仕掛けた嘘は、彼の「普通」をとっくに飲み込んでいた。

 

私の前では普通を保とうと努力しながら、自分自身のバランスはとっくに崩して、

 

セックスができる女の子のもとへ逃げ込んでいる。

 

走り去る車を目で追いながら、私は吐き気を催し、公衆トイレに駆け込んだ。

 

彼にしてみれば、両成敗なのだろう。

 

私だって扇風機と浮気しているのだから。

 

それが許せないのなら、ハナからこんな嘘なんてつかなきゃよかったんだ。

 

矛盾する感情が反吐となって、食堂を逆流してきた。

 

何層にも感情を重ねすぎて、もはや本当の気持ちが、自分でも分からなくなっていた。

 

ただひとつ、明らかなことがある。

 

これ以上、私は彼と一緒に居るべきではない。

 

全てが丸く収まって、また二人で暮らしていけたとしても、

 

きっとまた彼を疑って、疑うたびに嘘をついて、そんなことを繰り返していくに違いない。

 

ならば、今度は絶対に彼と離れられるように、

 

もう二度と許してもらえないほどの罪を、犯すしかない。

 

×                      ×                      ×

 

もも子

「ねえ、則人くん」

 

もも子

「私、扇風機と浮気して、逆上して、あなたを殺そうとしたの」

 

もも子

「さすがにもう、許せないよね?」

 

許せない。

 

一言、そう言ってくれさえすれば、全てが終わる。

 

それなのに——。

 

則人

「門脇もも子さん」

 

則人

「僕と、結婚してください」

 

私はついに悟った。

 

もう一生、この男から逃れることはできない。

 

×                      ×                      ×

 

今までだって、そうしてきた。

 

もも子がカフェで働きたいと言えば、その近くに引っ越した。

 

他の男とご飯に行きたいと言えば、理由も聞かずにそれを許した。

 

セックスが出来なかろうが、それも愛の形だと彼女を抱きしめた。

 

そして今、一度は自分を殺そうとした彼女すら、許そうとしている。

 

僕の「普通」は、ついにそこまで来たのだ。

 

誰に何を言われようが関係ない。

 

僕は自分の普通を愛して、誇って、生きていく。

 

もも子も福原も、大智も舞も、それを裏付けるための存在でしかない。

 

なんだか全ての出来事に感謝したい気持ちになった。

 

これからだって、僕は全ての出来事を当たり前のように飲み込んでいくだろう。

 

そして、人智を超えた「普通」を手にするんだ。

 

いつも通り家に帰って、シャワーを浴びる。

 

冷たすぎず熱すぎもしない、ちょうどいい温度の雫たちが、僕を包む。

 

まるで、僕の普通を讃えているかのように。

 

浴室を出て鏡を見ると、相変わらず腑抜けた体が目に入る。

 

特に鍛え抜かれてもいない、等身大の中肉中背。

 

なんとも愛おしい。

 

気がつくと僕は、自分の姿を見ながら、自分を慰めていた。

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