第4話


則人

「今から、色んな種類の扇風機を見てもらうから」

 

則人

「少しでもエッチな気分になったら、正直に言ってね」

 

もも子は黙って頷いた。

 

昼間からカーテンを閉め切って、プロジェクターが扇風機の写真をスクリーンに投影していく。

 

もも子は椅子にポツンと座り、まるで拷問を受けるような緊張感をみなぎらせている。

 

「ここまでやる必要あるか?」と自分でも思ったけど、

 

形から入ることも大切だ。

 

まず初めに、一般的な扇風機の写真。

 

則人

「どう?」

 

もも子

「……する」

 

僕は手元のリストに×印を書き加えた。

 

次に、いわゆるサーキュレーターと呼ばれるタイプのもの。

 

もも子

「……これもする」

 

これも×。

 

持ち歩きが利く、ハンディタイプの扇風機。

 

もも子

「……凄くする」

 

筆圧を濃くし、何度も×を重ねる。

 

もも子

「ねえ、思ったんだけど」

 

もも子

「これ、見れば見るほど興奮していっちゃう気がする」

 

もも子

「種類とかじゃなくて」

 

興奮が時間に比例するということには、僕も心当たりがある。

 

則人

「じゃあ、タイプはあまり関係ないってことだね」

 

振り出しに戻ってしまった。

 

カーテンを開け、プロジェクターの電源を切る。

 

もも子

「ごめんね、こんなこと……」

 

則人

「もう謝らないって約束」

 

僕は、つとめて険しい顔を作った。

 

ちょっとでも気を緩めると、もも子を蔑んでしまいそうだからだ。

 

×                      ×                      ×

 

「場所を変えよう」と提案して、もも子を近くの河川敷へと連れ出す。

 

風を頬に受け、もも子の表情はさっきより和らいだ。

 

則人

「扇風機を好きになるキッカケは、あったの?」

 

もも子はまた顔を強張らせてしまった。

 

もも子

「……覚えてないの」

 

もも子

「大学を出たぐらいの時には、そうなってた」

 

もも子

「それまで男の人と付き合ったことなかったから、余計に気付けなくて」

 

則人

「この事、親御さんは知ってる?」

 

もも子

「誰にも言ってない」

 

もも子

「誰かと付き合ったら、治るんじゃないかと思ってたの」

 

もも子

「でもダメだった」

 

俯き加減の顔が、より俯く。

 

もも子

「私、則人くんと付き合ってる時も、してた」

 

もも子

「同棲してからも、ほぼ毎日」

 

もも子

「最低だよね」

 

もも子の言うことは、おおかた僕の予想と合致していた。

 

則人

「そんなことないよ」

 

そう言いながら、もも子の肩を優しく抱き寄せる。

 

僕は、もも子が自己憐憫(れんびん)へ走りそうになった時の受け答えを、あらかじめシミュレーションしていた。

 

そんなことないよ。

自分を責めないで。

もも子はそのままで良いから。

 

そうやって「型」を決めておいて、然るべき時にそのまま繰り出す。

 

まるでゲームのコマンドのように。

 

でないと、本音が顔をもたげてくるからだ。

 

扇風機を愛する女への、強い軽蔑の念。

 

それではダメだ。

 

僕の「普通補完計画」が、水の泡となってしまう。

 

彼女の性癖を普通のものとして、受け入れてやらなければ。

 

彼女を抱き寄せたまま、僕が訊く。

 

則人

「もも子は自分の性癖のこと、どう思ってる?」

 

則人

「世間体とかは度外視して、純粋に」

 

もも子

「嫌だなって思うよ」

 

もも子

「なんで自分だけ、こんななんだろうって」

 

もも子

「……でも、どこかでは仕方ないって思ってる」

 

則人

「仕方ない?」

 

思わず聞き返してしまった。

 

もも子

「人間が、というか、生き物が異性に興奮するって、避けられないことでしょ」

 

もも子

「私の場合、それがたまたま扇風機だったわけで」

 

もも子

「どれだけ頑張っても、それには逆らえないんじゃないかって……」

 

自分のしたこと、反省してないの?

 

そう訊きそうになって、嫌な視線に気付く。

 

初老の男が、犬を散歩させるフリをして、こちらに聞き耳を立てている。

 

睨みつけると、わざとらしく視線を逸らされた。

 

僕は、犬に同情した。

 

お前は、そんな人間を頼らないと生きていけないのか。

 

則人

「——確かに、逆らえないのかもしれないね」

 

僕はもも子の手を引いて、その場から離れた。

 

×                      ×                      ×

 

家に帰ると、もも子が珍しく「お酒を飲みたい」と言い出したので、

 

手付かずだった頂き物のワインを開けた。

 

もも子はかつてないほど饒舌な口ぶりで、思い出をあれこれと語っている。

 

もも子

「大学の時、私が急に髪の毛ピンクにしたの覚えてる?」

 

則人

「ああ、あったあった!」

 

もも子

「でもいざ学校行ったら、すれ違う人みんなに見られて、すっごい恥ずかしかったの」

 

もも子

「おかしいよね、注目されたくてやったはずなのに」

 

もも子

「私はそもそも、人から注目を浴びるような人間じゃないんだって、妙に落ち込んじゃって」

 

もも子

「そのこと則人くんに話したら、何て言ったか覚えてる?」

 

則人

「……なんだっけ?」

 

少しだけ動揺した。

 

下手なこと言ってないだろうな、過去の自分。

 

もも子

「注目を浴びて良いことなんてひとつもない」

 

もも子

「普通に勝るものなんて、この世にないんだよって」

 

その通りだ。

 

この考えは、一貫して変わっていない。

 

それでも僕は「全然覚えてないなぁ」と、とぼけてみせた。

 

もも子

「あれ、すっごい嬉しかったんだよ」

 

もも子

「何の特徴もない私でも、生きてて良いのかもって思えたから」

 

もも子

「……まあ、結果的に普通じゃなかったんだけどね、私」

 

まるで話のオチにするみたいに、もも子は自虐した。

 

僕は、そんな彼女を試したくなった。

 

則人

「ここでしてみてよ」

 

もも子

「えっ?」

 

則人

「あるんでしょ、扇風機」

 

僕は知っていた。

 

彼女がゴミ置き場から、扇風機を連れて帰ってきていることを。

 

則人

「今、ここでしてみて」

 

こざかしい駆け引きをしていても、埒が明かない。

 

今この場で、コイツを受け入れてやる。

 

もも子は「いやいや……」と笑ったが、

 

僕の眼差しから、冗談ではないことを悟った。

 

重い足取りで廊下を行き、押し入れから奴を連れてくる。

 

「本当にするの?」と言わんばかりに視線を何度も投げてきたが、

 

僕は強固な姿勢を保ち続けた。

 

もも子は観念したように、シャツのボタンを外し始める。

 

彼女の身体から、少しずつ、布が減っていく。

 

戸惑いながらも全てを脱ぎ去ったもも子は、扇風機と相対した。

 

膝立ちになり「弱」のスイッチを入れると、リビングに優しい風が充満する。

 

その優しさに呼応するように、もも子は扇風機の「顔」を撫で上げ、

 

そのまま、奴の顔にキスをした。

 

——僕は見逃さなかった。

 

彼女の表情が、羞恥から恍惚へと変わる瞬間を。

 

そのキスは、見る見るうちに激しくなっていく。

 

まるで、カバーの向こう側にあるプロペラに触れんばかりに。

 

足の指で器用にスイッチを「強」に切り替え、ついに彼女が扇風機を押し倒した瞬間。

 

僕はグラスに残ったワインを一気に飲み干してトイレへと走り、

 

ありったけの反吐を便器にぶちまけた。

 

その地獄みたいな咆哮は、たぶん彼女にも聞こえていた。

 

いや、聞かせた。

 

再びリビングへ戻った時、あの忌々しい光景をもう一度見ることがないように。

 

もも子は裸のまま、僕に駆け寄ってきた。

 

もも子

「大丈夫……?」

 

そして、扇風機にしたのと同じ優しさで、僕の背中を撫で上げる。

 

触るな、気持ち悪い。

 

しかし、その手を払いのける気力は無く、ただ全身の毛穴が開いていくのを感じていた。

 

彼女が先に泣き始めたおかげで、どうにか涙を流さずに済んだ。

 

僕は、これを受け入れようとしているのか——。

 

×                      ×                      ×

 

店長というのは、違和感に敏感な生き物である。

 

店の秩序を守るため、常に全体を監視することが癖付けられているからだ。

 

よってこの日も、違和感をすぐに察知することができた。

 

誰も彼も、僕に対してよそよそしい。

 

「おはよう」と挨拶するたび、僕を労わるような、ともすれば同情するような視線を返してくる。

 

僕は一番口を割りそうなパートの主婦を、バックヤードに連れ出した。

 

則人

「気のせいだったらごめんね」

 

則人

「なんか皆、俺に気遣ってない?」

 

主婦

「ん〜、どうなんでしょうね……」

 

則人

「俺、何か悪いことしたかな」

 

則人

「知ってることがあるなら、正直に言ってよ〜」

 

主婦

「そんな、何も知らないですって……」

 

「〜」を「!」に変えてやろうかと痺れを切らしていると、

 

視界の端で何かが動いた。

 

「店長、おはようございます」

 

バックヤードで回していた扇風機を、舞がせっせと移動させていた。

 

——まさか。

 

気付いた時には、舞の手を乱暴に引き、外へと連れ出していた。

 

則人

「ねえ、喋った?」

 

言葉を選んでる場合ではない。

 

「……はい」

 

則人

「どうして?」

 

則人

「どうしてそんなことしたの?」

 

ハラスメントだと騒がれても仕方ないほどの、詰問。

 

舞はすでに半泣きだった。

 

「きっと、理解してくれる人が多い方が、店長の心もラクになるんじゃないかと思って……」

 

則人

「それは、君がそう思ってるだけだよね」

 

則人

「他の人が聞いたら、ただの異常者だって思うよ」

 

則人

「どうしてそこまで想像が及ばないのかな」

 

自分の中にある、普通のレンジを拡げたい。

 

その志は、誉められて然るべきものだ。

 

しかし、彼女は大きなミスを犯した。

 

自分の普通が、他人にとっても普通であると思い込んでいたのだ。

 

他人には、他人用の「普通」を用意してやる必要がある。

 

だからこそ僕は、もも子の秘密を誰にも話していない。

 

「私はただ、店長の力になりたくて……」

 

則人

「力になってくれって、いつ頼んだ?」

 

則人

「俺は今でも十分幸せだし、何も不自由してない」

 

則人

「舞ちゃんのそれって、普通側の思い上がった考えなんじゃないの?」

 

則人

「そういうのが一番、俺らみたいな人たちを苦しめてる気がするんだけど」

 

言い終わった後で、ハッとした。

 

舞の心を完膚なきまでに砕いてしまったから。それもある。

 

だが。

 

その矛先は自分にも向けられているのではないか、と思ったからだ。

 

舞はそれ以上食い下がることもなく、店内へと帰っていった。

 

少し時間を置いて店に戻ると、舞は早退していた。

 

生理痛がひどいから、と仲間に伝言を残していたらしい。

 

僕はその痛みを理解することができない。

 

×                      ×                      ×

 

数えたことはないが、おそらく人生で初めての土下座をしていた。

 

顔を上げると、絵に描いたような仁王立ちをした、舞の母親が目に入る。

 

舞の母親

「舞は、あなたのためを思って皆さんに話したんでしょう?」

 

舞の母親

「それを叱りつけて、罵声を浴びせるってどういうこと?」

 

則人

「大変、申し訳ございませんでした」

 

舞の母親

「いくら謝っても無駄です。訴えることは決めましたから」

 

舞の母親

「だいたい、そんな特殊な趣味をお持ちの方が、普通に社会に出て働いているなんて」

 

舞の母親

「恐ろしくて、迂闊にバイトもさせられないわ」

 

「もうやめて」

 

部屋に居たはずの舞が、騒ぎを聞きつけてやってきた。

 

舞の母親

「部屋に戻ってなさい」

 

「戻るよ、店長と一緒に」

 

舞の母親

「はぁ?」

 

「二人で話しませんか」

 

舞の母親

「こんな人と二人きりになんてさせられません!」

 

母親の忠告を無視し、僕の手を引いていく舞。

 

寸出のところで鍵をかけ、僕と舞は二人きりになった。

 

則人

「……元気?」

 

日本語は不便だ。

 

元気じゃない相手にも、こう尋ねるしかない。

 

「すみません、シフトに穴空けちゃって」

 

則人

「何言ってんだよ」

 

則人

「謝るのは俺のほうだ。本当に、ごめん」

 

「……今、お母さんを見てて思いました」

 

「私がしたことって、ああいうことだったんだなって」

 

則人

「……違うよ」

 

違くなかった。

 

だから言葉に詰まるのだ。

 

「バイト、辞めさせてください」

 

「私にはもう、あそこで働く資格はないので」

 

則人

「そんな、資格だなんて……」

 

それは困る。

 

このタイミングで舞が辞めれば、従業員たちは真っ先に俺を疑うだろう。

 

しかし、そんな卑怯な考えは、舞の言葉で一瞬にして消し飛んだ。

 

「——私、店長のこと好きなんです」

 

則人

「へ?」

 

「拍子抜け」をそのまま音にしたような声が漏れる。

 

「入った時から、ずっと気になってました」

 

「結婚されるって聞いて、何度も諦めようとしたんです」

 

「でもやっぱり出来なくて」

 

「そのうえ、性癖のこと聞いちゃって、もう自分でもワケ分かんなくなって」

 

「なんとか店長の支えになりたいって、その気持ちだけで行動しちゃって……」

 

僕の言葉を待たずに、舞は泣き出した。

 

則人

「……どうして」

 

則人

「俺なんて、ただの変態じゃん」

 

舞は何も言わず、ただ何度も首を横に振った。

 

俺は、本当に変態なのかもしれない。

 

年端も行かない女の子の、純粋な恋心を目の前にして、

 

心が妙に色めき立つのを感じていた。

 

則人

「……ありがとう」

 

則人

「でも、その気持ちには応えられないな」

 

「分かってます」

 

「わざわざ言葉にしなくてもいいじゃないですか」

 

則人

「彼女が居るからとか、扇風機が好きだからとか、そういうことじゃない」

 

則人

「舞ちゃんには、もっと普通の恋愛をしてほしいんだ」

 

則人

「何の迷いもなく、ただ好きだって気持ちだけで一緒に居られるような人と」

 

則人

「そのほうが、絶対幸せになれるから」

 

なぜこういう時、言葉がスラスラと出てくるのか。

 

心を介していないからだ。

 

ジグソーパズルのように、彼女の「普通」に当てはまるピースを探しながら、言葉を選んでいる。

 

だから、逡巡(しゅんじゅん)しない。

 

「分かりました」

 

「私、店長より幸せになってみせます」

 

最後に朗らかな笑みを返してやれば、全てが丸く収まる。そう思っていた。

 

「最後にひとつだけ、お願いがあるんです」

 

「キスしてください」

 

再び心がざわついた。

 

「それで、キッパリ忘れますから」

 

舞は、意を決したように目を閉じた。

 

それはキスというより、これでキッパリ忘れるんだという気概に見えた。

 

つまり、キスそれ自体には、何の決意も躊躇いもないようだった。

 

探せ、ピースを。探すんだ。

 

心を介してしまう前に——。

 

僕は、自分の唇を舞の唇に重ねた。

 

舞は少しだけ艶かしい声を上げ、それを受け入れる。

 

外からは、ドアのノックする音が、急かすように鳴り続いている。

 

唇が離れるとすぐ、僕は彼女と目を合わさないようにして、部屋を出た。

 

これは、決して浮気などではない。

 

彼女が求める「普通」を、ただプレゼントしてやっただけのことだ。

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