壮悟と榛弥~暁のキセキと蜘蛛の花婿~

小野寺かける

一章――①

 車から降りて真っ先に、暁戸あきど壮悟そうごは指を組んで両腕を頭上に伸ばした。肩回りの筋肉がみしみしと軋む。おまけに尻も少し痛い。運転中はどうしても同じ姿勢を取り続けるため、体のあちこちが痛むのは仕方がなかった。

 壮悟と同じような症状に見舞われているのだろう。あたりを見回すと、運転席から降りてきた人々が、壮悟と同じように肩を回したり伸びをしたりしていた。

 腕時計に目を落とすと、時刻は午前十時三十分。自宅からこのサービスエリアまで、だいたい一時間半といったところか。しかし目的地はまだ先だ。さらに一時間半ほど車を走らせなければならない。

 眠くならないようコーヒーでも買っておこう、と自販機にお金を入れたところで、「お兄ちゃん」と後ろから声がかかった。

 振り返ると、妹の美希みきがこちらを見上げている。とび色の大きな瞳には、うずうずとした光が宿っていた。

「なんやねん」

「あれ美味しそうやねん。うてや」と指さした先には、いい香りを放つ屋台が出ていた。「ジャンボたこ焼きやって。美味しそう違う?」

「お前なあ、自分が何歳や思てんねん。バイトしとるやろ。食いたいんやったら自分で買えや。なんで俺が金出さなあかんねん」

 文句を言いながら自販機のボタンを押して、「しまった」と壮悟は渋面を浮かべる。微糖のコーヒーを選んだつもりだったのに、間違えてとなりの無糖のものを押していた。

「お前が話しかけてきたせいで選ぶもん間違まちごたやんけ」

「知らんわ。自分の不注意をあたしのせいにせんといて」

「そんなん言うんやったら、たこ焼き買うたらへんぞ」

「じゃあたこ焼き以外なら?」と美希ではない、別の声が割り込んでくる。渋みのあるバリトンボイスだ。

 声がした方へ顔を向けると、肩下まである黒髪をハーフアップでまとめた男が立っている。六歳年上の、従兄の榛弥はるやだ。ハンカチで手を拭いていたため、トイレを済ませてきたところなのだろう。

「ハル兄までなんやねん」

「ソフトクリームが美味しそうだなと思って。地元のお茶を使ってるらしい」

「あ、ソフトクリームええね。暑いし、ちょうど冷たいの食べたいなー思てたとこやねん」

「やから買うんやったら自分らで買えっちゅうの」

 文句を言いつつ、壮悟は間違えて買ったコーヒーを榛弥に押しつけた。記憶が確かなら、従兄はブラックコーヒーが好きなはずだ。

 自分もトイレを済ませておいた方がいいだろう。ここから先、どれだけの間隔でサービスエリアなどがあるか分からない。

 用を足して手を洗い、ふと鏡を見る。春ごろは赤茶色だった髪は、しばらく染めていないため黒に戻りつつあった。両耳にぶら下がっているのは風鈴を模したピアスだ。さすがに音は鳴らないが、見た目だけでもなんとなく涼しさを覚える。

 トイレから出ると、榛弥と美希は屋台の前に移動していた。しばらく近寄らずに様子を見ているつもりだったのだが、こちらに気づいた美希に手招きされてしまった。

「なんやねん」

「たこ焼きかソフトクリーム買うて。ちょっとお腹空いてきてん」

「さっきも言うたやろ。なんで俺が金出さなあかんねん」

「この前出たコミック」と美希が壮悟を睨みつける。「あたしがお兄ちゃんの代わりに買うて来たったよな。あん時のお金、まだ返してもろてないんやけど」

「……せやったっけ」

 美希は書店でアルバイトをしている。そのためお目当てのコミックの新刊が出るたび、壮悟は美希に買ってきてもらうことが多かった。そのたびに代金は渡していたのだが、今回はうっかり払い忘れていたような気がする。

「コミックのお金、今ここで返すか、たこ焼きかソフトクリーム買うか、どれか選ばせたるわ」

 どう考えても一番安いのはソフトクリームである。壮悟は財布から二百円を取り出し、美希に手渡した。

「妹には弱いんだな」

 くすくすと笑いつつ、榛弥がコーヒーのプルタブを開ける。壮悟は今度こそ自販機で微糖のコーヒーを選び、「やかましいわ」と舌打ちした。

「そういえばお前、昔から美希と喧嘩すると泣かされてなかったか」

「泣かされてへんし、むしろ俺が泣かしとったわ。どんな記憶の改変してんねん」

「冗談だよ。そう怒るな。禿げるぞ」

「禿げへんわ」

 反射的に言い返して、なんとなく前髪の生え際を撫でた。今のところ後退していく気配はない。

 話しながらなんとなく歩いていると、駐車場の端に大きな看板があった。県内の中部から南部までを拡大した観光地図らしい。各市町村の名物がイラストとともに紹介されている。

今居るのは……あの辺か」と壮悟は、地図の一番上あたりに記された現在地のマークを指さした。「神宮にお参りしに行くんやったら、ここから東の方に走ってくんやけど」

「残念ながら今回はそこが目的地じゃないから、このまま南下だな」

「俺あんま南の方て行ったことないんやけど、なにがあんの?」

「世界遺産とかあった気がするけど、僕も詳しくはない。美希が旅行ガイド持ってなかったか」

「呼んだ?」

 ひょっこりと美希が榛弥の隣から顔を出す。右手に持ったソフトクリームはすでに半分ほど減っていた。

 榛弥が言っていた通り、美希は事前に旅行雑誌を買って興味のあるところを調べてきていたらしい。泊まるホテルの位置はだいたいここで、ここには観光地があって、と壮悟たちがなにも聞かなくても喋っていた。

「ほんなら、そろそろ行こか」と壮悟は空になったコーヒーの缶をゴミ箱に突っこむ。「美希、運転代われ」

「えー、嫌や。あたし免許取りたてやで。初めて行くとこの高速走んのは怖いわ」

「俺やって今から行くとこは初めて走るわ。そんなこと言うとったら、いつまでも高速走られへんぞ」

「言い合いはいい。祭りの当日だと人が多そうだし、神社をゆっくり見るなら今日くらいしかないんだ。さっさと行くぞ」

 早く開けろと言わんばかりに、榛弥は車のそばに移動すると後部座席の窓ガラスをこつこつと叩いた。それに続いた美希は、当然のように助手席側で待機している。

 結局自分が運転することになるのか、と壮悟はため息をついて鍵を開け、渋々運転席に乗りこんだ。


 旅行しないか、と榛弥から提案されたのは、一か月半前、七月の頭のことだ。

 夜に急に電話がかかって来たかと思うと、挨拶もそこそこに先の一言を切り出されたのである。

「別にええけど、ハル兄って旅行とか一人でするタイプとちごたっけ」

「電車で行ける範囲ならな。今回の目的地は、電車で行くにはちょっと不便で」

「……要するに、俺に運転手になれ言うとるわけか」

「察しが良くて助かる」

 田舎暮らしゆえ車がないとなにかと不便な壮悟と違い、榛弥は交通の便が発達した都会で暮らしている。だからなのか、三十路間近だというのに、彼はまだ免許を取得していない。

 けど、と壮悟は首を傾げ、素直に疑問を口にした。

「車で遠出せなあかんのやったら、茉莉まつりちゃんに頼んだらええんとちゃうの」

 茉莉は榛弥の彼女で、高校時代から付き合っている後輩だという。確か彼女は免許も車も所持していたはずだ。

「いや、今回はあいつには頼めないんだ。事情があって」

「はあ? 仕事が忙しいとか?」

「そんなところだ」

 なんだか答えを濁されたような気がする。もしかして喧嘩でもしたのだろうか。壮悟の記憶では、二人の仲はかなり良好なはずだが。

 仮に不仲が頼めない原因なのだとしたら、これ以上追及するのは野暮だろう。壮悟はカレンダーをめくりながら「旅行っていつ?」と問いかけた。

「八月の下旬。僕の予定では二泊三日だけど、もしかすると延びる可能性もある」

「ってことは、ただの休暇的な旅行と違うんか」

「そう。取材旅行」

 榛弥は民俗学を専門とする若き准教授だ。今回は大学のゼミでの教え子から興味深い祭りを聞き、それの取材と研究をしたいのだという。

「お前いま仕事は? この前会ったときは無職だっただろ」

「とっくにバイト始めとるわ。いつまでもニートやと思うなよ」

「じゃあ休みは取りにくいのか」

「いや、多分大丈夫やと思うけど」

 ゴールデンウィーク前から始めた中華料理屋でのアルバイトは楽しく、職場での人間関係も悪くない。榛弥が日程の延長を示唆していたことを踏まえて考えると、思いきって一週間ほど休みをもらうことになるだろうが、恐らく快諾してくれるはずだ。

 通話をしながらカレンダーに予定を書きこんでいると、「なにしとんの?」と横から美希が覗きこんできた。風呂が空いたことを知らせに来たのだろう、栗色のふわふわとした髪は水に濡れ、タオルに包まれている。

 簡単に事情を説明してやると、瞬時に瞳が輝いた。

「えー、あたしも行きたい!」

「なんでやねん」

「今んとこ夏休み特に予定あらへんねん。暇やなー思とったとこやし、ついてったらあかん?」

「……って美希が言うとるけど」

「別に構わないぞ。ただし宿泊費は自分で出すこと」

「了解!」と美希が満面の笑みで敬礼をする。電話の向こうの榛弥にポーズは見えていないはずだが、予想がついたのだろう。「よろしい」と彼がうなずく気配がした。

 こうして壮悟と榛弥、そして美希の三人旅が決定したのである。


「……いつまでこのトンネル続くねん……」

 アクセルを踏みつつ、壮悟はげんなりと愚痴をこぼした。

 県南部に向かうためのジャンクションを通り過ぎてから、高速は片側一車線に変わり、山を突っ切るトンネルが次々に現れた。その一つ一つが長く、やっと抜けたと思えば道の両側には木々の群れが広がるばかりで、同じような景色がくり返される。

「トンネルの出口が全然見えへんねんけど」

「ざっと二キロくらいはありそうだな。いやそれ以上か」

「北の方とえらい景色が違うんやねぇ。さっきから家とか全然見かけへんもん」

「それだけ自然豊かってことだろ」

「ええ加減に山以外のもん見たいわ……」

 道のわきには〝動物注意〟の看板が立っているが、その種類も鹿や猿、イノシシやタヌキなど様々だ。今のところ遭遇していないが、出来ることなら出くわしたくない。

 車も片手で数えられる程度しか走っておらず、前方の車はどう考えても速度超過だろうと思われるスピードで走り去っていった。

 もういくつめのトンネルか分からないそこを通りながら、「そういえば」と壮悟はルームミラー越しに榛弥を見やる。

「ゼミの子に聞いた祭りって、どういうのなん。神輿担いだりとかすんの?」

「そういうのじゃないみたいだぞ。ものすごく簡単に言ってしまうと〝宝探し〟みたいな感じらしい」

「は?」

「宝探し?」と食いついたのは美希だ。「ええもん貰えたりすんの?」

「僕に祭りを教えてくれたそいつも、実際に参加したことはないから詳しくは知らないそうだ。とりあえず『どこかにご利益のあるなにかが隠されていて、それを見つけられるのは一人だけ』と聞いた」

「なんで参加したことないのに、そいつは祭りのおおまかなこと知ってんねん」

「両親の地元なんだと。あと、祭りに行ったからといって、全員が宝探しに参加できるわけでもないらしい」

 情報としては曖昧なことこの上ないが、榛弥にとっては知的好奇心を刺激するにはじゅうぶんだったようだ。でなければ、わざわざ電車で行けそうもない場所に足を運ぶなどしないだろう。分からないことは現地で直接見たり、話を聞いたりすればいいと思っているはずだ。

「あ。あれ出口と違う?」

 美希が嬉々とした声を上げる。トンネルの中では電波が通じにくく、スマホを触れなくて退屈していたのだろう。壮悟としても、そろそろ閉塞感のあるトンネルから抜け出したかった。

 少しだけスピードを上げ、「頼むから山以外のものがあってくれ」と願いつつ出口から飛び出す。

 ぱっと眩しい日差しが降りそそぎ、美希と榛弥がそろって感嘆の吐息をこぼしていた。

 なにが見えたのだろう、と壮悟は一瞬だけ助手席側に目を向ける。

 視界に入ったのは、日光を反射してきらきらと輝く海原だった。

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