第15話 ――消失

 マストに寄りかかって本を読んでいたプリムムの足に、ついさっき、セイナンの肩にいたはずのタコが絡みついていた。

 手でどかせばいいものを、プリムムは体が固まってしまったらしく、本を抱いて震えている。


 セイナンを見ると、案の定、肩に乗っていたはずのタコが消えていた。移動したことに気づかないセイナンは問題だが、近づいていても気づかないプリムムも問題だろう。

 おれは、だって気づきようがないので責任問題には関わらない。


 そのタコは徐々にプリムムの細足を上がっていき、スカートの中にまで足を伸ばした。


「いやっ、ちょっと、あんたたち見てないで助けなさいよ!」

「大丈夫だよ、それただのスキンシップだから」


「スカートの中にまで足が伸びたなら、おれにはもうどうしようもない聖域だから無理」

「あんたらぁああああああッ!」


 強気なプリムムだが、タコが動く度にびくっと震えて泣きそうな顔になる。

 というか、目尻に涙が溜まっているので、そろそろ可哀想だ。……聖域とは言え、なにもパンツに手を伸ばすわけでもないし、助けようとして手を伸ばすわけだから、体に触れても不可抗力だ。プリムムも今回に限っては許してくれるだろう。


 ぎゅっと目を瞑って、気持ちの悪い感覚に堪えているらしいプリムムに、いま助けるから、と声をかけてタコを掴む。

 思ったよりもぬるぬるだったが、意外とすんなりプリムムから引き剥がせた。

 おれも特に苦手ではない。掴んだ手にタコが足を絡めてきたが、そのまま放っておき、


「大丈夫? ほら、もう足にはいないでしょ?」

「う、うん。……ありがとう」


 珍しく素直だ。よほど恐かったのだろう。


「……プリムムは、こういうのはやっぱり苦手なんだね」


 彼女は活発な方ではないし、タコがダメとなると、たぶん、虫もダメそうだ。女の子らしいと言えばそうで、かと言ってセイナンが女の子らしくないと言っているわけでもない。

 一般的なイメージで分けられる二種類の女の子の印象に当てはまっている感じ。

 二人とも、簡単には語れない難しい性格をしているだろうが、大雑把に分ければの話だ。


 本当に、プリムムとセイナンは対照的だった。

 互いにないものを持っているような。

 真っ二つに分けたような性格の違いが面白い。


「……わたし、部屋に戻ってる」


「もう近づけさせないよ。あと、こいつも悪気があったわけじゃないんだし」


「分かってる。分かってるけど……その、ごめん。やっぱり無理」


 そう言って、扉を開けて室内に引きこもってしまうプリムム。……仕方ないか。なにが恐いかなんて、本人にしか分からない。

 いくら平気な人が危険じゃないよと語ったところで、ダメな人の気持ちが分かるわけでもない。強いる権利は誰にもないのだから、今はそっとしておこう。


 釣りに戻ろうとして、お腹の虫が鳴いた。

 なんだかんだと時間を過ごしてそろそろ昼時だ。セイナンが釣ってくれた魚があるから、それを昼食にして――、考えていたら、雲の切れ目から光が顔を出す。


「あ、曇り空が――」


 見上げていたら、足元からぼとっと落ちた音が聞こえた。……視線を下ろせば、タコが床を這っている。日向だったので、まるで照らされているようだった。

 タコ一匹分の重さが体から消えただけなので違和感はなかったが、手元を見て息を飲む。


 右腕の肘から先がなかった。


 切断面? から黒煙が出ている……。

 思わず後退するが、消えた腕は戻らなかった。


「……変な感じだ、握り締める感覚があるのに、そこにないなんて――」


 そして、気づけば光によって照らされた床の面積が広がっていく。雲が流れ、太陽光を遮るものがなくなったのだ。

 直感的に原因はこれだと分かる。だが、一応、無くなった片腕を伸ばして、肘から手前でもう一度だけ試す。光に触れた二の腕は、黒煙を噴き出し、照らされた部分が蒸発した。


 太陽光を浴びれば蒸発し、消える。


 ――甲板は、まずい。


「……っ、しまった、セイナン!」

「ねえ、ロク。美味しそうな魚ってこの中だと――」


 釣り竿が床に倒れる音がした。


 タコが甲板を這って、手すりの隙間から体を投げ出し、海へと帰っていった。


 彼女がいた場所に留まっていた人型の黒煙が、真上に舞い上がる。


 ……セイナンは、どこにもいなかった。



 完全に雲がなくなり、甲板のほとんどが日向になった(帆の影は安全地帯と言えるが)ので、室内に避難してきた。

 大広間の椅子の上で本を読み耽っているプリムムに、今のことを報告するのがつらかった。

 おれの腕はどうでもいいが、セイナンが……その存在を消滅させたのだから。


「プリムム、ちょっといい……?」

「……読書中なんだけど……。――え、う、腕! なんで! どうしたのよ!?」


「あ、うん。説明しようと思うんだけど、だから、ちょっといいかなって」


「なんでそんなに冷静なのよッ、大事なことなんだからもっと感情荒げて、わたしを叩き起こすくらいの必死さを見せなさいよ! ――それどころじゃなくて、それ! 腕ッ!」


 プリムムは腕が気になるらしいが……当たり前か、プリムムにとって変化と言えばそれしか見えていないのだ。

 だが、おれからすれば自分の腕がないことなど、どうでもいいと思えるくらいの出来事が胸に穴を空けている。


 口が固いが、話さなくてはならない。

 いつまでも誤魔化せることではないのだから。


「――セイナンが、消えた」


 直接的に、死んだと言わなかったのは、まだ希望があるからと思いたかったからだ。

 だが、現実問題、目の前で黒煙となって消えたのを目の当たりにしたのだ、あれでまだ生きていると思うのは無理がある。


「……どういうことよ。ゆっくりでいいわ、だから最初から最後まで説明してちょうだい」


 プリムムと向かい合って座り、起きたことを分かる範囲で説明する。


 質問することもおれを責めることもなく、

 プリムムは適度に頷いて、話を最後まで聞いてくれた。


 おれの口が閉じると、プリムムはしばらくなにも言わなかった。おれも閉じた口をなかなか開けなかった。元々、船旅に音は少ない。波の音が微かに聞こえるくらいだ。

 それでも普段、ここまで静かでなかったのは、セイナンがいたからだ。

 彼女がいない今、おれとプリムムの二人だけでは、波の音さえもはっきりと聞こえる。


「そう」


 沈黙を破ったのはプリムムだった。


「昼食にしましょう。落ち込んでいても仕方ないわ。まずは腹ごしらえ、ね」


「……責めないのか。責めてくれた方が、楽になるんだけどな」


「あんたが悪いわけじゃないでしょ。それに、あんたを責めてセイナンが戻ってくるとは思えないわ。無駄な力を使いたくないの。ロクだって、きっとそう言うでしょう?」


 ……だろうな。


 客観的に見て、今すべきことをするのが最も効率が良い。前に進むのならば、尚更だ。


「それに、あんたらしくもないことが一つ。この帆船は、一体、誰が作り出したものなの? 人間でしょう? なら、アナベルである可能性が高い。

 その現象を聞く限り、それにしか思えないけどね。だとすれば、消えたセイナンを取り戻すためのルールがあるはずよ。

 さっ、いつまでも落ち込んではいられないわよ。目の前で血を流して、心臓の鼓動を止めて死んだわけでもないのなら、きっとセイナンを救い出せる」


 元気づけるためのポジティブな意見だとは思えない。

 解決に向かうための具体的な案だ。……可能性に依存しているが、現実的に見て、実現可能であることは確かである。


 ……プリムムにはきちんと見えている。

 セイナンを失い、視野が狭くなっているおれとは違って。


「たぶん、消える瞬間を見ていたら、わたしだって今のロクみたいになると思う。直接は見ずに伝えられただけだから、全部を想像で補えたの。

 ショックもあるけど、いくらかは調整できるわ。だから、自分が劣っているなんて考えないで。ロクだって、わたしにとっては大きな戦力なんだから、そうやって怠けられても困るわよ」


 食糧庫の中身を使って作られた料理を胃に詰めて、満腹状態になった。

 その後の食休みは、おれにとってセイナンを救えなかったことへの後悔を落ち着かせるための時間だった。


 悔しい、許せない――、

 救えなかった自分への怒りだ。だから、今度は失敗しない。


「プリムム、思ったんだけど」


 おれを待っていてくれたプリムムは、本を読んでいた。だが、集中できていないのか、何度も同じページに戻っている。

 最終的には諦めて、物語を読むのではなく、それまでの話を振り返る作業に変わっていた。


「いいわよ、言って」


「さっき説明したと思うけど、体が消滅したのは太陽の光が原因だと思うんだ。

 だから、活動は夜の方がいいかもしれない」


「……そうね。調査するにしても、甲板に出られないのは重要なことを見落としていそうな気がするし……、じゃあ、夜に活動を開始しましょう。だからそれまでは――」


「寝よう。夜に活動するなら、眠れないわけだし。……それで、部屋、分ける?」


 昨日の今日だ、しかもセイナンがいない今、おれのプリムムを襲わない理由も機能しなくなる。こんな状況なのに襲うような糞野郎ではないと言いたいが、危険を感じるのはプリムムなのだ、判断は彼女に任せる。


「一緒に寝てもいいわよ。昨日で、信用してるから大丈夫。

 それに、こんな時に襲ってきたら本当に軽蔑するし、太陽の下に叩き出すわ」


 実際に見ているおれにとっては、効果的な脅しだった。


「それに」


 プリムムは誤魔化さずに、素直に思いを吐露した。


「今は、一人になりたくないの」



 船を止めて二人で眠り、目が覚めた頃には、辺りは暗闇に包まれていた。


 調査を開始する。

 その前に、月明りは体を消滅させるのかどうか、既に犠牲になっている腕を出して確かめる。

 昼間のように、黒煙を噴き出して消えることはなかった。

 ……どうやら、太陽の光が原因のようだ。


 安心して甲板に出て、置きっぱなしになっていた釣りの道具を回収する。

 釣った魚を入れていたバケツは倒れており、当然、中身は空っぽだ。

 力を振り絞って、釣られた魚は逃げたのだろう。


 もしくは先に逃げたタコが戻ってきて、釣られた仲間同士の縁で救い出したか。

 その可能性もあった。


「プリムム、目は覚めた?」

「お風呂に入ったら、なんとか」


 寝起き後にお風呂に入らないと気合いが入らないらしいプリムムを待っている間に、先に調査を開始していたので、こうして合流した今、やっと相棒の参加だ。


「さて、とは言え、調査をすると言ってもなにから手をつければ……」


「とりあえず、隅々まで見てみるしかないわよね。目的を明確にしましょう。

 第一に、消えたセイナンを救い出す。第二に、太陽光に当たると体が消滅する仕組みを解明する。——便宜上、順列をつけたけど、どちらが優先でもいいわ。

 二を解明しないとセイナンは助けられそうにない気がするし……」


 おれもそう思う。


 目的を整理したことで、道は分かった。

 後はどう道が分岐し、目の前に障害が立ち塞がるか、だ。


 どんな道を通ろうとも、最終的に目的が果たせていればそれでいい。


「おれは船首側から見てみる。プリムムは後ろ側からお願い」

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