第22話 昭和台中市~梅ヶ枝町今昔:後壠子へ続く道

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、初顔合わせで見事に意気投合した主人公の阿貓と羅蜜容の二人が、二度目の探訪で向かった梅ヶ枝町。「ヶ」の字が漢字ではないことから、台湾のサイトではよく「梅枝町」と記載されていますが、当時の正確な表記は「梅ヶ枝町」でした。


 日本時代の梅ヶ枝町は、台中市の北の端。遊郭のある初音町と若松町を越えた更に先で、当時はまだ大字後壠子との境界もはっきりとせず、昭和8年(1933年)の火災保険地図に至っては図の範疇に含まれていません。

 町域が定められた段階ではまだほとんど人家もなく、昭和になってじわじわと後壠子方面から、より市街地に近い梅ヶ枝町への進出が始まった、それが日本時代の梅ヶ枝町の状態でした。


 当時この辺りに位置していた店舗の情報はないのですが、病院情報が一軒だけ資料に見て取れます。安生醫院という病院が、梅ヶ枝町25番地にありました。

 この病院を開いた陳螺医師は、公學校卒業後、働きながら学費を貯めてはキャリアアップし、ついには日本留学を果たして昭和7年に昭和醫學專門學校を卒業した人物でした。その後は帰国して台中の林水源醫院に勤め、昭和9年に開業したばかりです。明治31年(1898年)生まれなので、36歳の誕生日一月前の開業でした。

 この病院が何科の病院だったのかはわかりませんし、今、この辺りにそれらしい病院はないようです。

 梅ヶ枝町25番地が今で言ういったいどの辺りだったのかもまったくわかりません。


 「梅ヶ枝町24番地、25番地」と通称されていた場所はあるのですが、これは範囲が広すぎて、本来の意味の番地ではなかった模様。梅ヶ枝町と後壠子の境界だった五權路と、櫻橋通だった臺灣大道、原子街と太平路で囲まれたあたりで、よりピンポイントには、若松町通(中華路)を越え、梅ヶ枝町との町境だった中華西街をも越えた先で櫻橋通(臺灣大道)から派生する路地、臺灣大道一段613巷が24番地で、臺灣大道一段622巷が25番地でした。ここは日本時代から戦後に至るまで台湾人にとっては馴染みの、やはり私娼街です。

 初音町遊郭の柳川沿いにある台湾店街が、藝妲を置く台湾料理店であり、樂舞臺と合わせて社交の場となっていた一方で、梅ヶ枝町のこの辺りはあくまでも遊郭からはみ出た非公認の岡場所でした。

 初音町遊郭の貸座敷がカフェー営業を始めるようになった昭和になると、この辺りでもカフェーやダンスホール、キャバレーといった新しい業態の店が増え、風雅な藝妲街や和風な初音町遊郭とは一味違うモダンな歓楽街として発展します。

 戦後、櫻橋通が中正路と名を変えるとこの辺りは元初音町遊郭とひとくくりにされ、中正路端の風化區として名を馳せましたが、1979年の台米断交による在台米軍の撤退や陸軍干城營區の高雄への移転で客を失い、それ以降は衰退していきました。


 もう一つ、この辺りで存在が判明しているものは、火葬場。

 明治45年(1912年)の1月に起工し2月に完成したこの火葬場の利用者は主に日本人で、台湾人はまだ土葬が中心でした。『台中市概況』によると昭和6年(1931年)の利用者は、日本人が185名に対し、台湾人は52名と、敷島町の公共浴場の利用者とは全く真逆な利用状況が浮かび上がります。昭和10年(1935年)になって台湾人利用者数が133名と急に増えるのは、これは恐らくこの年の4月21日に発生した新竹・台中地震の影響でしょう。

 この地震では台中市街地の被害は少なかった代わり、北側の豊原郡にかなりの被害が出ました。全体的には農村部に於ける日干し土煉瓦製住宅の倒壊被害が大きく、全壊戸数は新竹州側が12313戸、臺中州側は5522戸とかなりの差があります。これ以降台湾人にとっての人気の建材が日干し土煉瓦から焼成煉瓦へと変化していくきっかけにもなった地震ですが、死者数は新竹州が1369人に対し、臺中州は1910人、更にそのうち豊原郡が1494人と突出しています。

 これは地震発生時刻が朝六時二分だったためで、客家人による農業従事家庭が多かった新竹州では倒壊した家屋内に既に住民がほぼいなかったのに対し、台中市に近い鉄道駅周辺の地域として商売に従事する福建系の住民が中心だった豊原郡では、倒壊した2743戸の家の中で住民がまだ就寝中でした。

 この年に於ける台湾人死者数自体が急増したことが、火葬場の台湾人利用者数をも押し上げたのだとみてまず間違いないでしょう。台湾の4月は既にかなり暑いことを考えると、豊原の遺体を受け入れて火葬した可能性もあります。


 この火葬場の住所は不明ですが、昭和11年度の屎尿処理計画区域図に位置が記載されているため、位置を割り出すことができます。

 この辺りは柳川の流路が当時とは相当に変わっているのですが、柳川を渡ってすぐの湖北街が、当時は川を渡る橋のある道で、橋の位置は光大街との交差点付近でした。この橋を渡ってすぐが火葬場の位置なので、光大街と太平路、五權路、柳川西路に囲まれたエリアの中央部分辺りが火葬場の所在地だったと思われます。

 この火葬場が現在の東興市場だという記述がたまに見受けられますが、これは恐らく『臺中文學地圖:走讀臺中作家的生命史』という本に、作家の楊逵さんが開拓していた「首陽農園」について「今日の東興市場や五權國中付近の梅ヶ枝町99番地」という記述があるのを、「今日の東興市場で、五權國中付近の梅ヶ枝町99番地」と誤読したことによるものかと。

 楊逵さんは昭和10年に台中へ引っ越してきてからしばらくの間、梅ヶ枝町を転々としています。最初は梅ヶ枝町7番地に住み、53番地に引っ越し、次は後龍仔齋堂付近に移り、昭和12年(1937年)から梅ヶ枝町99 番地で土地を借りて「首陽農園」を始めました。火葬場はこの農園の入口付近にあったそうです。


 また大正橋通と榮橋通の延長線に挟まれて建っている「臺中師範學校附屬公學校(今の國立臺中教育大學附設實驗國民小學)」も梅ヶ枝町でした。昭和3年(1928年)の創立当初からしばらく所在地は師範學校と同じ川端町扱いでしたが、昭和7年(1932年)からは梅ヶ枝町と記載されています。

 創立翌年の昭和4年(1929年)には高等科を増設。日本時代に於いては校長は代々、師範學校校長との兼任でした。

 戦後は高等科を廃止し、校長の兼任制も廃止。1968年からは9年制の学校となり、今に至っています。


 後壠子在住の詠恩は通学時、この学校と師範學校の間を通る道を南下して大正橋通へ出、そこから更に南下して、明治町通へ入っていました。

 『綺譚花物語』第一作目の『地上的天國』で主人公の一人である蔡詠恩が生前に住んでいただろうエリアの横を通る大きな通りは櫻橋通なのですが、この通りを大正町通まで南下した場合、梅ヶ枝町の岡場所と若松町及び初音町の遊郭の、それぞれ真横を通過することになります。これを避けるため、臺中高等女學校への通学時、家を出た詠恩は梅ヶ枝町を西に進んで附屬公學校と師範學校の間を通る道を南下し、人通りの多いバス通りである大正橋通を使っていたのです。


 さて、ここからは現代の台中。

 阿貓と蜜容が訪ねた五府千歳保安宮は「台中市保安宮」という呼び名の方がポピュラーなようです。後壠子の均安宮で書いた「様々な姓を持つ王爺公(千歲とも言う)」のうち「吳府千歲」「李府千歲」「池府千歲」「朱府千歲」「范府千歲」、つまり五体の「千歲」を祀っているため、「五府千歳」の祀られている「保安宮」で「五府千歳保安宮」となります。

 「保安宮」というと宋の時代の医師「吳夲」さんが死後に神となった「保生大帝」を祀る廟だという印象がありますが、王爺公のご利益にも疫病除けがあるので、そこからきた廟名かと思われます。

 1940年代に台中市郊外の沙鹿からこの辺りにやってきた黃という商人がいて、この人物が手に「黑令旗」を持っていました。この旗は、神々が巡行する際に用いる旗で、不浄を払う作用があります。神懸かりした状態で「自分は朱王爺で、この男の身体を借りて降臨し、この地の住民に道を示そうとしているのだ」と主張するその男を最初は誰も信じませんでしたが、この童乩は実際にトラブル解決に於いて比類なき神威を発揮したため徐々に信仰が集まるようになりました。付近の住民たちは1951年に朱王爺の像を彫って今の廟がある近くの民家にこの像を安置し、その翌年、今の場所に最初の廟を建てています。

 その後、1953年に朱王爺のお告げがあり、李王爺、池王爺も祀ることになったため「三府王爺」と呼ばれるようになります。さらに1954年に再び、今度は吳王爺、范王爺も祀るようにとのお告げがあったため、「五王」と呼ばれるようになりました。その後、改めて五王爺の大きな神像を彫り直し、これ以降「代天府五千歲」とこの廟は呼ばれるようになりました。その後1956年に「保安宮」として登記され、今に至っています。

 最初の朱王爺降臨の際の黑令旗は臺中市龍井區にある水裡港福順宮の旗だったため、朱王爺はこの廟の朱王爺を勧請したものですが、残る四王爺は台南市麻豆區にある五王廟の麻豆代天府から勧請しています。

 1991年からは廟の建て直し工事が行われ、1995年に現在の廟が完成しました。


 虎爺の写真を撮り終えた阿貓と蜜容は「五府千歲保安宮傍の路地にある看板の出ていない紅茶屋台」に向かいます。これは廟の脇の原子街90巷を北上し、篤行路81巷と交差する部分の角地にある「原子街阿明紅茶冰」とのこと。店のどこにも看板が出ていないのですが、グーグルマップには確かにこの店名で登録されている、という不思議な店。


 そして梅ヶ枝町にはもう一つ、虎爺のいる廟があります。

 英士路と光大街の交差点角地にある景聖宮(蘇府三王爺廟)の建立は1970年代。ここの王爺は彰化の古都、鹿港にある鹿港景靈宮から勧請された蘇府三王爺で、唐の時代に金門島の開墾を行った蘇永盛將軍に由来する蘇王爺(大王爺)と、その義兄弟の二王爺、三王爺が祀られています。

 この辺りの周という家が勧請して祀っていたところ、この地に廟を建てるようにとのお告げが王爺からあり、地主との交渉が始まりました。しかし地主はなかなか首を縦に振らず、交渉は行き詰まります。結果、蘇王爺自ら老人の姿になって地主と直接交渉しましたが、この交渉もその時は決裂しました。しかしその際に不思議があったことで、地主も神威を感じてようやく土地を売ることに同意した、という話が伝わっています。現在の廟は1985年に建ちました。


 楊双子先生お勧めの台中の味『『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』に登場する「李海魯肉飯」があるのは、「原子街阿明紅茶冰」から景聖宮へ向かう途中。原子街と篤行路の交差点角地です。

 日本に於いても昨今ポピュラーな存在になりつつありますが、ガチな台湾好きであればあるほど、主に肉のサイズについて「これは魯肉飯じゃない」的反応を示すことが増えるこのメニュー。ご当地台湾に於いてはさらに地域によって魯肉飯の形態にも差があるため、「如何なる料理を以て魯肉飯を名乗るか」という魯肉飯のアイデンティティにまで踏み込んだ大戦が勃発しがちだとか。つまりお好み焼きに於ける大阪広島大戦みたいなことが台湾でも起こっている、と。

 そして誰もが「マイベスト魯肉飯」を心に抱いていて、楊双子先生の場合、それはこの店の「魯肉飯」。大きなお肉がドーンと載っているタイプです。

 さて、台北から台湾に入門した私から見ると、そもそも私が認識する魯肉飯とは~~(以下中略)、取りあえずしっかりと味の付いたお肉がご飯の上に豊富に(ここがポイント)載っていてつゆだくであれば、あとはバリエーションとして片付けていい気が(マイベスト魯肉飯が今のところマイベスト控肉飯な人の意見)。ただしお肉の歯ごたえが欲しいので、できれば粗びき挽き肉、贅沢を言うなら刻み肉で(と言いつつ青葉の缶詰は買います。あれは卵ご飯のタレ代わりに使うと最高)。

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