34 ヤマネコを拾う

 ブーツについた泥を落とし、手をすすぐと二人は木陰に座り昼食をとることにした。リリナは水筒から注いだ紅茶をイルヴァに渡すと、自分も一口飲んで小さく息を洩らす。


 イルヴァはバスケットにぎっしり詰まったサンドイッチを見ると目を輝かせた。どうやら彼女は高級食材を使ったフルコースよりも素朴な手料理に惹かれるらしく、食事の好みはグリンによく似ていた。

 満足そうに食事を終えたイルヴァがリリナに話しかける。


「とりあえず初日の修行はこれくらいにしておくか。リリナには正直驚いているよ」


「本当に出来の悪い教え子ですみません……」


「いや、そうじゃない。リリナの持つ底の見えない魔力の量にさ」


「褒めてくれているんですよね? 私、体力にだけは自信があるんですけど、魔力も多かったんですか? でもこの有り様じゃ素直に喜べないです」


「立派な才能の一つだよ。早くその無尽蔵の魔力を自在に扱える時が来るといいんだが、今日の様子では反復が必要な段階にはまだ達していないんだ。今、焦って修行の量を増やす意味はないな」


「うぅ、なんだか自分が情けなくなります。イルヴァさんの貴重な時間を使って貰っているのに……」


「負い目に感じることはないよ、リリナを指導するとその度に私にも新しい発見があるからな。──おや、近くで動物の声がしないか?」


「本当ですね。猫のような……。そういえばエルツの森にはヤマネコが生息していると母から聞いたことがあります。私も実物はまだ見たことはないですけど」


「そうなのか。どれ、リリナが顔を出すと逃げてしまいそうだから私が見に行って──と思ったら向こうから出てきたな」


 こっそりと姿を見せたのは銀色のヤマネコだった。大きさは一般的なネコよりも一回り大きく、しっぽと手足もふっくらとしている。ふさふさとした長毛でピンと立った耳が特徴的だった。


 愛らしい生き物に目が無いリリナは居ても立っても居られなくなる。


「か、かわいい~。おいでネコちゃん、怖くないですよ~。なぁんて、来てくれるわけないか……」


 そっと這うように近づきリリナが諦め半分で腕を広げると、なんとヤマネコはとことこと歩いて近寄ってきた。


(やったぁ! イルヴァさん! この子逃げませんよ!)


 リリナは声を押し殺すが興奮を隠せない。ネコはリリナの伸ばした手の臭いを嗅ぐと、大人しくちょこんと前足を揃えて座った。リリナはうずうずしながらイルヴァを仰ぎ見る。リリナに反してイルヴァの表情は固かった。


「ヤマネコが人に懐くことはあまりないはずだがな。構いたくなる気持ちは痛いほどよくわかるが、その子が今後も野生で過ごしていくなら私達はあまり関わらない方がいいんじゃないか?」


「……そうですね。それじゃあ一撫でだけ。元気でね、ネコちゃん」


 リリナに頭を撫でられたヤマネコは頭を手に押し付け嬉しそうに目を細めた。その愛らしさにリリナは後ろ髪を引かれる思いだったが、苦渋の思いで立ち上がる。イルヴァと共に帰路に就いた。


「はぁ、可愛かった。また会えるといいなぁ、って、ネコちゃんにとっては良くないのか、難しいですね。……あら? どうしましょう。あの子私達の後をついてきますよ?」


「……どれ、今度は私が調べてみる」


 目を細めたイルヴァはリリナを制すると、こちらに向かって歩いてくるヤマネコの方に歩み寄る。逃げる様子がないことを確認すると注意深く足元の猫を抱きかかえた。


(おや? 魔力は感じないし、操られているわけでもない。本当にただのヤマネコなのか?)


 イルヴァと見つめ合う山猫は高い声でミャアとひと声鳴いた。


「リリナ、この猫は……」


 やっとリリナにも事情が呑み込めた。グリンが竜であることは世間には知られていないはずだが油断はできないのだ。大いなる力を悪用しようとする存在がどこかに居てもおかしくはない。もしかしたらこの可愛らしい生き物は私たちにとって歓迎できない存在なのかもしれなかった。


「実に愛くるしいな。それに毛色がグリンの髪の色とよく似ていると思わないか」


「へっ!? ああ、確かにそうですね! 私も触ってもいいんです……よね? やったぁ! そうだ、グリンにもこの子を見せてあげませんか? あの子動物好きですから」


「ああ、このネコが良ければそうしようか。お前さん、どうする? 私達と一緒に来るか?」


 イルヴァは抱き抱えたヤマネコをそっと地面に下ろすとその場から一歩下がる。距離が離れるとネコはひと声鳴いて再び足にすり寄ってきた。これには普段冷静な女王様もたまらない。


 すっかり骨抜きにされたリリナとイルヴァは背後のヤマネコに合わせて歩く速度を落とし、何度も振り返りながら我が家に辿り着いた。グリンの待つ玄関とここまでついて来た人懐こいネコを順に見て、二人は顔を見合わせて微笑んだ。



「ただいま! 今日の魔法の修行が終わったよ~ そ・れ・と──ほら!」


 慌ただしく荷物をソファーの前のテーブルに置いたリリナは流し台で料理をしているシトラと肩を並べるグリンを玄関へ手招きをする。


 ヤマネコを抱えながら家の中に入ってきたイルヴァを見てグリンの目は驚きに見開かれた。

 グリンは躊躇いながらイルヴァに近寄ると彼女の腕の中に納まるネコの頭をそっと撫でた。銀色の毛並みのヤマネコは大人しく、全く暴れる様子はない。

「抱っこしてみるか」というイルヴァの問いにグリンは頷くと愛おしそうに山猫を胸に抱いた。確かにグリンの髪色とヤマネコの毛色はよく似ている。


 魚の下処理で手が離せなかったシトラが一段落ついて振り向いた先には驚きの光景が広がっていた。


「ああ! まさか! グリン君とネコちゃん!? まさに愛くるしいの競演! この破壊力は危険ですわ!」


「……確かにな」


 イルヴァのつぶやきは興奮している三人の耳には届かなかった。

 ソファーに座ったグリンの太ももの上でヤマネコは大人しく丸くなる。その毛並みをグリンは優しく撫で続けた。


「ちょうど良かったですわ。川で沢山魚が獲れたのでその猫さんにも差し上げましょう」


「わぁ、大漁だね。近くの川に行ったんだ。余ったら秘伝のたれがあるから、漬けて冷蔵箱に入れておけば明日も美味しく食べられるよ」


「まぁ、魚ならこちらも斬新な方法で沢山獲ったがな」


「イルヴァさん!」


 リリナが顔を紅く染めるのを見て不思議そうな顔をするシトラの袖をグリンが引っ張る。


「シトラ、猫にあげる魚には火を通してあげて」


「グリン君は本当に優しいですわね。ええ、素焼きにしておきます。私とグリン君との共同作業で獲った魚ですから美味しいに決まっていますから。リリナ、火の魔石は足りているでしょう?」


「うん。私たちの分はまず塩焼きにしよう。それとトマトを素にソースを……」


 シトラとリリナは高熱を発する火石の上の鉄板の前で調理を始めた。

 グリンと並んでソファーに座ったイルヴァは顎に手を当てながら言葉を漏らした。


「二人ともすっかり仲が良くて結構だ。さて、この子も呼び名がないと味気ないな。せっかくだし名前を付けるか、グリンに案はあるか?」


「……フラン」


「ミャア!」


 グリンのつぶやきに膝の上の猫が返事をするかのように短く鳴いた。


「ふふ、どうやら気に入ってくれたみたいだな。よし、この猫はフランと呼ぶことにしよう」


 グリンは頷いて太ももの上の猫に視線を落とす。イルヴァは微笑むと慌ただしい料理の準備を覗きに行こうと立ち上がった。

 グリンは静かに目を閉じて考え事を始める。いつの間にかヤマネコを撫でる手が止まっていた。

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