24. 大いなる代償

 ポロン! 『×100000』。


 ついにやってきた、前人未到の十万倍。


 ベンは真っ青な顔でユラリと立ち上がると、魔物たちの方に腕を伸ばした。


 と、いっても、病人がよろよろと手を伸ばしたようなとても頼りない仕草だった。


「ファ、ファイヤーボール……」


 ベンはボソッとつぶやいた。


 ベネデッタは耳を疑った。ファイヤーボールとは子供が練習に使う初級魔法で、魔物をたおすのに使えるようなものじゃなかったのだ。


 しかし、いきなり数十メートルの超巨大な円が魔物に向けて描かれ、不気味に赤く光り輝いた。


 えっ?


 周りの人は何が起こったのか分からなかった。


 やがて円の内側には六ぼう星が描かれ、ルーン文字が精緻に書き加えられ、さらに小さな円が数十個、円の中に描かれ、そこにも六芒星とルーン文字が書き込まれていった。


 いまだかつて誰も見たことのない魔法陣だった。その圧倒的なスケールの魔法陣から灼熱の巨大な球がゴゴゴゴと腹に響く重低音を放ちながら生み出されていく。


 魔物も兵たちも一体何が起こったのか分からなかったが、極めてヤバい事態が進行しているのではないかと皆、青ざめた顔で冷や汗を浮かべていた。


 直後、巨大な炎の球は激しい閃光を放つと吹っ飛んでいって魔物の群れの真ん中に着弾する。


 天と地は激しい光と熱線に覆われ、直後、衝撃波が辺り一帯を襲った。


 ズン!


 城壁は倒れんばかりに揺れ、街道の木々は吹き飛んでいく。


 うわぁぁぁ! ひぃぃぃ!


 兵士たちは皆倒れ込み、まるでこの世の終わりのような圧倒的なエネルギーの奔流ほんりゅうに恐怖で動けなくなった。


 やがて、巨大な灼熱のキノコ雲が辺りに熱を放ちながら上空へと舞い上がっていく。その禍々しいさまは、まるでこの世の終わりかのようであった。


 熱線で蒸発した麦畑には巨大なクレーターが出現し、魔物など、一匹も残っていない。ただ、荒涼とした死の大地が広がるばかりだった。


 兵士たちは高く舞い上がっていく赤黒いキノコ雲を見上げながら、魔物よりはるかに恐ろしい圧倒的な暴力に、恐怖でガタガタと震える。もし、あの魔法陣がトゥチューラに向けられていたら一瞬で街は吹き飛んでしまっただろう。


 騎士団顧問の少年ベン、その名は圧倒的恐怖の象徴として兵士たちの胸に刻み込まれたのだった。


 ベネデッタもベンのすさまじい魔法に圧倒されていたが、横でベンが倒れてとんでもない事になっているのに気が付いた。


 ブピュッ! ビュルビュルビュ――――。


 ベンは意識を失い痙攣けいれんしながら肛門から異様な音を上げていた。それはまるで先日の勇者の姿を思い出させる。


「ベン君! ベン君!」


 ベネデッタは声をかけるが、ベンは反応しない。


「救護班! 救護班、急いで!」


 ベネデッタは叫び、ベンは毛布にくるまれ、担架で運ばれていった。



         ◇



「あ、あれ? ここは……」


 ベンが目覚めると清潔な真っ白な天井が見えた。


 そして横を見るとベッドの脇には美しいブロンドの髪に透き通るような美しい寝顔……、ベネデッタだった。ベンの手を握り、うつらうつらしている。


 えっ!? これはいったいどういうこと?


 ベンは焦って記憶を掘り返す。確か魔物の群れに向けてファイヤーボールを放ったような……。そこから先の記憶がない。


 えっ!? まさか!?


 ベンは急いで自分のお尻をチェックする。乾いた高級なシルクの手触り。誰かに着替えさせられていた。これは暴発を処理されたということを意味している。


 やっちまった……、うぁぁぁ……。


 ベンは頭を抱え、毛布の中で丸くなった。


 今まで、どんな時でも最後まで死守した肛門。しかし今回ついに突破されてしまったのだ。


 ベンはその底知れない敗北感に気が遠くなっていく。


「あ、気が付かれましたの?」


 ベネデッタが起きてニコッと笑った。


「はっ、はい! こ、ここは……どこですか?」


 ベンは急いで体を起こし、冷汗を流しながら聞いた。


「ここは宮殿の救護室ですわ。城壁でベン君、倒れちゃったからここに運ばせましたの。それで……、シアン様からすべて聞きましたわ」


「えっ!? 全てって……もしかして……」


 ベンは真っ青になる。便意を我慢して強くなるなんて、絶対女の子には知られたくなったのだ。


「そんな辛い目に遭っていたなんて、あたくし、全然知らなくて……。ごめんなさい。トゥチューラのために……、ありがとう」


 ベネデッタはそう言ってギュッとベンの手を握った。


 その言葉にベンの中で何かがせきを切ったようにあふれ出し、思わず泣き崩れた。


 ひぐっ! うぅぅぅ……。


 ベンの目から大粒の涙がぽたぽたと落ちた。


 ベネデッタは心配そうにそんなベンをハグし、


「辛かったですのね」


 と、言いながら優しくベンの頭をなでた。


 ベンはうなずき、今までの苦しい便意との戦い、理解されない孤独で凍り付いてしまっていた心がゆっくりと優しく溶けていくのを感じていた。


 ふんわりと立ち上る優しい甘い香りに包まれ、ベンは温かいもの満たされていく。


 思い返せば前世のブラック企業で延々と深夜まで激務をこなし、文字通り命を削っていたのだが、感謝されたことも謝られたこともなかった。どこか『自分なんてどうせ』と卑屈に思い、低い自己評価でそんな状況を受け入れてしまっていたのだ。しかし、そんな状況が続けば、心が硬直化してしまう。ベンの心は死にそうになりながらずっとこれを待っていたのかもしれない。


 ベネデッタの思いやりのこもった一言は、前世から続くベンの心の奥底のひずみを優しくゆっくりと癒し、ベンはとめどなく湧いてくる涙でトラウマを洗い流していった。


 ポトポトと自らの服に落ちる涙を、ベネデッタは厭うこともなく、ほほ笑みながら優しくベンの背中をなで続けた。

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