第2話 甘くて苦いちょこれえと

 若菜わかなを抱いて見世の中に戻ろうとした千早ちはやの背に、低いところから声が掛かった。


「……千早、千早」


 振り向いても、人の姿は見えない。ただ、声にはまたしても聞き覚えがある。嫌な予感を覚えながら、千早は低い位置も視線を走らせ──草葉の影に金茶の毛並みが見え隠れしているのを発見した。猫の毛よりは固そうだけど、それでもふんわりとして美しい──狐の、毛皮。


「……里見さとみさん、ですか?」


 呼び掛けると、その狐はてふてふと小さな足音を立てて全身を露にした。千早の前にちょこんと座った彼の毛皮は、ところどころ焦げて禿げている。前に見たふっさりとした尻尾も、ずいぶんと萎んでしまっているようだった。


「ああ。みっともない姿で悪いがね。お宅の楼主様がやったことだからねえ」


 尖った口に牙を剥いて唸る里見の言葉を聞いて、千早は悟る。朔は、このあやかしにも容赦しなかったのだ。あの日の花蝶かちょう屋からはいつの間にか姿を消していたから素早く逃げたものだと思っていたけれど、狐の逃げ足よりも炎のほうが速かったらしい。


(可哀想だけど、油断は禁物、よね?)


 何しろ一度騙されているから、可愛らしくも哀れっぽい獣に近付く気にはなれなかった。若菜をしっかりと抱え直して、千早は里見から距離を保とうとする。


葛葉くずのは姐さんはまだ怒ってますよ。お引き取りになったほうが良いです」

「ああ……そうだろうな」


 里見は、苛立たしげに前足で地面を掻いた。狐の姿なら可愛らしいけれど、騙されてはいけない。洋装の男が同じことをしているところを思い浮かべれば、印象はまるで変わるのだから。


 千早の冷ややかな目つきに気付いたのか、里見は──狐なのに──甘えるような猫撫で声を出した。渋江しぶえ子爵に対峙していた時を思い出させて、揉み手をする人間の男の姿が見えるようだった。


「でもね、葛葉は子猫どもを可愛がっていただろう? 妹分を連れてきてやったのは私の力添えがあってのことだ。そこのところを伝えてもらえないかねえ?」

「……お嬢様を連れて来たのは、貴方だったんですか……!?」

「ああ。そうとも」


 里見が得意げに髭を動かしたので、千早は声を上げてしまったことを後悔した。


(本当かしら。私がいて、瑠璃るり珊瑚さんごがいるんだから、じきに入って来れたんじゃ……)


 寿々すずお嬢様も若菜も、月虹げっこう楼にはしっかりと縁があるのだから。多少は迷うかもしれないけれど、あやかしの世に入り込むことは十分にできそうに気がする。……でも、里見は千早の疑念を読み取ったかのように言い添えた。


「猫を抱えて、きょろきょろしていたからねえ。あの花蝶屋の娘だ、後ろ指さされちゃ気の毒だろう?」


 今の吉原で、寿々お嬢様の身元が知れたら口さがないことを言う者がいそうだ、というところは確かに頷かざるを得なかった。それなら、千早はこの狐に借りがあることも認めなければならない。


「……姐さんに伝えても、良いですけど」


 渋々ながら、の口調が気に入らなかったのだろうか。里見は、焦げた尻尾を激しく振って地面を叩いた。耳もぴんと立って──怒っているのだろうけど、どうも瑠璃や珊瑚を思い出してしまうから迫力がない。


「あとは! 渋江子爵は、養子を迎えることにしたそうだ。だからあんたが狙われることはもうないはずだ。養子殿からすれば、爵位がもらえたほうが嬉しいし、娼妓の娘を妻にするのはご免だろう。万が一子爵の気が変わっても、止めてくれるだろうさ。……どうだ、安心しただろう?」

「ええ、まあ……」


 渋江子爵のことは、正直言ってそこまで心配してはいなかった。千早はこちら側──あやかしの世に腰を据えたのだし、百鬼夜行の噂も広まっている。お偉い人は醜聞を嫌うだろうから、これ以上の動きはないだろうと言うのが朔や姐さんたちの読みでもあった。


(でも……意外と、気を遣ってくれたのかしら……?)


 もちろん、第一には葛葉の機嫌を取るために、まずは千早を懐柔しようということなのだろうけど。彼女のために子爵家の内情を探ってくれたことに対しては、ちゃんと御礼をしなければならないだろう。


「えっと、ありがとうございます。……この子を皆さんに紹介したいので、失礼しますね」

「あ、おい……!」


 若菜を抱いて背を向けようとした千早に、里見は慌てたようにぴょんと跳ねた。狐の姿だとやっぱり可愛いとしか思えなくて、思わずくすりと笑ってしまう。朔の怒りを恐れて追っては来れないことも分かっているから──つい、揶揄いたくなってしまう。


「葛葉姐さんは、最近は洋装に興味がおありですよ。見られなくて残念ですね」

「何だと!? おい、俺はあんなに勧めたのに!」


 文明開化の波は、ようやく月虹楼にも届いたのだ。白糸しらいと織衣おりえは、ドレスの研究に余念がないし、花魁たちもどんな意匠が自身の美を引き立てるかと、とても乗り気だ。千早にとっても楽しみで、そして、里見にとっては悔しいことこの上ないに違いない。


「あと、ちょこれえとがお気に召したそうですよ。甘いだけじゃない、ほろ苦いのが良いと仰って」


 自棄になったように地面に転がる里見に、思い出したように呟くと、ぴたりと動きが止まった。金色の目が、じっと千早を見上げてくる。ささやかな御礼だと、この目敏いあやかしなら気付いただろう。事実、狐の裂けた口元がにんまりと笑った。


「……なるほど。とびきりの上物を貢いでやろう。じゃあな、千早」


 言うが早いか、金茶の毛皮は風のように素早く千早の前から姿を消した。その足でちょこれえとの調達に向かおうというのかもしれない。


(あの人が味方になってくれれば良いんだけど、ね……)


 葛葉のためにも、見世のためにも。江戸の御代から生き馬の目を抜いてきたという手腕は、きっと月虹楼にも必要だから。お互いに、もう少し信用できるようになると良い──そんなことを考えながら、千早は今度こそ月虹楼の暖簾を潜った。

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