第2話 あやしくも美しく煌びやかな

 珊瑚さんごの黒耳と、瑠璃るりの白耳が同時にぴんと立った。胸がくすぐったくなるほど柔らかそうな、ふたりの耳の桃色の内側は、どうやら天井を向いているようだ。扁桃アーモンド形のぱっちりとした二対の目が、千早ちはやを捉えてにこりと笑う。


「姐さんたちのお目覚めじゃ」

「千早、来なんせ」

「え──何か聞こえたの? 私には、全然……」


 重たげな刺繍の振袖の袂を翻して、ふたりは千早の手を取った。低い位置から引っ張られてよろめきながら、千早は驚かずにはいられない。人の声はおろか、天井が軋む音さえしなかったのに。


 片手で千早の手を引いて、片手で口元を抑えて──互いの鏡像のようにそっくり同じ角度で、珊瑚と瑠璃はくすくすと笑った。


「人には聞こえずともわっちらには分かるもの」

「わっちらは猫だもの。鼠の足音も聞き逃しはいたしいせんよ」

「猫──それは、見れば分かるんだけど。あの、ふたりは猫又なの? 年を取って化けるようになったの……?」


 のっぺらぼうの四郎のように、あやかしとしての名前が分からないのは少し落ち着かない。禿ふたりに露払いをさせる格好も、不遜にも花魁みたい、と思ってしまう。気を落ち着けるため、間を持たせるため、千早が問うと、少し吊り上がった大きな目が、呆れでさらに大きく見開かれた。


「猫又なら尻尾が分かれているでありんしょう」

「猫は、猫でありんすよ」

「だいたい、わっちらが老いぼれ猫などと失礼千万」

「こんなに柔らかい毛だというに」

「ねえ」

「ねえ」


 珊瑚と瑠璃は、顔を見合わせながら可愛らしく憤慨しているようだった。黒と白、それぞれの色の尻尾も抗議するかのようにぺしぺしと千早の手を打っている。


(可愛い……なんて言ったらもっと怒りそうね……)


 二本の尻尾の動きを目で追っていると、思わず頬が緩んでしまいそうになるのだけれど。前を行くふたりには気付かれないように息を潜めて、千早はそっと、見世の二階へと続く階段を上がった。


      * * *


 二階の座敷をひとつひとつ回って、千早は部屋持ちの花魁たちに挨拶をした。朔や四郎が、既に部屋付きの禿や新造に話を通しておいてくれたのかもしれない、珊瑚と瑠璃の拙い説明でも、誰もが心得た様子で頷いてくれた。


「それは難儀だったねえ」

「当分と言わず、いつでも月虹楼ここにいると良い」

「楼主様は女に甘いからねえ」


 女たちが鏡の前でもろ肌を脱いで、髪を結ったり白粉おしろいを塗ったりするのは、花蝶かちょう屋でもお馴染みの光景だった。でも、この月虹げっこう楼はずっと輝かしくて綺羅綺羅しい。

 まずは、衣装や飾りの格が違う。花蝶屋の娼妓だって色とりどりの華やかな打掛を纏うけれど、その色の多くは近年出回るようになった化学染料で作り出されたものだ。職人が丹精した精妙な染めの色、絵師が自ら筆を振るった花鳥風月の幽玄さには及ばない。徳川の御代は遠くになりにけり、と。往事を知る遣り手のおばさんが、時に溜息を吐くのを千早は見てきた。花魁の姿絵を庶民がこぞって買い求め、その着こなしに憧れるのは、もはや遠い過去のことなのだ。


(すごいわ。目が眩みそう)


 それが、月虹楼の二階で装いを凝らす女たちを見ていると、かつての吉原が目の前に蘇ったかのように思える。明治生まれの千早が言うのは、おかしなことかもしれないけれど。眩い金襴緞子の重たげな帯には鶴が舞い龍が躍り、色とりどりの打掛は四季折々の花や鳥、水の流れを切り抜いたかのよう。とろりとした艶の鼈甲べっこうの櫛、七宝が彩る簪、つまみ細工の髪飾りの、細やかで愛らしいこと。どれをとっても、纏うその女を引き立てるためのもので──質流れの品や、顔も知らない廃業した娼妓のお古なんかでは断じてない、贔屓の客が真心込めて見立てたのだろうと窺える。


 それに、何よりも女たちの顔が違う。ここの女たちは、疲れ切っていない。務めを嫌がってもいない。生き生きと伸び伸びと、美しく装うことを心から楽しんでいるかのよう。花魁というのが、身体を売る女のことではなくて、美貌と意気と張りとを誇る高嶺の花だった古い御代なら、きっとこんな風だったのではないだろうか。


(最初からこの見世にいたら──逃げようなんて思わなかったかしら)


 あやかしの世界にも口入れ屋や女衒ぜげんがいるのかは知らないけれど、千早が目に留められることなどないだろう、と思えた。月虹楼の娼妓は、会う人会う人、文字通りに人間離れした美しい人ばかりだったから。


 肌理きめが細かいとか髪が艶やかだとか顔かたちが整っているというだけではなくて、ひと目で尋常の存在でないと知れるのだ。どんな簪よりも輝く、水晶のような角を戴く鬼がいる。青や緑の小さな宝石で、肌を直に飾っていると見えた人は、よく見れば鱗を煌めかせていた。すらりとした身体つきといい、涼しげな目元といい、蛇の化身なのかもしれない。

 長い首に丁寧に白粉を塗るろくろ首もいれば、化粧をしながら後ろ頭の「口」に握り飯を放り込む二口女もいる。夜道でひとりでいる時に出くわしていたなら、悲鳴を上げて腰を抜かしていたかもしれない。でも、可愛らしく物怖じしない禿について行っていると、怖いという感情が湧いてこないのが不思議なほどだった。月虹楼の娼妓が、揃ってにこやかに接してくれるのも理由なのだろうけれど。


 いくつ目の座敷だったろうか、襖を開けると、その部屋の主は顔の真ん中の涼しげなひとつ目を、艶やかに細めて微笑んでいた。


「珊瑚、瑠璃。何の用だえ?」

「新入りに見世を案内しているのでござんすよ」

「わっちらの『妹』分となりいす。どうぞよろしく、お見知りおきを」


 見世が開く前の慌ただしいひと時に押しかけているのは重々承知しているから、千早はなるべく縮こまって端的に挨拶を述べた。誠意は、揃えた手指や低く下げた頭、正した背筋で伝わると信じて。


「大変なご厚意をいただいて、ありがたく思っております。ご用があれば、何なりと──」


 どの座敷でも、千早は緊張に声を震わせて口上を述べて来た。邪魔だどけ、うるさい、と。煙管を投げつけられてもおかしくないところだと思っていたから。花蝶屋の姉さんだったら、客が来るの来ないので、ひとりやふたりは絶対に機嫌を傾けているだろうから。でも──


「いやだねえ、人間の小娘に頼ることなどありいせんよ。良からぬ客に食われぬように、隠れておいで」


 この座敷の主も、これまでの花魁と同じく千早をごく軽やかにあしらった。異形のひとつ目であっても、笑いを含んでこちらを見る流し目は艶やかで、小娘の千早も思わずどきりとしてしまう。


(あれ? 食われる、って……?)


 何か、物騒なことを聞いた気もするけれど。ひとつ目の花魁の濡れた眼差しに当てられて何も聞けないまま、座敷を辞した。


「花魁たちへの挨拶は、これで終わり?」


 廊下に出ても、見世を開ける前の慌ただしい気配は変わらなかった。縁起物の料理や趣向を乗せた台の物を運ぶ若い衆に、三味線を抱えた新造が行き来する。人の──というか、あやかしの──流れを妨げることがないよう隅に寄りながら、千早は珊瑚と瑠璃に問うた。と、ふたりはまったく同じ速さで首を横に振る。


葛葉くずのは姉さんと芝鶴しかく姉さんがおりいす」

「おふたりは、月虹楼の御職の花魁なのでありんすよ」

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