アフリカ戦線

 ギリシャ侵攻に合わせて北アフリカでは枢軸軍がエジプト侵攻を再開。


 海岸沿いの道路はシディバラーニの戦い以後一定の距離毎に設けられた各地の休憩兼補給所の要塞化が進んでいた為、侵攻部隊は最東端マクティラまで十分な補給を受けていた。


 途中の飛行場には旅客機SM.75を軍用機に改造したSM.82が進出。


 水を始めとする消耗品を下ろすと代わりに故障した装備や傷病兵を乗せ後方に下がった。


 チャーチルが北アフリカよりギリシャ救援を優先し陸海空三軍の戦力を引き抜いた事と現地住民の協力もあり作戦は順調に進み、4月には敵将オコーナーを捕虜にする事に成功した。


 伊独両国は敵将を捕虜にした事を喧伝したが、その一報を聴いた一団がスーダン、ハルツームに在った。


 真の独立と王政打倒の意思を胸に秘めたナセルを中心とするエジプト人青年将校団である。


 彼等が所属する歩兵第一大隊は数日後、敗北に驚いた中東軍の命令で最終防衛ラインと定めたエル・アラメイン近郊に展開するよう命じられた。


 だが防御陣地作成は遅遅として進まなかった。


 エジプト将兵の士気の低さやギリシャへの戦力抽出もそうだがインド、豪州からの増援が東アフリカ方面に振り向けられていたのである。


 エチオピアでは今年初頭から英国の扇動で反乱が起きていたが、エジプト=パレスチナから発した非暴力反英闘争によりアラビア方面からの支援物資の紛失や到着の遅延が起こった為史実より小規模だった。


 イタリア軍の装備が史実より強化され、ドイツがエチオピアの代わりにイタリアを支援したので毒ガスを使う程苦戦せず恨みや戦力の損耗が少なかった事やリビアからの空輸が同時期から拡大されていた事も大きい。


 だが反乱が思わしくないと見た英国がソマリランドと並行して国境地帯を奪われたケニアやスーダンで翌2月に同時反攻を実施。


 スーダンではアラブ系現地兵の低い戦意、ケニアでは更に南方の旧ドイツ植民地タンガニーカでアスカリが不穏な動きを見せた為想定以下ではあったがじりじりと補給の乏しいイタリア軍を圧迫し1ヶ月で旧国境まで到達。


 伊海軍は駆逐艦6隻等小艦艇20隻程度しか無い上に、陸空軍と異なり補給も受けられない為正面からの決戦を避けていたが4月3日に母港マッサワが攻撃を受け駆逐艦が全滅。


 魚雷艇が軽巡ケープタウンを撃破したが残存艦艇は自沈か逃走により戦力としては消滅した。


 マッサワを抱えていたエリトリアは4月中に制圧されソマリアも同月中に落ち海岸線を喪失。


 5月までに紅海の物流が回復した。

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