第5話 2015年 ~ヘヴィメタルのためなら…… -5

   2


 スタジオ待合室に漂っている、そのどこか湿り気を帯びた独特の空気は、昔となにも変わらないように感じられた。

 慣れた様子で受け付けを済ませ、颯爽と進む榛原瑠奈に続いて、おれもスタジオ室内へと進む。四つあるうち、二番目に小さな部屋だ。中は細長く奥まで続いており、少し狭苦しく感じる。この閉塞感も、懐かしさがある。

 と、一番奥の方のギターアンプの前に、一人先客がいたようだ。おそらく榛原瑠奈がいっていた『知り合いのギタリスト』なのだろう。


「あら、早いね」

 瑠奈に声をかけられた艶のあるストレートの髪を肩まで伸ばしたその少女は、セーラー服を着ている。部屋を間違えたのか、と反射的に考えたが、瑠奈が話しかけたのだからそうではないのだろう。ギタリストが高校生とは聞いていなかったが、逆に社会人だともいわれてはいない。

 立ち上がり、膝が少しだけ見える程度の長さのスカートの裾をきゅっと両手でにぎったその少女は、きょときょとと視線を泳がせながら、ときおりちらちらとこちらに視線を向け、

「あ、あの」と声を発した。

 あどけない表情と仕草からは予想外なことに、少しかすれていてどこか色香のある声だ。

「あ、姉が、いつもお世話になっております」

 小さく頭を下げたあと、またこちらをちらりと伺い見る仕草からは、警戒の色がありありと感じられた。

「と、いうわけで」

 その間に立つ榛原瑠奈は、背負っていたベースを置いてケースから取り出しながら、

「この前いってたギタリストっていうのは、ウチの妹のことです」

 瑠奈が、唇の片隅だけをあげて、にやりと笑みを形作る。会社では見られない、いたずらっぽい表情だ。


 このバンドのドラムを引き受けたのも会社の飲み会の席で、それも後半、かなりぐだぐだになってきたあとのことだ。つい、過去にバンドをかじっていたようなことを漏らしてしまったのだ。

「それなら、先輩ドラムやってみませんか?」

 やってくれませんか、ではなく、やってみませんか、というところに、彼女の性格の一端が見事に表現されている。丁寧ではあるが、下からお願いしているわけではない。

「ええと、でも、おれがやってたのも、だいぶ昔の話だしな……」

 それに、ドラムをやっていたわけでもないし、という言葉を喉から上がってくる寸前で押しとどめた。それなら、パートはなんだったのか、と訊かれかねない。そうなると、色々とややこしくなる。


 ――もう、二度とギターは弾かない。


 おれのなかではそういうことになっているのだ。

「けっこう本格的にやろうとしているんだろ? おれなんかが入ったら足をひっぱることになってしまうな」

「いいんです」

 と、ちょうど不在だったおれの隣の席に移動してきた瑠奈が、続けてなにかを囁いた。それは、独り言のような声量でほぼ聞き取れなかったが、ヘヴィメタルという単語が耳に入ってきたように感じた。錯覚か、と考えているうちに、愛していること、などという言葉がそれに続いたように思えた。


 いったい何をいったのか、気にはなったが、聞き返そうかどうか逡巡しているうちになんとなくその場は流れてしまった。

 覚えているのは、普段は後ろで一つに結んでいる少し茶色に染めた髪を両方に下ろして、ちょうど胸の近くまで垂らし、癖なのか、その髪の先端を指でいじりながら、ぐびりぐびりと喉を鳴らして、ビールを流し込む瑠奈の姿だ。まともに話をしたのはそれが初めてだったが、彼女が異様な酒豪であることも、そのときに初めて知ることとなった。


「ささ、早くセッティングしてくださいよ……今日は二時間しかとってませんから」

 こちらに背を向けて準備を続ける瑠奈とその妹の間をぬって、ドラムセットに向かう。

 椅子の高さを調整し、何度かペダルを踏んでバスドラムの鳴りを確認する。強烈に体の奥に低い振動が響いてくる。次にハイハットの開きを調整し、持参したスティックで一度鳴りを確かめる。しゃりりん、となじみのある音が耳に届く。

「なにをにやけているんですか?」

 すでにベースのセッティングを終えて、手を腰にあてて仁王立ちしている榛原瑠奈が、こちらを見ていた。

「にやけてた?」

「ええ。にやけてました」

 それはもう、にやにやと、と呟きながら首をかしげる瑠奈は、そのまま自分の妹に目を向け、

「胡桃、まだ終わらない?」

 瑠奈の妹の名前が胡桃、となんとなく心に留める。

 当の胡桃は、もうちょっと、といいながらアンプの設定をいじっては音を鳴らして首をかしげ、今度はエフェクターを調整して、再度音を鳴らして、また首をひねっている。

 ――それは、こっちをいじった方が音がまとまるんじゃないか……

 と、喉までアドバイスが出かかるが、なんとかおしとどめる。

 いろいろな思考錯誤のあと、ようやく頷いた胡桃が立ち上がりこちらに視線を投げてくる。

「すいません。お待たせしました」

 それに対して、スティックを掲げて笑顔で返すと、胡桃の方も、初めて笑顔を返してくれた。そして、ギター本体のボリュームを上げ、一発コードをかき鳴らす――その刹那、おれの体に衝撃が走る。

 脳裏に火花が散り、さまざまな映像がフラッシュバックする。視界が暗転してそのまま意識が遠のきかけたが、必死でつなぎとめた。


 なんだこれは?

 いったいなにが起こった?

 

 振り切るように、一発、スネアドラムを鳴らした。すると、ギターの音がかき消され、少し体が楽になってくる。

「さあ、やってみましょうか?」

 瑠奈も、胡桃も、こちらの異変には気付いていないようだ。しかし、確かに今胡桃のギターの音が響いた瞬間、おれのなかになにか変化が起こった。

 ギターに対する心理的な拒否反応か? と、全く理論的ではないことを思いながら、事前に渡されていた課題曲を思い出し、とにかくただリズムを刻むことに集中した。それ以後は、それほど心が泡立つこともなかった。

 若い女の子にしては珍しく、真っ白なアイバニーズのギターを携えていた胡桃は、たどたどしく、それでもしっかりと泣きのフレーズを弾ききっていた。


 練習が始まって一時間と少しが経過し、疲れが出てきたところで一旦休憩となった。まずは休憩を宣言した瑠奈がベースを置いてすぐに部屋を出て行った。その後、椅子に座った胡桃はまだギターを抱えたまま、ボリュームを絞ってなにかを弾いていた。

 スネアのはね返りを確かめているおれの耳に、ふと聞き覚えのあるフレーズが響いてきた。すぐにはなんの曲なのかはわからなかった。しかし、それが体に染みついているリフであることは反射的にわかった。気が付いたときには、手と足が勝手に反応し、その胡桃のギターに合わせてドラムを叩いていた。


 すぐに、胡桃が驚いた表情でこちらを振り返り、

「今の……」と口を開く。が、それ以上は言葉がつなげない様子だった。

「いや、なんとなく、こんな感じかな、とね」

 笑ってごまかしたおれに、胡桃は、そうですか、と小さく答え、まだなにかを言おうとしていたが、

「じゃあ、おれもお茶でも飲んでくる」

 と、ドラムセットから立ち上がり、そのままドアを出ると、続いて胡桃も出てきた。

 それから、胡桃は一度もそのリフを弾かなかった。

 思わずドラムを合わせてしまった、そのフレーズがなんだったのか、結局最後まで思い出せなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る