第2話 2015年 ~ヘヴィメタルのためなら…… -2

 その先輩は、同じ部署ではあったが、ほとんど会話をしたことがない。確か水瀬春紀、という名前だったはずだ――と、その程度の認識しかなかった。

 後日、色々な先輩に対して彼は何者なのか、ということを訊いてまわったが、結論的には「よくわからない人」ということがわかっただけだった。


 見た目からすると少し年上ぐらいかと思っていたのだが、訊くところによると三十を超えているだの超えていないだの、会社にはもう五年から十年ぐらいいるだのいないだの……。とにかくよくわからない存在なのだそうだ。飲めないわけではなさそうだが、会社の飲み会にはめったに顔を出さない。だから、先日の飲み会で見かけたのは非常にレアなケースだったようだ。


 彼と話したい。でもなかなか声をかけることはできない。

 ときおりだが彼と談笑している他の男性社員を見つけては「水瀬春紀とは何者なのか」と訊きに行くということを繰り返していると、いつしか、榛原瑠奈は水瀬春紀に惚れているのだ、という噂がまことしやかに流れ、それは瑠奈の耳にまで入ってきた。そしてそれはひょっとすると水瀬本人にも知れ渡っているかもしれない。それぐらい大きな話になってしまっていた。


 それならそれで、構わない。

 ヘヴィメタルのためなら、どんな誤解を受けようとも構わない。

 ヘヴィメタルのためなら――。

 考えていると、一曲出来そうな気分になってくる。題名はストレートに『ヘヴィメタルのためなら』。


「そんなに知りたいなら、直接本人に話しかけてみたらいいじゃん」

 同期の女性社員には半ばあきれたような口調で、そういわれたが、

「駄目よそんな。はしたない」

 なにがはしたないのかは自分でもよくわからないが、とにかくそんなことはメタルの神に許されないのではないか、とそういう結論に至っていた。

「まだ、時期が来ていない。そのときにはおのずと話しかけることになるでしょうけど」

 そうに違いない、と思いながらの発言だったのだが、

「は? なにいってるの? 気持ち悪い」

 その後、榛原瑠奈も変わっている、という噂があることないこと尾ひれもつけられて色々な所に回るようになった。

 それならそれで、構わない。

 ヘヴィメタルのためなら、どんな誹謗中傷を受けようとも構わない。

 ヘヴィメタルのためなら――。

 

 榛原家は、父と娘二人の三人家族だ。

 瑠奈が短大に通っていた時期に、父が関東地方に転勤となり、家を出た。ちょうど、就職が決まった矢先のことだった。

 結果的に、榛原家には瑠奈と、その年に中学二年になった妹の胡桃の二人が残ることになった。

 心配する父をあっさりと見送った胡桃は、その後もすくすくと成長し、みるみるうちに瑠奈の身長を追い越していった。


 胡桃が高校に入学してから一カ月も経たず、その事件は起こる。他人にとっては些細な出来事なのだが、瑠奈にとっては十分『事件』だった。

 その日は、仕事の出張から直帰することになりたまたま五時前に帰宅することができた。いつもご飯の準備は胡桃の仕事だったのだが、久しぶりに姉の料理をごちそうしてあげようか、とメニューを頭に思い浮かべながら家に入ると、どこからか音楽が漏れ聞こえてきた。


 珍しく胡桃が早く帰っているのか、と妹の部屋の前で耳をそばだてる。何も聞こえない。と、また今度ははっきりと、奥の方――瑠奈の部屋のほうから、耳になじみのある旋律が聞こえてきた。ひょっとすると朝からオーディオの音楽をかけっぱなしで出てしまったのか、と思い返しながらドアをあけると、そこには妹の胡桃がいた。どこかから持ってきた座布団の上に胡坐をかいている。そしてその膝には、ミニアンプにつながれたギターを抱えていた。

 ちょうど曲は佳境を迎え、ギターソロの場面だった。

 瑠奈が来たことに気づかない胡桃は、目を閉じたままその美旋律を弾ききっていた。

 上手い、という感想がまず出てきた。

 次に、どうして胡桃が? という思考に変わる。流れているのは〈ブラックサバス〉の『テクニカルエクスタシー』というアルバムの二曲目、これぞトニーアイオミというギターソロがある曲だ。そのソロを、本人もかくやというノリを出して、目の前の少女が弾ききっていたのだ。胡桃が。自分の妹が……。


 何がなんだかわからなかった瑠奈は、とにかく後ろから胡桃を抱きしめた。

「うお、お、お――」

 慌てた様子でギターを膝から下ろしてスタンドに立てかけ、

「お姉ちゃん。何でこんなに早いの?」

「ちょっと出張の関係でね」

「あの……これは……ごめんなさい」

 なぜか謝る胡桃に詰め寄り、

「あなた、ひょっとしてヘヴィメタル好きなの?」

「え?」

 きょとん、とした表情でこちらを見据えてきた胡桃が、

「うん。好き」と答え、

「だってカッコいいじゃん」と笑みを浮かべたときには、嬉しさと後悔が入り混じった何ともいえない気分に陥った。

 灯台下暗し。

 親はなくとも子は育つ。

 こんなに近くにいたのに、気づかなかった。

 それにしても、なぜ気づかなかったのだろう。

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