第21話 愛情も関心もない夫婦の仮面

「仮面夫婦? どのような仮面をつけるのです?」

「本当の仮面ではありません。仮面を被って素顔を隠すように、見えない仮面でわたしたちの本心を隠すのです。愛情も関心もない、冷めた夫婦の仮面。わたしたちは想い合っています。けれどそれは、わたしたち二人だけの秘密。他の者には、政治的な目的のために愛のない結婚をすると思わせるのです。自分本位な欲望と悪意を持った人物は、ヴェリニヘルム殿下の幸せを許せないのでしょう? それならわたしはとことんあなたを嫌います。悪妻の仮面を被ってもいい。そうすることで妻として殿下の側にいられるなら、それだけで十分に幸せです」

「あなたって人は……」


 感極まったヴェリニヘルムの手が背中に回され、強く抱き寄せられる。遠慮がちに開けていた距離感が消失し、完全なる抱擁をされる。殿下の大きな手のひらがわたしの後頭部に添えられ、彼の胸にぴたりと顔をつける形になった。

 ヴェリニヘルムの心臓がドクドク……と、もの凄い速さで波打っている。好きな人を肌感覚で感じることのできる幸福に酔いしれる。

 頭上から届くヴェリニヘルムの声が、震えている。


「あなたに嫌われたくない。けれどもあなたの身の安全を守るためならば、冷たい言葉で突き放し、あなたが泣いて去っていこうとも後悔しないつもりでいた。なのにあなたはいつも、予想だにしないことを言う。初めて会ったあの日から、私は振り回されっぱなしです。既にあなたの虜になっているのですから、これ以上私の心を翻弄しないでください」

「ふふっ、まだまだです。他の女性に目がいかないよう、もっともっとわたしの虜になってください」

「その望みはもう叶っている。私はあなた以外の女性を愛することはない。私にとって、あなたは世界のすべてなのです」


 アスリッド姉さんはヴェリニヘルムのことを、「まともな会話ができない。気が利かない。そこら辺に落ちている石ころのようにつまらない。石ころに女を愛する心があるのかしら?」とこきおろした。

 けれど、彼の愛はわたしを世界一幸福な女性へと変える。


(アスリッド姉さんは男性を見る目がないんだわ。……いいえ、正確に言うならそうじゃない。ヴェリニヘルム殿下は姉さんに興味がなかったから、気の利かない態度をとったのだわ。彼の心には最初から、わたしがいた……)


 理性が麻痺するほどの甘すぎる感情。ヴェリニヘルムの情熱的な言葉と体温と心音と芳香と声は、わたしの欲望に火をつけ、その欲望のままに彼に触れたいと願う。

 けれどヴェリニヘルムは無情にも「そろそろベナレンに着きます。馬車を降りたら、本心を隠す仮面をつけなければなりません」と告げた。



 ✢✢✢

 

 

 ヴェリニヘルムは、ベナレンのことを童話のようにかわいらしい村だと話していた。

 馬車を降りたわたしは周辺を見渡して、歓喜の声をあげる。


「三角屋根が素敵ね。おとぎ話の世界に来たみたい!」


 急勾配の茅葺かやぶき屋根と家壁を這うつた植物。玄関に続く石畳と木の扉。レンガでできた煙突からは煙が立ち昇っている。

 おとぎ話に出てくるような家が、緑豊かな自然の合間を縫うようにして点在している。


 侍女のセルマが心配顔で近寄って来て、あたりの様子を探りながら囁く。


「ヴェリニヘルム様は屋敷に入られてしまいました」

「そう」

「大変に差し出がましいのですが……。ユリシス様を待ってくださってもいいのに、失礼ではありませんか?」

「そうね。でもわたし、あの方と一緒に歩きたくないもの。さっさと行ってもらって構わないわ」

「なにかあったのですか?」

「なにかって?」

「馬車の中で気まずい雰囲気になったとか?」

「別に気まずくはなかったわ。ずっと黙っていたし」

「会話をなさらなかったのですか?」

「だって、話が合わないんだもの。つまらないし、顔も苦手だし。一緒にいるのが苦痛だったわ」


 絶句するセルマ。言葉が見つからなかったようで、そのまま押し黙ってしまった。


(セルマは口が堅いから、他の人に話さないでしょうね。ヴェリニヘルムに関心がないことを周知させるために、皆の前でも演技をしないと……)



 今夜の宿泊先は、ベナレン村一帯を治めているダーシュキン子爵の屋敷。大きな屋敷ではないが、よく手入れされている庭と掃除の行き届いている部屋に、わたしは満足した。

 ダーシュキン子爵は朗らかな人物で、わたしを快く迎え入れてくれたが、ダーシュキン子爵の妻はストアディア人が嫌いであることを露骨に顔に出してきた。

 夕食とそれに続く団欒の席で、ダーシュキン子爵とわたしは友好的な会話をした。わたしは温厚なダーシュキン子爵を気に入って、笑顔を混ぜて会話したけれど、ヴェリニヘルムに話を振ることはしなかった。まるでヴェリニヘルムが見えていないかのように、視線も向けなかった。ヴェリニヘルムもまた、わたしを一切気にかけなかった。

 わたしたちの間には見えない氷の壁があるかのように、冷え冷えとした空気が漂っていた。


 翌日。わたしとヴェリニヘルムはさも当然のように、別々の馬車に乗った。

 馬車が動き出してしばらくしてから、侍女のセルマが遠慮がちに口を開く。


「ヴェリニヘルム様とは、まだ日が浅いですから。これから共通の話題ができて、話をするのが楽しくなりますわ」

「そう? ダーシュキン子爵とは会ったばかりでも話が弾んだわ。彼はとってもいい人ね」

「ヴェリニヘルム様は話をするのが苦手なだけで、悪い人ではないように見受けられます」

「そうかもね。でもいい人だからって、好きになれるとは限らないわ」

「そうかもしれませんが……でも……」


 わたしとヴェリニヘルムの仲を取りなそうするセルマ。だが、おしゃべり好きな侍女のブレンダが堰を切ったように捲し立てる。


「アスリッド様が話していた通り、殿下は石ころのような男だと思います! ユリシス様が呆れられるのが理解できます! ノルール人って最悪です!!」

「どうしたの?」

「子爵夫人が、ユリシス様のことを悪くいうのが許せなくて! ストアディア王女は傲慢な顔をしている。殿下が王女を無視したのに胸がスッとする。愛人を作るのは時間の問題だ。悪魔の血が流れているストアディア王女なんか、殿下は相手にしない。政略結婚で仕方なく結婚するだけなんだから、妹の娘を殿下に会わせよう。殿下は姪を気にいるはずだ……」

「ブレンダ! 口を慎みなさいっ!」


 セルマが語気鋭く注意すると、ブレンダは口を閉ざした。

 馬車の中に気まずい空気が漂う。

 誰もが、わたしとヴェリニヘルムは相思相愛だと気づいていない。仕方なく結婚すると思っている。

 わたしは演技が成功していることを嬉しく思った。


 



 


 


 

 

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