篝火焚火は殴るを選ぶ


 絵画技法なるものを私は全く存じ上げない。


 美術の成績はだいたい三だし、小学校ではオールBだった。悪くはないけど上手くもないレベル。好んで絵を描こうという気は起きないので美術部の人達は凄いなぁなどと感嘆するのが日常である。


 だからよければ美術部の人、ないし絵を嗜む方に教えて頂きたい。


 私が見ているこの世界は、一体全体どうなっているのかということを。


「ようこそハイドへ、篝火焚火ちゃん」


 耳に残る音で指を弾いた数秒前のユエさん。瞬きをした私は先程と同じに見える歩道に立っているが、雰囲気が違う。いや、見え方が違う? 全部違う? 駄目だ分からなくて怖くなってきた。


 私は影を見ている。建物の影、塀の影、電柱の影、影、影、影。


 鉛筆で黒く黒く、真っ黒になるまで塗りこめられたような影が建物や電柱を浮かび上がらせている。それ以外は真っ白だ。


 空に浮かぶ雲も、建物の窓も、影があるからそこにあるように見えている。景色はジキルの路地と変わりないのに色がすっかり抜け落ちて、黒と白しか存在しない。


 自分の足元を見て、私だけが浮いている感覚に襲われた。一人だけ色がつき、白紙の世界に浮いている。いや、白紙ではないんだけれども。


 視線がまた世界に向かう。足が路地からゆっくり抜け出していく。


 建物の輪郭がない場所があった。街灯に欠けた場所があった。雲の上部は見えなかった。


 そう、そこには影がないから。


 この世界の主体は影だ。


 影が形を与えて、存在を固定し、まるでそこにあるように見せている。美術の単語を絞り出すならば「デッサン」とでも言えばいいのだろうか。影を描くから白紙にも立体的な物が描かれる。逆に光が当たる場所は描かれないから、無くなった。


 そんな、おかしな絵のような世界。あるのにない。影が示す。影だけが存在を証明する。そんな世界のあやふやさとは、みなまで感じて怖気が立つ。


 二の腕を擦った私は暑さも寒さも感じることがなく、匂いも音も拾えず、この世界には不可視のものはないのだと突き付けられた。


 顎を引いた私の視界に白い毛先が入る。


 ……白い毛先?


 私は自分の髪を掴む。見慣れた黒ではなく、淡く発光しているような白。それが私の髪色だった? 違うだろ。私の髪は黒かった。黒である。染めた記憶なんてないんですが。


「ハイドに来た人間は光源になるの。影の中にある異端、唯一の輝き。全身から光が満ちて、その存在を主張する。髪と目の色は反対色に変わるわ。それらは特別だから」


 ユエさんの指が私の髪に差し込まれ、見せつけるように梳いていく。白髪なんて似合わないだろうに。勝手に味覚や痛覚を奪われたんだから宣言無しの髪色チェンジも慣れねばいけないのか。え、マジで? そんな耐性は持ち合わせていないんだが。


「髪には魔力や神様が宿るなんて言われているし、はたまた地位の象徴とも言われる。とても大事なものなのよ。目も同じ。目には感情がどこよりも現れる。思考を代弁するのが両の目よ。ハイドではこの二つを変色させることでより強い光源となるように仕組まれてるわ」


 肩から落ちた自分の髪を凝視する。その両目も白く変わってるのだろうか。


 鞄から折り畳みの手鏡を出し、映ったのは白髪白目になった見慣れない自分だ。あまりの変貌に気道が狭くなり、一瞬では自分だと判断できなかった。


「あ、焚火ちゃん、見て見て」

 

 軽く袖を引かれ、半ば投げやりな気持ちで顔を上げる。


 そこで気づいた。ユエさんに足があると。


 黒いヒールの綺麗なブーツを履いており、その爪先が私の影と繋がっている。何だコイツ、足生えるのかよ。


 しかし体は浮いているので、やはり化け物に違いない。


 ぼんやりと理解しながらユエさんが示した方へ視線を投げた。そこには、建物の影から滲み出る黒い物体がいる。


 物体はゆっくりと盛り上がった。かと思えば小人のような形をとって走り出す。すたこらさっさ。逃げるように駆け出した。


 見渡せば、そこかしこにある影から様々な形で黒い物体が零れていた。


 虫のように這いずる影が出てきたり、鳥のように飛び立ったり、生物としては例えられない姿で移動していたり。


「あれがバクよ。焚火ちゃん達の世界で零された人の何か、沈殿物、吐露できない感情。全ては異形の形をとってバクになるの」


 背後に立つユエさんが私の顎を細い指で撫でる。


 私の心拍数が上がっていく。


 鞄を抱きかかえた私は、白く光を宿した髪を揺らした。


 瞬間的にバクの動きが止まり、虫も、鳥も、異形も私の方へ意識を向ける。


「あぁ、見つかっちゃった。強い光源の近くに行けば強い影になれるから。やっぱり惹かれちゃうのよねぇ」


 いや、説明するのが遅いんだよ化け物。


 私は脊髄反射で踵を返し、背後から慌ただしく近づいてくるバクを振りきろうとした。なになにちょっと怖い怖い怖い、怖いな! こっちは準備運動もできていないんだがッ


 電灯に群がる虫のようにバク達が私に迫る。その数は影の濃い路地裏に入った頃から徐々に減り始め、私は奥歯を噛み締めた。


「影に逃げるのは得策よ、焚火ちゃん。もしかして知ってたの?」


「なにをですかッ」


「バクは影の中では同化して沈んじゃうってこと」


「知りませんよ!」


「あら~」


 余裕綽々といったユエさんは背後を指さして「バクが減っちゃうわ~」などと嘆くふりをする。彼女は走る私と同じ速度で宙を浮遊しており、本当にくっついた風船のようだ。この化け物が。


 一瞬だけ振り返ると、鳥の形をしたバクが路地裏の影に溶ける瞬間だった。


 口を結んで、息を止めて前を向く。全力疾走する足同様に頭の中は忙しなさで埋まっていた。


 何で消えた、なんで沈んだ。なんでなんでなんで。同化して沈むって、それは影が重なるようなもの? 別の影と重なったから消えた? 自分を保てなくて?


 思い出す。この世界の主体は影なのだと。


 影と影が重なれば、それは一つの影になる。


「残ったのは一体ね、やっぱり人型は執着が強いわ〜。焚火ちゃんの光目掛けて一直線!」


「んな、実況、いりませんけどッ!」


 息も絶え絶えに駆け抜けて、よく知らない児童公園のような場所に飛び出す。それでも私の足は止まらず、ユエさんは口角を上げるのだ。


「焚火ちゃん、相手は一体のバクよ。複数でもなければレリックでもない。いけるわ」


「こっちの準備とか考えてくれないんですか!?」


「そんなの考えてる暇があったら負けちゃうじゃない」


「なに、」


「考えなかったから、あの日の焚火ちゃんは勝てたんでしょう? 怖い怖い化け物に」


「は、ッ」


「いま後ろにいるのも化け物よ。焚火ちゃんが嫌いな化け物。だから貴方は勝てる。内包された悪逆を穿ったことがある貴方は、化け物だけには勝てるはずよ」


 私以上に自信を持って、ユエさんは笑う。


 化け物だけには私は勝てる。私が勝てるのは化け物だけ。


 化け物、化け物、化け物。


 確かに私はストーカーをICUにぶち込んだ。しかし擬態した両親には勝てなかった。勝ったのなんてまぐれだ。たまたまで、偶然だから。


 でもバクに勝てないとレリックなんかには勝てないって分かる。だから私は逃げては駄目なのに。立ち向かわないと、戦わないと、武器を、武器を。あぁ、なにか武器を作って倒さないと、私の願いが果たされないのにッ!


「――殺していいのよ、焚火ちゃん」


 私の冷や汗が落ちていく。


 美しい影法師は、高らかに謳っていた。


「倒していい、潰していい、壊していい! なぜならアレは影だから! 人が隠した感情の成れの果て。誰にも見せない深淵の闇。沈殿した無我の霧! それが貴方ひかりに勝てる筈がない!」


 奮われる熱弁が私の拳を固くする。バクが駆ける気味の悪い音は私の背後に張り付いている。


「アレは光源に寄ってたかる虫同然。だから貴方は光で焼くの、焦がして灰にしていいの。まんまと引っ掛かった浅はかな獲物を捕らえなさい!」


 ユエさんの腕が私の体を無理やり止める。地面を滑ったローファーは熱さを携え、振り返った私の目の前には不出来なバクの手が迫った。


 全身真っ黒。足は三本、腕は一本。頭がおかしなほど大きな、紛れもない――化け物。


 全神経が恐怖を感じ、反射的に前方へ転がる。バクの脇を前転すればひかりを見失った影の動きは鈍くなった。


「アレは貴方を怖がらせる。そんなものは潰してしまいましょ」


 甘い声で囁かれ、私に気づいたバクに恐怖が破裂する。


 重なって見えたのは、あの日、あの時、あの瞬間。玄関の先に立っていた黒い化け物。


「いいのよ、いいの。徹底的に、木端みじんに」


 許されるのか。椅子を振り被ったあの時のように動いても。


 あの日でさえも踏み止まった一歩を出しても。


 倒すでもなく、負かすでもなく、壊すでもなく――


「――殺しなさい。ここではそれが、許される」


 冷え切った体が理性のブレーキを破壊する。


 鼻に蘇った血の香り、耳に木霊した伯母さんの悲鳴、化け物の告白。


 胸に包丁を突き立てた日のように、私は拳を握り締めた。


「アルカナ!!」


 叫ぶそれは魔法の言葉? いいや、そんな綺麗な物とは程遠い。


 これは確かな呪詛である。我が身が可愛い、切羽詰まった呪いの言葉。


 言葉に宿るは想いの重量。だから印は舌にある。多弁でなくとも、雄弁でなくとも、舌はどんな言葉も舐めていく。


 私の両腕に風が集まり、ユエさんが高笑いする。響く声は私の武器を震わせた。


 飛び込んできたバクに向けて、私は右の拳を全力で振りきる。


 拳を後押しするように肘の近くからは突風が噴射され、予想もできなかった速度でバクをぶん殴った。


 地面に激突したバクが跳ねる。


 私は殴った勢いのまま足を踏み出して、バクを追随する。


 私を怖がらせる化け物は、死んでくれないと食えないから。


 死んでくれないと怖いから。


 バクの顔を殴り、再び地面を跳ねさせて、歪んだ体をまた殴る。


 三度目の打撃で地面にめり込んだバクは指先を痙攣させた。それはまだ油断できない証だから、馬乗りになった私はバクを殴り続ける。


 一撃一撃全力で、地面に亀裂が入っても。


 バクの痙攣が止まって、戦意が消えて、呻きが止まったその時まで。


 脱力した私は重たい両手を見て、固く巻きついた銀色の武器を呆然と観察した。


 手の甲から肘の手前までを覆った武器。五本の指も太く覆われ、地面と打ち合わせれば金属音が響く。体躯に比べてバランスが悪いほどゴツく大きくなってるが、これくらい分厚いと安心だ。


 肘の近くには小さな穴が開いている。その穴から風がジェットエンジンの如く噴き出して、私の殴る速度を上げてくれた。


 思いついた私の武器。


 図書館で熟読した防具。


 私を怖がらせる化け物を、殺すための力。


「……籠手ガントレット


 呟いた私は、鋭い爪をバクの胸元に添える。


 真っ黒な影。私を追ってきた化け物。それは生存本能? 条件反射?


 この黒い皮の下には何がある?


 この化け物にも、心はある?


 私の鋭い指先がバクの皮を剥ぐ。果物の皮を剥くようにずるりと引き剝き、鳥の皮のように固い部分は力を入れて引き千切る。


 中からは、何も出てこなかった。


 内臓も無ければ綿もない。皮に詰められていたのは真っ黒な内包物。触れればヘドロのように重たく粘つき、地面に零れていく得体の知れない物質。


 でも、そうだ、これくらい変なものでないと納得できない。


 これだけ変なものが詰まっているからバクなのだ。


 ここに内臓や綿や心があれば、私の内心はささくれだっていただろう。


 だからこれでいい。化け物はやはり、化け物らしい中身をしていて然るべきだ。


 そこで私は拍手と足音を聞く。散漫な動きで顔を上げると、拍手はユエさんによるものだと分かった。だが靴音は違う。誰だ。


「凄いね、君」


 ビルの影から現れたのは、白い長髪の人。艶のある髪が肩口から流れて目も白い。男性らしい喉仏を見て、あれって押すと痛いのかな、なんて思うのは疲れているからだろうか。


 柔和な笑顔を浮かべた彼は確固たる足取りで歩道に出てくる。


 なんだろ、怖い。図書館であった人とは違う。


 この人は、底が深すぎて怖い。


 私は疲れた足で立ち上がり、拳を握る。ユエさんは私の肩を後ろから支え、相手は両手を緩く振った。


「落ち着いて。俺は君の敵じゃないよ。同じ影法師ドールの光源さ」


 彼の後ろに真っ黒な修道服を着た男が出てくる。細い顎や指先は青白くて、目はユエさんと同じ黒い布で覆われていた。髪は橙の強い金の短髪である。


「俺は朱仄あけぼのまつり審判ジャッジメントの光源なんだ……君の名前を、聞いてもいいかな?」


 長髪の男性――朱仄さんに微笑まれる。突き出された舌には黒いの天秤のマークがあり、後ろの影法師ドールは微動だにしなかった。


 私は握った拳を解かずに息を整える。


 答えることは受け入れること。私が、今の私を受け入れること。


 ユエさんの手は急かすことなく私の肩を撫でるから、私はゆっくり言葉を吐いた。


ザ・ムーンの光源、篝火、焚火です」


 舌を突き出し三日月を見せる。朱仄さんは穏やかに微笑むと、両手を広げて顎を上げた。


「――アルカナ」

 

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