ブレインシェイク―微動する和田一という男

@ishizakinobuto

第1話

 地面に横たわるホースがまるで生きているかのように脈打ち、辺り一面に糞尿の匂いを激しく漂わせている光景。

 8ナンバーのバキュームカーは特殊用途自動車の一つに分類される。車両後部には『廃棄物品糞尿』と記載がある。

 一般的に呼ばれるバキュームカーという名称は和製英語であり、衛生車、糞尿収集車、汲み取り車、などとも呼ばれたりもする。

 公共下水道の整備されていない地域は日本全国に数多く存在する。地方都市の田舎町などがその主な例であり、日本という豊かな国で前時代の暮らしを続ける人々も数多く存在している。

 一軒家の裏地マンホールの蓋を開け、一人の男が極太サイズのホースを器用に操っている。

 汚物槽に溜まった糞尿は、極太のホースを通り脈打ちながらバキュームカータンク内へと吸い上げられていく。

「しばれるな~」

 男はしゃがれた声でそう呟いた。

 今は冬の季節であり、辺りには薄らと雪が降り積もっている。厚手のゴム手袋をはめた男はバキュームカー車両に向かい吸引停止ボタンを押した。

 駆動を終えたバキュームカー。脈打つのを止めた極太ホースはタンク内の圧力の変化によりペシャンコに潰れていた。

 男はホースを車両後部に巻き込んで器用に仕舞い込んでいく。ホース先端には人の糞尿が色濃く残っており、辺り一面に異様な臭いを撒き散らしていた。

 身震いしながら車両に乗り込む男。タバコに火をつけギアをドライブに入れ車はゆっくりと発進する。

 あっという間に車内はタバコの煙に包まれ、少し開いた窓から白い煙が後方へと静かに伸びてゆく。

 曇天の空からは陽光の光は微かに感じ取れるだけ。厚く覆った灰色の雲が上方向を支配しており、風のないこの地域一帯は一面の雪景色。こういう日が一番寒い。

 赤信号で車両は止まり、横断歩道を渡る学校帰りの小学生集団。渡り終えた小学生達はバキュームカーに向かってそれぞれにお辞儀をする。ペコリと頭を下げ相手への敬意を示す。歩行者用信号は青の表示をしている。

 田舎町のこの地域ではありきたりな日常の光景だった。横断歩道で車が止まってくれようものならば、異常なくらいに頭を深々と下げて運転者へのありがとうを体で示す。

 頭を下げられた男は目を細めて小学生集団を見送る。地域全体が親となり子供の成長を見守る。

 いつの時代からか他者との関係性が希薄になった現代の世の中。今でも地方都市部の奥まった地域では他者との交流が盛ん。濃厚な土着文化、限られたコミュニティーの中での生活。車で一時間も走れば都市部には行けてしまう距離だが都市部人間とは明らかに違う人種の人々。

 この男もそちら側の人間で、糞尿の汲み取りを生業として日々生活をしている。

 日常の日々の生活に存在する汲み取り専用の車。自身体内の内容物匂いを近隣住民にお届けする行為に恥ずかしがる住民などこの地域には誰一人として存在しない。

 下水道施設の整った、誰もが住みやすい都市は臭いものには蓋をする性質がある。他者との関わりを極端に恐れ隣人の名前も知らずに日々をぬくぬくと生きている。

 自分の中の匂いを、臭い匂いを。撒き散らかして嘘偽りなく生きてゆける。

 他人の匂いほど甘美なものはない。その人の性質を言葉を交えなくても理解できてしまう。鼻腔を刺激する臭い匂い。脳内麻薬を分泌させる人の糞尿の匂い。嗅ぎたい。饐えた匂い。吐き気を催すあの独特な匂い。

 腸内で濃縮された栄養分の残りカスが。吐き出され匂い物質を発生させ。濃厚な甘美な匂いとなって鼻腔を刺激する。

 あの人もこの人も腹の中にはエグいモノを持ち歩く。腹の中に抱えて日々を生活している。澄ました顔でエグいモノを持ち歩く。

 運転中の男は車内備え付けの灰皿でタバコをもみ消した。

 目を細めアヒル口で喋り始める男。

「糞尿はよ、俺っちにとっちゃ御馳走の香りみたいなもんでさ」

 車内助手席に人の姿はない。汲み取り車には男一人が乗っていた。

「腸内で熟成された皆様方の香りがよ、俺っち一番好きなのよね」

 男は上機嫌でアクセルを踏みハンドルを握る。口角の上がったシワの多い顔面。無精髭の口元と短く刈り上げられた四角い角刈り頭。色褪せた作業着を羽織り、タバコの匂いの染み付いた指先。

「うんこよ、うんこ、おしっことうんこの混ざった匂い。人は排尿し排便する生き物だ。その匂いを俺っちが一人楽しんで誰かに迷惑が掛かるか? 俺の人生だ俺の好きなようにさせろ。しかし冬の季節の匂いはなんともムカつく匂いだな、夏場が恋しいぜ。灼熱地獄の中の汲み取りの匂い、最高なんだよ」

 男の運転するバキュームカーはし尿処理場へと向かっている。タンク内の糞尿はそこで処理を終えてから海や川へと流される。

「俺っちの天職がこの仕事で本当に良かった。世の中にはさ色々なフェチズムを持った 人達が存在しているけどな、その大多数がお金を払って黄金に塗れるんだよ、俺っちはさ、賃金を頂きながら己の趣味嗜好を存分に堪能しているわけ」

 もう一本タバコに火をつける男。

「俺っちの名前は堂島淳ってんだ、堂島ちゃんでここいらでは通ってるからよ、仲良くしてくれよな」

 誰に言う訳でもなく独り言が止まない堂島。

 上目遣いにフロントガラスの上方向を見やる。

「天気悪いな~、だから冬って嫌いなんだよ。灰色のあの雲がよ、全てを覆っちまって心まで荒んでくるこの有様。この地域はよ、夜中になるとマイナス十度を下回る極寒の地よ。そこに住んで生活している俺っちはさ、妻子を持たない独身生活を謳歌してるってわけよ。俺っちにはさ崇高な趣味があるからさ、他には何もいらないのさ」

 風の存在しない真冬の国道を、スタッドレスタイヤを装着したバキュームカーは安全運転を心がけてひた走る。

「黄金に輝く黄金よ、人の放り出した無用の長物が俺には宝の山に見えるね。海や川に流しちまうなんてもったいねえ。俺っちの将来の夢はさ、埋もれて生きたいのよ。業深き人間の真っ黒い腹に溜まった糞尿にさ、埋もれて生きたいのよ、吐き出すなら俺に吐き出しな、全て受け止めてやるからさ」

 時刻は午後の四時過ぎ。太陽の光が届かないこの土地は日が暮れるのが異様に早い。

 歩道に雪かきされた白い塊が壁となってそこに存在し、道路と通路を分けるついたてのようになっている。

「警察の機能していないこの田舎町でさ、俺の本性を知ってる人なんて誰一人として存在しないんだよ。取締ることのできない警察署君に俺は大腕振って町を歩けるわけ。東京みたいな都会じゃ汲み取り車なんて存在しないんだろ? 面白くねえ街だな」

 空から綿のような白い雪が降ってきた。

「降ってきやがった、もう勘弁してくれよ除雪なんてめんどくせえよ」

 ぶつくさ言う堂島はへの字になった口元でハンドル部分に細かい唾を飛ばす。

 薄暗くなった夕方の雪道。車両のヘッドライトをオンにし対向車への注意喚起を促す。

同時に再びタバコに火をつけ白い煙を吐き続ける中年の男。車両の天井部分はタバコのヤニで酷く黄ばんでおり、染み付いた匂いはどう頑張っても取れそうにはなかった。

「早く家に帰って酒が飲みたい。俺っちはお酒強いよ、二日酔いなんてなった試しがない。お酒を分解する酵素が俺っちの体内には大量に生成されているのさ、酒をかっくらって今日の疲労ともおさらばってわけよ」

 し尿処理場から職場事務所への往復。雪道の道路状況に段々と顔を顰める堂島。空からはなおも綿のような雪が降り続いており、ここから今夜の天気は荒れるなと思った堂島。


 舞い落ちる雪は止む気配を見せない。やはり翌日明け方まで雪は止むことはなく、吹雪となって辺り一帯を白で覆い尽くした。

 白銀の上に茶色が存在し、やがて茶色の滴は赤黒く変わっていき、点々と雪の上に存在する赤い血痕。

 その先には糞尿に塗れた若い女性の遺体。その横に堂島が佇んでおり、手を揉みながら白い息を吐いていた。

「しばれるな~」

 限界集落に近いこの田舎町で、一件の殺人事件が発生し。奇怪な様相をまざまざと見せつけながら、物言わぬ臭い遺体が存在している異様な光景。

 疑いは匂いとなって堂島の体に染みついている。シャワーを浴びても消えない匂いとなって疑いは残り、追われる者へと着実に変貌を遂げていく。

 ――臭いモノには蓋をしよう。匂いは漏れ出すものだ。

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