第29話

      二十九


      夫


 やはり私と沙月は、夫婦とは言えないのだろう。お互いに遠慮し合って、決して本当の意味で交わることがない。

 私が中途半端なキスをしたせいで、その日のディナーでは私達の間を隔てる〝何か〟がさらに打ち破り難いものになっていた。

 二人とも何となく上の空で、普段ではわざわざ話さないほど些細なことばかりを話した。海沿いにあるイタリアンレストランで、ランタンを模した灯りにより、お互いの顔だけが、淡く、暖かく見えていた。

 その帰り道のことだった。私達は酔い覚ましのために、二人で長い一本道を歩いていた。私は沙月に何か話しかけたかったが、沙月も何の言葉も発さず、こちらの方を見ることもなかった。

「久しぶりに行ったけど、夜はまた良い雰囲気だったね」

 しばらくして、私はやっとの思いで沙月に声をかけた。この店は沙月と結婚する前のわずかな期間に、一度だけ来ていたところだった。

「うん」

 沙月は虚ろな声でそう答えた。私の話を聞いているのかもわからない。

「どうした? 何か気になることでもあるのかい」

 私は彼女の顔を覗き込んだ。

「ううん! 何でもないの」

 沙月はハッとしたように慌ててこちらを見る。

「夜もなかなか雰囲気が良かったね」

 私がそう言い直すと、今度は笑顔で「そうだね」と言ってくれる。

 私はふと思った。沙月は今日、楽しめたのだろうか。というより、沙月は私がいるこの二週間、楽しめているのだろうか。もっと言うならば、沙月は私との結婚生活そのものを、楽しめているのだろうか。

 私は今までこの尺度で沙月のことを考えていなかったことに愕然とした。私はやはりダメだ。真の意味で相手のことを思いやることができない。

 私は沙月といれば幸せだ。だが、沙月も同じだとは限らない。いや、おそらく高い確率でそうではないのだ。だって私は彼女に何も提供できていないのだから。

 沙月は私と共にいてくれる。しかし、いつまでもその無償の献身に甘んじてはいけないのだろう。私は沙月にとって、より価値のある存在でなければならない。信頼してもらえる存在でなければならない。愛してもらえる存在でなければならない。



      妻


 勝廣は私を愛してくれている。そのことは強く感じるし、それ自体は嬉しかった。しかし、なぜ勝廣がこれほど愛してくれるのか、沙月には分からなかった。自分は善人ではない。かつて犯した過ちもあるし、今はそのせいで、夫である勝廣を裏切り続けている。

 今、沙月が陥っている状況自体は複雑すぎて、その全貌を勝廣に知られることはないだろうが、度重なる不自然な行動によって、沙月が不貞行為を働いていることは明らかだった。

 しかし、勝廣は一度もそこを問い詰めてこない。いつでも同じ調子で話しかけてくる。

 勝廣は私をどう思っているのだろう。沙月は混乱していた。その愛は強く伝わってくるのに、まるで沙月の言動に無関心な勝廣のことが理解できなかった。

 レストランからの帰り道で沙月の頭にあるのはそのようなことばかりだった。時折、勝廣が話しかけてくるが、ほとんど耳にも入ってこない。

 しかし次の瞬間、沙月はそのようなことを考えている場合ではなくなった。頭が真っ白になる。前から、東城が沙月を監視している部下二人を引き連れて、歩いてきたのだ。


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